映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2019.9.18「サタンタンゴ」ヒューマントラスト有楽町

2019.9.18「サタンタンゴ」ヒューマントラスト有楽町

 

第1章 ファーストカットで眠りに落ちる?

ラソンに臨むような気持で見た。

ファーストカットはひと気の無い寒村、そこのぬかるみの広場に放たれた牛の群れ。一頭がカメラに近づいて来たのでそれに意味があるのかと思ったらそうでもない。その牛はいつの間にかカメラ前から去り、奥には交尾する牛。テンデンばらばら、好き勝手にしている。その内どの牛がリードしたという訳でもなく、みんながゆっくりと広場の左側へ移動し、カメラもゆっくりゆっくりとパンしてそれを追う。牛たちは広場の外れでようやく建物の影に消え、そのカットは終わる。ファーストカットで眠りに付ける人もいるだろう。

カメラが切り返して、それらを見ている人として人物を登場させるのかと思った。が、そうではなかった。手前から見つめるこのカットは誰の視点なのか。

ヒューヒューという風音、その音が周りの静寂を強調する。背後にゴワーンという様な音が薄っすらと這っている。初めは聴こえるか聴こえない位、それが少しずつ大きくなっていく。多分鐘の音、それを変調させて、この音を作っているのか。この音はこれから何度も出てくる。

 

第2章 普通の映画を観るつもりではダメ!

室内、男二人が延々と、みんなの一年分の給料を盗んで逃げるという企みを話す。カメラは話す顔も話してない時の顔も、どんな表情も逃すまいとワンカットで追い続ける。そこに流れる時間と見ているこちらの時間は同じである。それはこちらに変な緊張をもたらす。

普通の映画は、映画がどんどん引っ張ってくれる。筋立てや台詞によって、あるいは編集によって自在に時間をコントロールして、必要な時はアップで強調したりして。

この映画はそれを一切しない。こちらがそれを読み取らねばならない。しかし耳慣れない人名が沢山出てきて誰が誰やら。解っているのは、ここはハンガリー、街から遠く離れた食うや食わずの集落、秋の雨期の季節に入り、街との行き来も容易ではなくなっている。時代は社会主義が行き詰まった頃、ということ位。これで男二人の表情とポツリポツリとした会話で行間を埋めるのは至難の技だ。普通の映画のつもりで見た人は眠りに落ちる。つまり、この映画は普通の映画ではないのだ。こちらがビット数を上げる (下げる?) 必要があるのだ。映画に対する態度を変えることを迫られる映画なんて滅多に無い。

 

第3章 タンゴに合わせて12章 休憩2回 3パート

時々黒味が入り、文字とナレーションで章立ての説明が入る。12章に分かれていたことは後で知った。タンゴのステップに合わせてのことらしい。上映は3パートに分けられ、二回の休憩が入る。

前半6章はほとんど一日かそこらの出来事、映画はそれを視点を変えて丹念に描く。時間は行きつ戻りつする。

 

第4章 雨は降るが傘は差さない日も射さない、効果音が主役のよう

この映画に太陽の日射しはない。ただひたすら鈍色の空、そこから絶えず雨が降る。明かりは唯一夜の酒場、それ以外に光は無い。人々は何故か傘を差さず、ぬかるんだ道を厚い皮のコートを着て行き来する。皮のコートが古くなると固くなって座るのに難儀するなんて延々と喋る。

各シーンには効果音が長いワンカットに通奏して流れる。牛の鳴き声、時計のカチカチ音、ポタポタという雨だれ、土砂降りの雨音、風音、虫の羽音、ぬかるみを踏むグチャグチャ音、教会の鐘、どれも現実音扱いというよりシーンの主役としてオンオフ付けずに通奏して流れる。まるで全体の構成を音で組み立てているようだ。

そして息づかい、これはリアルを越えて強調されている。

 

第5章 時系列の整理

廃墟の様な集落、そこに住んでいる10人たらずの人々、雨がビチョビチョと降り続く。

時系列で整理すると、恐らく最初は街の警察署の廊下である。そこに座っている二人の男、イリミアーシュとペトリナ、もしかしたらこれが唯一かも知れないカメラの切り返しがあり、二人は警視の部屋に呼び込まれる。そこでのやり取りはよく解らない。ジプシーではないとかロマではないとか、ただ二人は社会主義経済の中で“働かない罪”で収監されていたことは判る。警視が自由と秩序の話をする。そして言う “君たちに他の選択肢は無い”

唯一の選択肢、蜘蛛のお仕事 (煽動と密告) をする為にイリミアーシュとペトリナは集落に向う。縦の遠近法、ゴミの舞い上がる中二人のうしろ姿をカメラが執拗に追う。まるで集落までの道のりを延々と同行するかの様。

その頃、集落ではイリミアーシュが帰ってくるという噂で持ちきりだった。これが物語の発端、人々は右往左往する。唯一 “これで変わる” と呟くフタキ。

 

第6章 金の成る木と少女と猫と

イリミアーシュの子分でもある兄に騙されて、金の成る木を生やすべく種となるお金を埋める少女、再び戻って掘り起こすと金はない。兄に詰め寄るがあしらわれる。少女は納屋で自分より弱い猫を、粗相をしたと叱り虐め、殺す。

夜、土砂降りの雨の中、唯一の光である酒場に引き寄せられて窓越しに覗いた少女は、パーリンカ (ハンガリーの酒) を飲みながら踊り狂う大人たちを見る。

そこに、酒を買いに出てきた先生と遭遇する。が、ぬかるみの中で足蹴にされる。先生は少女に悪戯をしたことがあるらしい(不確か)。少女は先生に救いを求めたのか。その時背後をイリミアーシュ、ペトリナ、少女の兄、の三人が通過する。背景にスモークを焚きライトアップして美しいシーン。

少女は彷徨った末にたどり着いた廃墟 (「禁じられた遊び」を思い出す) で猫の屍骸を抱きかかえながら猫いらずを飲んで絶命する。“心は平穏で、天使が迎えに来るのが分かった” というナレーションが入る。果たしてそうなのだろうか。

 

第7章 蜘蛛の巣は気づかぬ内に張りめぐり

「蜘蛛の仕事 その一」と名付けられた章、酒場にはいつのまにか異様な臭いが漂う。地面から立ち昇っているよう。「蜘蛛の仕事 その二」では集落のほぼ全員が酒場に集まって踊り狂う。アコーディオンが執拗に同じメロディを繰り返し、狭い人数の中で相手を代えながら同じようなダンスを繰り返す。

力尽き皆寝入ってしまったそこに地面から異様な臭いが漂う。イリミアーシュが浸透する。その頃少女は絶命していた。これも蜘蛛の仕事に入るのか。

 

第8章 時間模型の切り分け

これらの出来事が多視点で分解され、時間は多層の時系列で前後し、再び塊となって映画を形作る。

ドカッと差し出された時間の塊にはどこかに関連を示す映像が入る。

家の壁に隠れて企みを盗み聞いたフタキの姿は、部屋からこの集落を観察し記録する先生の窓越しからのロングの映像である。

酒場を覗き見た少女の顔は、サタンタンゴを踊り狂う酒場の内側から、窓越しの顔として入ってくる。

イリミアーシュたちがどこどこを歩いて来るという話は、少女を足蹴にした先生の背後に写りこんでいる。

タル・ベーラはまるで面白がっているようだ。現実全体を描くということは、こういうことなんですよ、映画にはこんなことが出来るんですよとでも言いたげに。

 

第9章 二度観たバカ

後半の章はイリミアーシュの演説から始まる。

僕は実はこの映画を2度見した (2019.10.01 イメージフォーラム) 。7時間18分の2度見、これは我ながら自分を褒めてあげたい。その上、いつもパンフレットは読まないのだが知人から借りてパンフレットも読んだ。それでようやくここまで理解出来た。1度見の時は誰がイリミアーシュかも解らず警視と会話する二人は子分だと思っていた。イリミアーシュは居るのか居ないのか分からない、人々の空虚が作り出す共同幻想のようなものと勝手に思っていた。だから後半冒頭で生身のイリミアーシュが登場し、少女の死を利用して見事な大アジテイションをしたのには驚いた。タル・ベーラは曖昧を許さない。

イリミアーシュ (ヴィーグ・ミハーイ、音楽も担当している) は端正な顔立ちの人、扇動者にはスター性が欠かせない。後半は時系列も直線で、多少の疑心暗鬼はあるものの人々は見事にイリミアーシュの蜘蛛の巣に絡め取られていく。元々、冒頭の牛の群れの様に自分の意思を持たず、誰引っ張る訳でもないが何となく群れてしまう、警視が言った“自由が怖い”人々、自由からの逃走、イリミアーシュにとっては赤子の手を捻るようなもの、理想の農園をチラつかせて金を巻き上げ、情報収集の為に新たな職場に送り込む、蜘蛛の巣網の完成である。唯一、“死をおそれる”フタキだけは一人自分の道を歩み始める。

 

第10章 冬ごもり

先生はパーリンカを絶えず飲みながら、自室の窓から集落を見て記録する、観察者だった。少女と遭遇した夜、行き倒れて病院に担ぎ込まれていた。その間に集落は蜘蛛の巣に絡め取られてしまった。もぬけのからとなった集落に戻った先生、そこでとっくに崩れ去ったはずの教会の鐘の音を聴く。無いはずの教会へ行くと“トルコ軍が来るぞ”と叫びながら鐘を突く男が居た。

在るはずの無い教会の聴こえるはずの無い鐘の音を聴いてしまった先生は窓を塞ぎ光を遮りノートに記す。“フタキは鐘の音を聴いて目を覚ました。一番近い礼拝堂は8キロ離れているが、そこには鐘が無かっただけでなく、戦時中に塔も倒れてしまっていた” 冒頭、牛の群れに続いてのシーンのナレーションである。話は振り出しへ戻る。

 

第11章 アコーディオンと鐘

音楽はアコーディオンの三曲のみ。一つは酒場で踊り狂う時の執拗に繰り返されるダンスの曲。二つ目は、酒場狂乱の最後の方、ハリチ校長がカッコ付けてオッパイおばさんシュミット夫人を、タンゴはいかが?と誘って踊る「サタンタンゴ」、この曲はここだけ。一番重要で何度も登場するのは、この集落のテーマあるいは人々のテーマと言ったらよいか、マイナーの情感溢れる曲。初めて集落を主観移動で紹介するカットに登場し、その後も頻出する。けっして前向きの曲ではない。どちらかと言うと、人々を嘆くような意味合いか。劇伴と言えるのはこの曲のみ。そしてこれも頻出する鐘を変調させた這う様な効果音に近い曲。これがこの映画の通奏低音で主題かもしれない。もしかすると“トルコ軍が来るぞ”と鳴らした鐘が原型か。

 

第12章 我が脳の限界と縦と横

2度見しパンフレットも読んだがどうしても解らないことがある。一つは「宇・宙・的・経・済」、これは何を意味するのか。社会主義の絵に描いた餅的経済を揶揄しているのか。

もう一つは無煙火薬。イリミアーシュは無煙火薬の話をしていた、あるいは武器商人の様な男とこの話をする。廃墟と化した集落を破壊しようとする為か、密かにテロでも目論んでいるのか。

そしてもう一つ、僕がこの映画に一番惹かれたところ、それはこの集落への出入りがいつも縦の遠近法であること。イリミアーシュとペトリナが街から集落へ向うゴミ舞う中の手前から奥への一直線、アルカリ土の道を奥から手前に来る一直線、少女の兄も加えた三人が集落をあとにする奥に向う一直線、兄と少女がお金を埋めに行く一直線、帰ってくる一直線、その他この集落へのインとアウトはすべて縦の遠近法で長~いカットだ。

一方、集落の中の描写はほとんどが横移動、冒頭の牛の群れ、酒を買いに行く先生、思い出せないがもっと沢山あったはず。

一度見の後、頭にこびり付いたのはこの縦のイン・アウトの一直線だった。どれも人物が米粒になる位まで追う。集落へのイン・アウトを超えて、どこから来てどこへ行くのかという宇宙的な気分にさせられる。この集落とは何なのか。深読みというより映像が問いかけて来る。僕はそこに引っ掛かり、そこに惹かれて、2度見した。この映画はこの縦の遠近法が全てなのではないか。もしかしたらタル・ベーラはこの縦を描きたかったのではないか。話はその為のお膳立て?

アコーディオンの集落のテーマは横に呼応する。ゴワーンという鐘の曲は縦だ。どこかから現れ、サタンタンゴを踊り狂い、どこかへ消えて行く。唯一覚醒しタンゴは踊らなくなったフタキ (そうか、彼は足が悪くて初めから踊らなかった?) もいつかは縦の線の奥に消えて行く。正確な意味は解らない。

 

監督. タル・ベーラ  音楽. ヴィーグ・ミハーイ