映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2019.2.02「菊とギロチン」早稲田松竹

2019.2.02「菊とギロチン早稲田松竹

 

昨年、見逃したもので一番気になっていた作品。それを早稲田松竹でやるという。初日に行った。3時間の大作。衝撃だった。

 

まず驚いたのは大掛かりなオープンセットと的確なロケ地の選択。出演者の多さ。これ以上カメラが引けないといったインディペンデントの哀しき貧しさが微塵もない。まるで大河ドラマの様なスケール。インディの先入観が見事にぶち壊された。「バンコクナイツ」(拙ブログ2017.03.31) を見た時と同じだ。

次に女相撲とギロチン社を見事に結びつけた脚本の力技、これには感嘆。

面白いという噂以外、事前情報は持ってなかった。多分ギロチンというあだ名の主人公が天皇暗殺でも仕掛けるくらいの話かと思っていた。名前しか知らなかった実在のギロチン社がモデルとは。初めのほう、ギロチン社が起こした事件を手持ちカメラが追う。どんな事件で、誰がギロチン社で誰が労働運動社かも解らない。東出昌大井浦新くらいは解ったが、あとは同じような年恰好の若者が威勢よく動き回っているとしか見えなかった。あとから公式HPを見て良く解った。先にチェックしておけば良かった。

でもそんなの関係ない。関東大震災が起こり、大杉栄が甘粕に殺され、朝鮮人の虐殺があった。大正12年9月、その時日本にいた女たちと男たちの物語だ。

 

農村で家畜以下の扱いをされていた女・花菊 (木竜麻生) が身重の身体で女相撲に飛び込む。嫁いだ姉が死んでその後添えとして嫁いだ。“逆縁”(正しくは逆縁婚) というらしい。昔は田舎ではよくあったと母から聞いたことがある。夫の暴力に耐えかねて農村から逃げ出し “強くなりたい” という一心で女相撲に身を投じる。

女相撲は旅回りの芝居に近い。エロを売りにするところもある興行だ。農村から逃げ出した者や家出した女、遊女上がりもいる。そんな訳あり女たちが親方の下で世間からはみ出した生活集団を作る。河原乞食だ。

 

一方のギロチン社、頭でっかちの若造たち、社会への憤りと正義感だけはある。生活感は全くない。革命を唱えながら日々酒と女に現を抜かす。短絡した志向によるテロは政治以前だ。リーダー格の中濱鐡 (東出昌大) とその弟分的存在の古田大次郎 (寛一郎) を中心に描く。

 

女相撲とギロチン社、この二つから共通項を見つけ出した時、この映画は成立した。それは“自由”だ。

女を人間扱いせよという叫び、貧困からの自由、男の暴力からの自由。“元始、女性は太陽であった” なんて宣言からまだ程無き頃、相変わらず女は男の圧倒的支配下にあり、世間はそれに何の疑問も感じていなかった。それに耐えられなくなった一部の女。男女平等なんて大それた要求ではない。ちょっとだけ自由に生きたいという願いだった。生活に根ざした地に足付いた願いだ。

男たちの “自由” は生活感がない。けれど国が一丸となって一つ方向へ向かうべく、そこからはみ出すものを弾圧しだした時代。自由にものが言えること。天皇の名の下に凄まじい同調圧力が加わり始めたことに対する反発。その思いだった。

どちらも国を一つ方向へ向かわしめようとする者たちにとっては整理しなければならないものである。全く違うようでいて、立場も運命も同じだった。生活に根ざした自由への希求、観念的ゆえによりピュアで強い自由への希求。たまたま興味半分で見に来たギロチン社の男たちと女相撲の女たちが出会い、共に同じ方向へと向かうことになる。その辺の脚本が上手い、面白い。

 

浜辺で中濱や大次郎が花菊や十勝川 (韓英恵) ら女相撲の面々と踊り狂うシーン。カーニバルと盆踊りとカチャーシーがごちゃ混ぜになった様なシーンだ。音楽はサムルノリ。みんなが目指すものは同じであることを肉体で確認するシーン。良いシーンだ。

 

中濱と十勝川、大次郎と花菊は惹かれあうようになる。中濱が、いつか満州に日本人も朝鮮人も差別せず、貧乏人も金持ちもなく、働く者が報われる平等な国を作る (不確か、そんな内容? ) と言う。夢物語かも知れない。しかしみんなはその夢を信じる。夢を語る奴は必要なのだ。

この映画は決して政治的ではない。政治という現実のベクトルに収斂する前の真っ直ぐな思いを描く。政治の次元になった時、有効性やら実現性やら妥協やらが入ってきて夢はスポイルされる。この映画はそれ以前の真っ直ぐな思いと夢を抱く若者たちの青春映画なのだ。

ただ、国を一つ方向に強引に纏め、天皇の名の下にそこからはみ出たものは容赦なく弾圧した、その背景をしっかりと踏まえているという点では極めて政治的である。

当時の世界を見渡して、為政者たちが選んだ方向、それが正しかったかどうかは歴史の問題だ。しかしそのシワ寄せは確実に末端に及ぶ。膨大な犠牲を強いられる。そこに居た若者たちの、“自由に生きさせろ!” という叫びの物語。それは同調圧力増す今の日本へと直結する。

 

理想の国を満州に作る、夢として語るのは良いが一つ間違えると危険な考えだ。岸信介は彼の理想の国の経営を満州で行った。甘粕は満映を作りそこで中国人と日本人が共存するような映画を作った。けれどそれは植民地政策であり、大東亜共栄圏といいながら共栄ではなかった。本当に共栄を考えていた者もいた。けれど結果としてそれらの人は植民地政策を支えることとなってしまった。中濱の夢は紙一重なのだ。

 

満州浪人”と言う言葉がある。息苦しさの増した国内に対し、満州にはそれに捉われない自由がある、そんな幻想があったのかも知れない。“満州で一旗揚げる” も似た様なものか。しかしそれが中国人の犠牲を前提とするということに無自覚だった。成り上がった日本の驕り、為政者はそれを上手く利用した。

バンコクナイツ」では満州浪人ならぬバンコク浪人が描かれる。主人公は驕れるバンコク浪人を指ピストルで撃つ。これは現代の話。

 

音楽はオッペケペ節や労働問題の歌等、当時唄われていた既成曲が自然に散りばめられている。あとは打楽器、時々入る太鼓とチャンチキの様な金属性の叩きものが効果的に入る。これがサムルノリなのだろう。サムルノリは個別の楽団名と思っていたが、楽団名であると同時にこの楽器編成で演奏するものを総称してサムルノリというらしい。この音楽はこの映画にとっても合っている。唯一のメロディー楽器は何ヶ所かに入る大正琴 ( ? )。 ソロによるシンプルなメロディー。安川午朗の手になるものがどれなのか、よく解らない。あるいはサムルノリも安川の作曲によるものなのか。大正琴(?)の曲が安川であることは間違いないと思う。2~3カ所だが的確で効果的だ。安川は、いつも言うが小編成の時の映画音楽は本当に良い。センスと映画の捉え方が的確なのだろう。

浜辺の盆踊りカチャーシーサンバにはジェンべとドゥンドゥンというアフリカの打楽器が使われているそうである。ネットの監督インタビューにそう記されていた。相澤虎之助の脚本に楽器が記されていたとのこと。さすが空族 (「バンコクナイツ」を作った製作集団、相澤はそのメンバー)、音楽系映画人である。この映画にどこか南方の風が吹くのは相澤のせいかも知れない。空族の目は日本人の物語をアジア・アフリカの視点で捉える。脚本に空族・相澤を選んだ瀬々監督の選球眼が素晴らしい。

 

中濱が捕まった後、倉地と大次郎が取っ組み合いをするシーンがある。ギロチン社の面々を良く見分けられない僕には突然倉地という人物が全面に出てきて違和感があった。中濱が捕まりギロチン社が方向を見失ったこと、中濱は深い考えもなく思いつきで行動する奴だったが大切な仲間だったこと等を言いたかったのだろうが、僕にはちょっと唐突だった。あのシーンは無しで良かったのでは…

 

東出がこんな弾けた芝居が出来ると思わなかった。新人・木竜麻生、僕は先に「鈴木家の嘘」(拙ブログ2018.11.29 )を見てしまった。どちらを先に見たところで絶賛に変わりはない。全く違う役を見事にこなしている。

良い映画は役者がみんな良く見える。役者が良いから良い映画になっているのか。韓英恵、新人だという寛一郎、親方の渋川清彦、山中崇在郷軍人会の大西信満女相撲の面々、そしてカメオ (役者としての実績もあるから当たらないか) で出演の正力松太郎役の監督・大森立嗣…

この企画を長い間温めて遂に実現させた瀬々監督、プロデューサー陣、僕はこの映画を作ったスタッフ、キャストを尊敬する。

 

監督. 瀬々敬久     音楽. 安川午朗