映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2019.5.08「記者たち 衝撃と畏怖の真実」TOHOシネマズ・シャンテ

2019.5.08「記者たち 衝撃と畏怖の真実」TOHOシネマズ・シャンテ

 

アメリカがイラクを攻撃した理由として大量破壊兵器保有があった。後で解ったが、実はデッチ上げだった。初めにイラクとの戦争有りき。ラムズフェルトを中心にそのシナリオに則して情報が都合良く並べられていく。オサマ・ビン・ラディンフセインは裏でつながっている、大量破壊兵器はあるに違いない、それを裏付ける様な事実だけをチョイスして並べた時、“かもしれない”はいつの間にか確信へと高まり、世論は一気にその方向へと流れて行く。TVの三大ネットワーク、ニューヨーク・タイムス、ワシントン・ポストクリントン民主党議員も、イラク攻撃すべし! に流れた。一旦出来てしまった流れを変えるのは難しい。最後まで反対したパウエルも遂に国連で攻撃支持の演説をする。

煽られた若者は軍隊に志願する。いつも庶民は単純な愛国心に燃える。それは戦場に行くということであり、殺し殺される世界だ。国を思う気持ちと他国民を殺し殺される現実には大きな乖離がある。映画は冒頭、志願しイラクへ行き、脊髄を損傷して今は車椅子の若者が裁判で “なぜ戦争をしたのか?” と問うところから始まる。

アメリカには自分たちの民主主義が全世界の人々を幸福に導く最良のシステムであると本気で思っている人がいる。我が民主主義を拡めねばならない。中東全域のイスラエル化? その背後には産軍複合体としてのビジネスがあり石油がある。理念と利害が複雑に絡み、そこに2001年、9.11 が起きた。そこからは雪崩を打つ。

“なぜ戦争をしたのか?”の問に映画は政治や経済や理念や国際情勢といったロングの視点からではなく、身近なヨリの視点で答えようとする。具体的には二つの問題に絞る。政権が嘘をついている。それによって自国の若者が死んでいく。イラク側の視点は無い。これはアメリカの映画だ。アメリカが自らの過ちを認める映画だ。

 

地方紙へニュースを配信する会社ナイト・リッダー社のジョナサン・ランデ― (ウッディ・ハレルソン) とウォーレン・ストロベル (ジェームズ・マースデン) が政府発表のニュースに疑問を抱く。本当だろうか。二人は裏を取る為に取材を始める。ニューヨーク・タイムスやワシントン・ポストなら大物政治家への直接取材が可能だが、彼らにはその伝手がない。下級職員や下っ端への取材だけだ。結果を支局長 (ロブ・ライナー) に上げると、これではまだ確証には至っていない、と突き返される。

時々二人の家庭生活が入る。ジョナサンはバツイチ、隣に越してきた美人学者が気になっている。ウォーレンは妻 (ミラ・ジョボビッチ) に取材案件を話すとこの家盗聴されているかも知れないと騒ぐ。彼女は旧ユーゴ出身なのだ。

政府の発表にはニュースフィルムを使っている。ブッシュもラムズフェルドもパウエルもそのまま本人だ。イラクのニュースも実写である。政治の決断で多くの若者を死に至らしめた、他国に介入する悪しき前例としてベトナム戦争のフィルムも挿入される。

取材する二人、家庭、ニュースフィルムが絶妙なバランスで配置され、本物の政治家をほとんど役者扱いで取り込んでいる。展開は早い。追い切れない。一つ一つの事実を暴いていくのだが、こちらがそれをちゃんと理解して、遂に全体の嘘が解ればより面白いのだろうが、老人 (私?) の視力と理解力では追いつけない。でも踊らされる世間の流れに、それは嘘だと言い続けるナイト・リッダー社の熱と使命感は解る。それで良い。

多くの証言を得て、支局長が、“よし、これで行け”とGoサインを出した時は、時既に遅し、世間はイラク攻撃一色に染まり、この配信を記事化する地方紙は一つも無かった。

苦い終わり方である。最後に“イラク攻撃の理由がデッチ上げと言い続けたのはナイト・リッダー社だけだった” (不確か、そんな意味) というテロップが流れる。

 

音楽は取材の進行に合わせてサスペンスを盛り上げかなりベタ付け、ドラマに合わせてグイグイと引っ張って行く。今風のエンタメ映画の音楽としては王道、職人技である。しかし音楽の効果もあってかあまりに一直線。途中自分たちの取材に対して疑問は起きなかったのか、社内は果たして一丸となっていたか、政治的圧力は無かったか。出来ることなら音楽を全部外して観てみたかった。そこに一直線ではない微妙なニュアンスが立ち現れたかも知れない。

音楽を付けることによってより分かり易く明解になり、でも単純化される。そうしなければ持たない映像ならともかく、これは音楽で引っ張って行かなくても充分持つ。ハリウッド流、解り易く作ることも必要だがモノによっては観る側に考える余地を残すことも必要なのではないか。

そう言えば「スポットライト 世紀のスクープ」(拙ブログ2016. 5.12) もマイナーなPf曲がベタについて感情を規定してしまっていた。真実追及一直線のところはよく似ている。どちらも音楽外したらきっともっと良くなった…

 

支局長が監督自身であることを観終わって知った。中々の名演。缶コーヒーの宇宙人(トミー・リー・ジョーンズ) が気骨あるベテラン記者でちょっとだけ登場して渋い。

 

世論は作られる。大衆は感情的情緒的で雰囲気に左右される。今政治はかつてより世論を気にするようになった。上手く世論を操作すれば政治的力となる。世論作りで大きな力を持つのがマスコミだ。しかし今TVは大衆迎合ウケ命、世論に合わせて行くメディアでしかない。かつて世論形成に大きな力を発揮していた新聞はネットに押されてマスコミの主役の座から追われつつある。ネットはどうか。新聞雑誌の記事をつまみ食いして面白おかしく流す、ブログもツイッターも思いつき瞬間芸ウケれば何でも良いの世界。ペラッペラで底の浅いツイッター政治家が蔓延している。言った者勝ちの世界。そこで作られる世論なるものは一体何なのか。

イラク戦争 (2003) は何年前だったか。でもこの映画で感じることは何よりまだマスコミ、新聞というものが世論形成に責任と力を持っていたということだ。“あの頃は良かったなぁ“ である。でも、こういう映画が生まれるアメリカ、まだ捨てたものではない。

 

監督. ロブ・ライナー  音楽. ジェフ・ビール