映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2019.11.08 「ジョーカー」日比谷TOHOシネマズ

2019.11.08 「ジョーカー」日比谷TOHOシネマズ

 

自分の存在理由を全て否定されたらどうなるのだろう。アーサー(ホアキン・フェニックス)はこの世のものとは思えない異様さで笑い出す。そして自分から意図せぬも、周りから与えられて、負の存在理由を得ることになる。ジョーカーの誕生である。

 

僕は「バットマン」はティム・バートン作品しか見ていない。印象に残っているのは「バットマンリターンズ」(1992)のミシェル・ファイファーキャットウーマンダニー・デヴィートのペンギン男くらい。バットマンは全く印象に残らず。「バードマン」(拙ブログ2015.4.30) で改めて“この人だったのかとマイケル・キートンを思い出したくらい。クリストファー・ノーランバットマンは未見である。

 

冒頭、アーサーの異様なUP、福祉相談員セラピストに向かって“僕が狂っているのか、世間が狂っているのか”(不確か) というのが最初の台詞。“日記は付けているの?”という毎回同じセラピストの質問、薬を増やしてほしいと弱々しくアーサー。映画のラストも同じセラピストとの対峙。この時、ジョーカーとなったアーサーは自信に満ちている。この間に何があったのか。それがこの映画である。

 

アーサーはコメディアンを目指しているが今は出張ピエロ(チンドン屋みたいなもの?) の仕事をしながら母親の介護をしている。ピエロのメイクをして閉店セールの看板を持って店の前に立つ。賑やかな街中でおどけたステップを踏む。それに合わせてホンキートンクPfでラグタイムが流れる。これが最初の音楽。それに合わせてオールドファッションのタイトル文字が出る。50年代60年代のアメリカ映画の匂いがする。

悪ガキが現れて看板を奪い、追ってきたアーサーをボコボコにする。アーサーは抵抗しない。弱い。親方に看板を弁償しろと言われる。同僚が護身用にと押し付けがましくピストルを貸してくれる。子供病院慰問の仕事でダンスを踊っている時ピストルが床に落ちた。それが問題となって首になる。

 

ボロアパートでは母が帰ってきたアーサーに向かって、郵便ポスト見てくれた? と必ず言う。30年前に働いていたというウェイン家に母は毎日手紙を書いている。トーマス・ウェインはお金持ちの良い人、きっと私たち二人の苦境を救ってくれる。ウェインはゴッサムシティの市長選挙に立候補している。

 

アーサーは意味無く笑い出すという病を持つ。おそらく心の許容範囲を超えた時それが起こる。そして貧乏ゆすりも。周りは気持ち悪がる。バスの中で振り向いた子供を笑わせた時、脇の母親が “かまわないで!”(不確か) と言った。それに反応して笑いが止まらなくなる。異様であり気持ち悪い。笑いながら名刺を出す。そこには “笑うのは病気の為です” 裏に “読み終わったら返却して下さい” (不確か、そんな意味) と記されていた。

確かに気味悪い。

 

首になった日、地下鉄でエリートサラリーマン風の三人の男が若い女性客をからかっているところに出くわす。落書きだらけの地下鉄、夜一人で乗ってはいけないと言われていた70年代NYの地下鉄だ。それを見たアーサーが笑いの発作を起こす。何笑ってんだ!、無抵抗のアーサーに襲い掛かる。咄嗟に持っていた拳銃を撃つ。一人が吹っ飛び、二人目も倒れる。三人目は追い駆けて人気のない駅の階段で撃つ。拳銃がアーサーの怒りの出口を作った。初めて抵抗した。そこに「Smile」(Jimmy Durante) がC.I、一瞬だみ声にナット・キング・コールかと思ったが違った。でも女声コーラスが入って映画に合ったアレンジである。一気に高揚する。世界が開ける。興奮に任せその足で密かに憧れて居たアパートの隣人の部屋をノックして、彼女を抱きしめる。幻想か現実か分からない。

拳銃は怖い。怒りを異様に拡大し解放し形にしてしまう。「タロウのバカ」(2019) を思い出す。

暗かった映画がここで一気に負の明るさを放つ。

三人の男はウェインの会社の者だった。ウェインはTVで社員は家族同然、それを殺害されたと怒りを顕わにする。巷では困窮した者たちが金持ち憎しからピエロの扮装をした犯人をヒーロー扱いする。アーサーは密かに社会が自分の存在を認め始めたと感じる。ゴッサムシティ(ブルックリン?) の裏町の階段を、捜査する刑事を尻目に、「Rock and Roll Pt.2」(Gary Glitter、多分) のEGに合わせ、軽快なステップで踊りながら駆け降りる。

 

偶然、母がウェイン宛てに書いた手紙を見てしまう。そこには昔、母とウェインは関係があったこと、身籠って母は身を引いたことが書かれていた。もしかして自分はウェインの子…

 

海沿いを郊外に向かう中距離列車の空撮大ロング、実に効果的。少し前にはゴッサムシティ(NY)の摩天楼の真ん中を垂直に通る道の空撮大ロングがあった。この二つは映像的アクセントとして効果絶大。但し僕はこの2カット、ちょっと生過ぎると感じた。暗い色調の中に突然「世界の車窓から」の様な映像が入った気がした。少し映像的処理をした方が良かったのでは。

 

郊外のウェイン邸の門を挟んで中の子供と向き合う。アーサーは手品をして気を引く。子供は無表情だ。この子供、ウェインの息子ブルース・ウェイン、後のバットマンである。コミックとの繋がりにちゃんと気を配る。駆けつけた老執事は母の名前を覚えていた。“あの妄想癖の女! ”

 

TVショーのホスト・マレー(ロバート・デ・二―ロ)はアーサーの憧れだった。若き日、公開収録の場で、掛け声がきっかけで彼にステージへ招き上げられたことがある。“君にはコメディアンの才能がある” (不確か) この言葉がアーサーの人生を決定づけた。思い込みか、それとも幻想か。

 

慈善団体の集まりの会場に潜り込んだアーサーはトイレでウェインと二人だけで向き合う。母親と関係は無かったこと、極度の妄想癖で病院に収容され、その後養子を貰うもその子を虐待したことを話される。アーサーは優しい言葉が欲しかっただけだった。それに対しウェインは強烈な一発で応えた。アーサーは吹っ飛ぶ。この一発、これがアメリカの正義だ。デカいこと、強いこと、そして金持ちであること、アメリカンマッチョだ。アーサーは、痩せて、弱くて、貧乏だ。会場の外にはアーサーと同じ様な人たちがピエロのお面を付けて集まっている。

 

母が入院していたという病院、そこの資料室にそれらを裏付けるものが残っていた。アーサーは養子であり、出生は不明、妄想癖の母とその同居人から虐待を受けたこと、が記されていた。養子申請の書類も残っていた。アーサーはそのファイルを奪う。アーサーのルーツは全否定され存在理由は無となった。アーサーは母を殺害する。

 

投稿した異常な笑い方の映像が変な評判を呼び、TVのマレー・ショウに呼ばれる。ピエロのメイクのアーサーに外で暴動を起こしているピエロの仮面の集団を煽るのではと危惧するプロデューサー。アーサーは自分に全く政治的意図はない、そして本番では自分をジョーカーと呼んでほしいと言う。何故ジョーカーなのか。これが解らなかった。僕が聞き逃したか見逃したのか。

番組の本番で、地下鉄の殺人は自分であると告白し、マレーをその場で射殺する。カメラに向かって話そうとしたところで放送は中断、テストパターン映像となりハーブ・アルパートの「ティファナ・タクシー」がノー天気にC.Iする。このメリハリが良い。

 

アーサーを形作っていたもの、コメディアンになりたい、母、自分はウェインの子? それらがみんな崩れ去った。自分で葬った。そしてアーサーはジョーカーとして生まれ変わる。敵はデカくて強くて金持ち。つまりはアメリカンドリームを実現させ、今は既得権者となった階層。ウェインその妻その息子、三人が並んだ姿はまさにトランプとその妻とトランプJrだ。息子の目の前で、ウェインと妻を撃つ。

ジョーカーを乗せたパトカーがピエロのお面の集団が溢れる街を走る。そこに「White room」(Cream) がカットインする。パトカーは体当たりされ大破、その中からジョーカーが現れる。ボンネットの上に登り、口の中の血を両手で引き上げてジョーカーの口元を作る。群衆の歓呼に応える。虐げられ貧困に喘ぐ人々のヒーロー、ジョーカーの誕生である。

次のシーンが白いサイコロジカルな部屋でのセラピストとの対峙だったか、間に何かシーンが入ったか、記憶が曖昧である。ただ捨てる物の無いジョーカーは、貧しき人々から存在理由を与えられ、自信に満ちている。病院なのか、取り調べ室なのか、白い廊下をステップを踏みながら、血の足跡を残して奥へ消えて行くジョーカー。「That’s Life」(Fank Sinatra) が軽快に流れる。古き良き時代の自信に溢れたアメリカ…

その後エンドクレジットになって、おっとりとしてホルンや木管の入った「Send in the Clowns」(Frank Sinatra) が流れる。その後劇伴になりローリングがせり上がる。歌詞の意味が解らないのだが、音楽の流れとしては「Send~」は無くて良かったのではという気がする。わざわざ二段構えにする必要はあったのか。多分歌詞に意味があるのだろう…

 

強烈なホアキン・フェニックスの顔が絶えず映し出されて緊張を緩める瞬間がない。ぐったりと疲れる。筋立てはむしろ真っ当ストレート、ただし、どれが現実でどれが幻想か、わざと曖昧にしている。あるいは全部がアーサーの内面の話とも取れる。こういう心のプロセスを経てジョーカーとなったということが解れば良い。

アーサーは、優しくて弱くて華奢で逆らわず、貧乏だ。それらの真逆がウェインであり、それがアメリカンマッチョだ。家族を守り、女子供を守り、悪い奴は成敗する、そして金持ちになる。アメリカの正義。言い換えればアメリカファースト、ある集団の中ではそれは正しい。その外側には、弱くて小さくて貧乏で、さらには肌の色の違う人だっている。ある集団とは既得権者だ。これ程明解に反トランプを宣言した映画は他に無い。この映画はバットマンというコミックの枠組みを借りて描いた見事な反トランプ・エンタティメントだ。バットマンとは正義の名の下に既得権者を守る守護神の様な者、既得権階級の決め事を破り財産を強奪する、そんなジョーカーは既得権階級から見れば悪。しかしどちらが悪か、見方を変えれば容易に反転する。

 

劇伴は重い。Synと生で低音を分厚く作る。全音符、二分音符が長く音を這わせる。メロディらしいものはない。その後ろにSynや打楽器でゆっくりとドンドンドンという打音が入る。何ヶ所か歪ませたようなVCがソロで前面に入る。作曲家はチェロ奏者らしい。この音楽がアーサーの内面を語る。格差社会ゴッサムシティの底辺の人々の蠢きを表現する。

対して既成曲がふんだんに散りばめられる。沢山有り過ぎて覚えきれない。

その中で「Smile」(映画「モダンタイムス」1936のテーマ)、これはジョーカーへ生まれ変ったアーサーへの祝福のテーマだ。地下鉄で拳銃を撃った後、この曲が高らかに流れる。他にも何ヶ所か。アーサーの憧れはチャップリンだ。マレーは単にキッカケ、その先にチャップリンがいる。ウェインを追って慈善団体の催しに忍び込んだ時、そこで上映されていたのはチャップリンの映画(「モダンタイムス」?) だった。ただチャップリンのリベラルは人種を越えない。アーサーの憧れの人は黒人の子持ちである。

そしてもう一つ、「That’s Life」(シナトラ)、これはまさに自信溢れるジョーカーのテーマだ。シナトラが余裕で唄い、謂わばアメリカンドリームを実現させた勝ち組の歌だ。本当はトランプのテーマとして相応しい。監督には今の既得権者達が、成り上がり輝いた、50年代60年代のアメリカとアメリカ映画への憧憬がある。冒頭・エンドのタイトルも含めそれが随所に感じられる。それが今は敵となってしまったという皮肉…

最後のセラピストとの対話から廊下に掛けてジョーカーはこの歌に合わせて軽快にステップを踏む。映画の実質的締めを担う。この曲も他に何ヶ所かで出てくる。が記憶し切れなかった。

「Rock and Roll Pt.2」(Gary Glitter) は階段を意気揚々と下りて来るところ、「Whit room」(Cream) はアーサーを乗せたパトカーがピエロの群衆の中へ突っ込むところで鮮やかにC.I 、這う劇伴の中でしっかりとしたメリハリを作る。既成曲の選び方と付け方は劇伴と互角である。

 

格差社会の中で虐げられた人々を描く、例えば「わたしは、ダニエルブレイク」(拙ブログ2017.3.28) の様な生真面目で真正面からの映画がある。この映画はバットマンという枠組みを使って、それを見事なエンタテイメントにした。口開いて見ても解る映画に慣れてしまった人には、現実と幻想を敢えて曖昧にする描き方は解りづらいかも知れない。それは怠惰なだけだ。しっかり見れば解る。解らなくても思いを感じれば良い。ハリウッドがよくこんな映画を作ったものである。重いが面白い映画にしたところが立派である。そう言えばデ・二―ロは反トランプの急先鋒だったなぁ。

 

銃規制の問題が浮かぶ。香港がWる。世界中にジョーカーが出現する時代に突入したのかも知れない。

一つだけ、病院から持ち出したファイルの中に、養子申請書だけがなかったことにすると、さらに魑魅魍魎が深くなったか…

 

続編はBAT(rump)MAN vs JOKERで決まりだ!

 

監督. トッド・フィリップス  音楽. ヒドゥル・グドナドッティル