映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2019.1.09「家へ帰ろう」シネスイッチ銀座

2019.1.09「家へ帰ろう」シネスイッチ銀座

 

本年最初の映画。冒頭はダルシマーのUPから。ヴァイオリン、アコーディオンクラリネットコントラバス、ギター(あったか?) の賑やかな演奏。ユダヤ人の一族が集まっての大宴会。曲に合わせてみんな踊り出す。四拍子あと打ちの単純なリズム、マイナーのシンプルなメロ。コザックの踊りの様でもあり、東欧の舞曲の様でもあり、トルコやスラブの匂いもする。ユダヤ民族音楽なのだろう。僕には解らないが、このリズム、きっとナントカという名があるのだろう。幸せそうな人々。そこにクレジットタイトルが被る。

賑やかなタイトルバックから一転、孫に囲まれた偏屈そうな老人アブラハム (ミゲル・アンヘル・リラ) 、しっかりとした体躯に見えるが右足 (彼はこの右足をツーレスと呼んでいる) だけは引き摺っている。娘たちが、家を売りアブラハムを施設へ入所させることを勝手に決めてしまった。せめて孫たちに囲まれた写真を持って施設で自慢したい。ちょうどその撮影だった。一人写真に入るのを拒否している孫娘がいる。この子とのやり取りが面白い。i.Phoneを買ってくれたら入る、いくらだ?  孫娘とアブラハムが値段の駆け引きをする。孫娘は中々手強い。折り合った時アブラハムは孫娘を抱きしめる。お前は賢い商才にたけたユダヤ人だ、と言わんばかりに。

その夜アブラハムは、自ら仕立てたスーツを携えて、密かに家を抜け出し、生まれ故郷のポーランドへ旅立つ。ブエノスアイレスから飛行機でマドリードへ、マドリードから列車でワルシャワへ。老人のロードムービーだ。

飛行機の隣の席の若者はミュージシャンだった。マドリードではホテルの女主人マリア (アンヘラ・モリ―ナ) と宿泊代で孫娘の時と同じような駆け引きをする。夜、マリアに連れられてバーに行くと、マリアはそこで妖艶な老歌姫と化する。ピアノだけで唄う歌はシャレている。お金を盗まれるというアクシデントにも見舞われる。でもそのお陰で絶縁していたマドリードに住む三女と再会する。三女の腕にはアブラハムと同じ様な番号の刺青があった。アブラハムのそれはナチの収容所で入れられたユダヤ人番号。戦後生まれの三女のそれは何なんだろう。ホロコースト忘れまじと認識番号を刺青として入れる運動がユダヤ人の間であるのだろうか。僕には解らなかった。実は三女は一番ユダヤ人としての自覚があり父親思いだった。「リア王」のコーディリアだ。

 

パリでアブラハムはドイツを通らずにワルシャワへ行きたいと駅の係員に申し出る。係員にスペイン語は? イディッシュ語 (主にドイツの一部で主としてユダヤ人が使う言語) は? 英語は? と尋ねる。どれも話さなかった。パリの駅の係員が英語を話さないのだ。気高いフランス人は英語を話さないというのは今でも生きていたのだ。その時声を掛けてくれたのが文化人類学者のイングリッド (ユリア・ベアホルト) だった。私はイディッシュ語を話します、ユダヤ人? いえドイツ人、会話はそこで断ち切れた。アブラハムはドイツ人と接することもドイツの地を通ることも、ドイツという言葉を口にすることさえもしない。

結局は他に手がないということでドイツを経由してワルシャワへ向かう列車に乗る。車中でイングリッドの助けを借りることになる。途中の乗換駅で、ドイツの地を踏みたくないアブラハムは衣類を敷いてその上を歩きホームのベンチに座る。イングリッドに少しづつ心を開いていく。戦争中の話を語り始める。父母が目の前で殺されたこと、お話を作るのが上手だった妹は10歳に1ヶ月未たなかった為、トラックに詰め込まれ運ばれて行ったこと、その時の妹の見つめる目が忘れられないこと。“どれも聞いたんじゃない、実際に見たんだ”

イングリッドと別れ一人で列車に乗ったアブラハムはドイツの地とドイツ人に囲まれ、変調をきたす。戦争中の事が次々に立ち現れる。

気が付くとそこはワルシャワの病院。この無駄を省いた展開は小気味よい。切断されそうになったツーレスはちゃんと付いていた。看護師ゴーシャ (オルガ・ボラズ) に頼む。良くなったらウッチ (ポーランド第二の都市、大戦中ゲットーがあった) へ連れて行ってくれ。

次のカットはウッチへ向かう車の中、看護師が運転している。この展開も早い。かっての我が家、今は友が住むはずだ。

 

収容所から逃げて来た時、アブラハムの家は使用人のものになっていた。使用人夫婦はアブラハムを追い返したが、兄弟の様に育った息子が地下にかくまってくれた。戦争が終わり、いつかその友のスーツを作ると約束してアブラハムは南米に渡った。その後連絡は取っていない。果たして居るか。70年の時が流れている。生きているか。

半地下のガラス窓越しに老仕立職人が作業をしていた。目があった。二人は70年の時を越えて抱き合った。時を超え民族を超えて抱き合った。そして持ってきた青いスーツを手渡した。

 

死を前にして友との約束を果たす旅、それはドイツ人を許す旅でもあった。さらにはあの戦争を心の中で清算する旅でもあった。地続きなのに、多言語、多民族、多宗教、頻繁に変わる国境線、複雑な欧州が旅の途中であぶり出される。でも同じ人間であることに変わりはない。素朴にストレートにそんなことを感じさせてくれる。

出会った人は善人ばかり、綺麗ごとに過ぎるかも知れない。しかしホロコーストを経験した人は僅かとなり、多くの人の中では遠い昔の出来事と化している。だからこそ声高ではないが、ユーモアを交えジワリと沁みるこういう映画は必要なのだ。国、民族、宗教、それらの違いが強調され沸点に達した時、戦争は起きた。その教訓が、”みんな違ってみんなイイ” という視点だった。違いのその先には地続きの大地に住む同じ人間という視点がある。そこから見た時、個々の違いは止揚される。ネオナチ、極右政党、自国第一主義民族主義、移民排斥、そしてイギリスのEU離脱、大戦の教訓は効力を無くしつつある。EUは経済の先に大戦から学んだ理想を掲げていたはずだ。その理想が崩れつつある。宇宙人が攻めてこないとダメかも知れないなんて真面目に考えてしまう。

国民国家どうしがぶつかった時、最もシワ寄せを被るのは国を持たない民族である。国境に関係なく広がっている民、ユダヤ人やクルド人

 

音楽は沢山入っている。冒頭の舞踏音楽以降はこのメロをテーマにリズムがあったり無かったり、細かく画面に合わせた劇伴を展開する。クラリネットが大活躍、低音部を使ったり高音部を使ったり、時々グリッサンドを入れて効果的である。クラでない時はヴァイオリンが同じようにメロを取り効果をあげる。冒頭のバンド編成がそのまま劇伴でも生かされ、後ろには大きくない編成の弦。ドラマから距離を置く音楽ではない。しっかりとドラマの感情に則し、状況を語る。音楽がドラマを引っ張っているとさえ言える。メロディはマイナーだが決して安直に感情を煽るものではない。ユダヤメロなのかロマメロなのか、画面に細かく合わせつつ、しっかりと主張する音楽。ドラマに則したオーソドックスな劇伴として昨今では出色である。

 

冒頭の宴会に居た少年と幼い少女はアブラハムと妹だったのだ。爽やかで心温まる小品であると同時に、今の世界をジワリと考えさせる佳作である。

 

監督.アン・パブロ・ソラルス   音楽.フェデリコ・フシド