映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2019.6.24「ゴジラ  キング・オブ・ザ・モンスターズ」新宿ピカデリー

2019.6.24 「ゴジラ キング・オブ・ザ・モンスターズ新宿ピカデリー

 

日本の特撮映画だったらまず冒頭は主人公の紹介と日常描写だ。あるいは突然、ゴジラがどこどこに現れましたと特撮が短く入るも日常に戻る。本格的に特撮が始まるのは中盤以降。それまで人間達のゴジラとの関わりがドラマとしてある。このドラマがどのくらいしっかりと描けているかで、後半の特撮のリアリティが変わって来る。だが長い尺は割けないし、ゴジラ登場の理由づけが主となるのでどうしても深いドラマにはならない。

これまでのゴジラ映画で登場までの理由づけを一切省いたのは「シン・ゴジラ」(拙ブログ2016.7.25)だけだ。ゴジラは無前提に出現した。理由づけはこれまでに散々行っている。それはもういりません。ゴジラが現れました。さあ日本のみなさん、どうしますか?  ゴジラ=危機である。それに対する政治家、科学者、自衛隊、外交官等の動きが、今の日本の法律や軍備や外交をリアルに反映させて描かれる。この視点は新鮮だった。

 

邦画で特撮が中盤以降になる理由がある。それは特撮にはお金がかかるということ。だから後半に集中させて、しかもここぞというシーンに手間隙お金を集中させて、それをメインビジュアルとして“売り”とする、限られた製作費による、そんな事情がある。

ところがこの映画、始まって直ぐに巨大なモスラの卵の爆発(孵化)だ。あとは次から次にお金と技術を駆使した特撮のオンパレード。それが終わりまで続く。全編が、日本でいうところの “売り” とする特撮シーンの連続だ。

主人公が誰なのか、どういう状況なのか、ここはどこか、そんなことは二の次、目を見張る特撮シーンの連続。ただただ次々に登場する怪獣の戦いに呆然とする。その内豪華特撮に慣れてしまい、たまに挟まる効果音も音楽も無いコントロールルームの人間の描写にホッとしたりさえする。

セコイ我々は出し惜しみをして勿体を付けて、ここぞという特撮への期待を煽る。こちらは全くそんなことをしない。期待する間も与えず豪華な特撮を連発してくる。もう特撮満艦飾に身をゆだねるしかない。

 

ストーリーはもちろんある。主人公は家族、ファミリー物である。マーク (カイル・チャンドラー) とエマ (ベラ・ファーミガ) は科学者、二人の子供、男の子の方はゴジラの犠牲になっている。「GODZILLA」(2014)の話を引き継ぐ。エマは鳴き声を解析して、すべての怪獣に通じる発声装置 (オルカ) を作る。途中まで時々出てくるオルカという言葉が解らなかった。怪獣の名前かと思っていた。エマと娘はエコテロリスト集団に連れ去られる。エマはこの集団のシンパだった。マークは芹沢猪四郎博士 (渡辺謙) らと未確認生物特務機関モナークのメンバーとして怪獣たちと戦う。これらはあとで反芻して解ったこと、観ている時はそんなこと解らなかった。

 

芹沢博士は言う。人間は生命体としての地球を蝕んでいる。このままだと地球も人間も消滅するだろう。怪獣はそれに怒っている。怪獣は人間より先に地球にいた先住生物 (守護神)、人間は怪獣の存在に謙虚にならなければならない。

怪獣を人間のペットにするのではない。人間が怪獣のペットになるのだ。

モナークはこの思想に基づく。これは最初の「ゴジラ」(1954) の思想を継承する。

この思想を出発点とし、これまでの邦画ゴジラシリーズ及びハリウッドゴジラが積み重ねてきたストーリーを随所に巧みに散りばめる。

芹沢博士はオキシジェンデストロイアーならぬ核弾頭を持ってゴジラを蘇生させるべく体当たりをする。エマは最後に自らが発明したオルカと共に消えていく。キングギドラは地球外からやって来た怪獣、モスラは美しき地球の守護神、マニアが見ればレスペクトやオマージュはもっともっと沢山見つけられよう。

よくぞここまで、これまでの積み重ねを反映させたストーリーを作ったものと感心する。スタッフのオタク度の高さに脱帽する。

だが芹沢博士の死もエマの死も実にあっさり、そんな所でエモーショナルになっている暇はない。深い人間ドラマを期待するのは筋違い、ストーリーは特撮を並べる為の台紙の様なもの、この映画にはそんな割り切りがある。

舞台は南極だったりボストンだったり、戦艦大和のような軍艦が出てきたり、「沈黙の艦隊」の様な潜水艦が出てきたり。オスプレイは飛びまくる。場所の違いも位置関係も解らない。と言うよりそれは何の問題も無い。

地球のあらゆる怪獣が目覚め、キングギドラに操られて世界中で暴れまくる。世界はパニック阿鼻叫喚。逃げ回る群衆シーン。あゝ、昔あんなシーンにエキストラで参加したっけ。しかしそのリアリティはない。必要ない。観たいのは特撮だろう?

 

音楽と効果音はのべつ幕無し。ゴジラの鳴き声は日本のものに近い。音楽は画面に合わせて丹念な劇伴である。スコアを書くのは大変だったと思う。ゴジラの登場シーンには伊福部昭テーマが流れる。モスラには古関裕而メロ。僕はそれだけで充分だった。ゴジラに伊福部テーマは007のテーマと同じで不可分。このハリウッド映画はそれをキチンとやってくれた。劇中での両テーマはフルサイズでは流れない。それでもオリジナル劇伴がメロというよりサウンドであるのに対し、二つのメロは圧倒的。特に伊福部メロは、贔屓の引き倒しかもしれないが、多を圧倒して燦然と輝く。

何ヶ所か宗教的テイストのシーンには混声コーラスが分厚いオケの後に這って効果的。贅沢な使い方である。男声が同じ音程をお経の様に朗唱する。私の耳のせいか”アーシーアナロイ~” と言っているような… 一度観なので不確か。マニアの方,分かったら是非教えてほしい。

エンドロールで伊福部テーマと古関メロがようやくフルサイズで奏される。スタッフの並々ならぬレスペクトを感じる。モスラはあの歌謡曲っぽい間奏まで奏している。

一つ気になったこと、伊福部テーマのゴジラ登場の12音階の方、終わりの2拍3連の前2分音符3つ、抜けているのでは? 体勢に影響はないのだが長年聞きなれているので、あれっ? と思った。聞き違いかも知れない。マニアの方、これも分かったら是非教えてほしい。

エンドロール前のクレジットで流れた歌、あれはブルーオイスターカルトの歌? 昔の音源? それともまさか新録? これも分かったらお願いします。

 

時々気の効いた台詞があった。ダイアローグライターの手になるものなのだろうか。シャレてると思うもほとんど忘れてしまった。ギドラ? ゲリラ? だけ覚えている。

前作でもそうだったが、核はアメリカ人にとっては“最も強力な兵器”でしかないことは変わっていなかった。

画面左奥にキングギドラ、右手前に木製の十字架というワンカットがあった。こんなことが起きようとは30年前には想像もしなかった。

伊福部テーマは世界を席巻した。

 

目覚めたゴジラキングギドラを倒して、地球の怪獣たちが頭を下げひれ伏す。あなたがキングです!  次作はついにもうひとりの王キングコングと対決するわけか。邦画のゴジラは一体どんな手でこの豪華絢爛に対抗するのだろう。

 

監督.マイケル・ドハティ   音楽.ベアー・マクレアリー