映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2019.11.11「真実  特別編集版」日比谷シャンテ

2019.11.11「真実  特別編集版」日比谷シャンテ

 

大女優ファビエンヌ (カトリーヌ・ドヌーブ) が自伝を出版するという。娘リュミール (ジュリエット・ビノシュ) はゲラの段階で見せるようにと母に頼み、わざわざアメリカから夫(イーサン・ホーク) と小さな娘を連れてやって来る。本は既に出版されていた。ゲラの段階で見せると約束していたのに。あらそう? そんな約束したかしら。

 

大女優と娘、長年の心のわだかまり、それをドヌーブとビノシュが演じる。ドヌーブがドヌーブ本人を演じているような虚実皮膜で描く。脚本も是枝、到る所に過去の些細なわだかまりを散りばめ、それを台詞だけで見せる。回想は使わない、会話劇だ。

サラというかつてのライバルであり、私生活でも近かった女優が触媒の様に耐えず背後にいる。彼女は若くして自殺(?) したのかも知れない。自伝本にサラは出てこなかった。

 

ファビエンヌが現在撮影中のSF映画、母が地球では生きられない病(?) に犯され、宇宙で生活しながら、何年に一度だか地球に戻り娘に再会するというもの。宇宙にいる間母は歳を取らない。サラの再来と言われている若手女優が歳を取らない母を演じ、ドヌーブが老いて行く娘を演じる。年老いて行く娘と若々しい母、これには原作があるらしい。調べたら、ケン・リュウの「母の記憶に」。ケン・リュウは「メッセージ」(拙ブログ2017.05.23) の原作者。何やらそそられるものがある。

老いた娘と若い母という設定は「アデライン、100年目の恋」(拙ブログ2015.10.28) にもあった。可笑しく辛く哀しかった。

 

若手女優との映画の演技をめぐるやり取りがそのままリュミールとの関係に反映される。リュミールはかって女優を目指すも果たせず、今は脚本家として成功している。一時は母と同じ女優だった。サラに対してもリュミールに対しても、ファビエンヌは友人や母である前に、女優だった。若手女優とファビエンヌとのやり取りを見ながら、大人となったリュミールはそれを理解していく。

女優は最後まで真実は語っても、事実は語らない。リュミールの、母の自伝本への不満が溶けて行く。

まるでドヌーブが自分の人生を語っているよう、是枝の企みは見事に成功である。

 

そんなファビエンヌを優しく見つめる男たち。長年のマネージャー、現在のパートナー、突然現れ消えた元夫(リュミールの父親)、そしてリュミールの夫。振り回されつつ優しく見つめる、成熟した大人の男たち。

妖精の様な孫娘が大人たちを繋ぐ。是枝にはめずらしく、自由に演じさせて切り取るというドキュメンタリーな手法ではないようだ。きちんと書いた台詞と演出がある様(?)。是枝作品で子供をこういう風に描くのはめずらしい。この子役がしっかりとそれに応えている。

 

海外ロケと聞くだけで凄い! と思っていた僕ら世代には、フランスとアメリカの大スターを使って臆することなく演出した是枝は頼もしい限りである。

演じるということに一生を捧げた女優という化け物の内面をパリの秋の風景の中に描いた映画、ラストカットの毅然と歩くファビエンヌがドヌーブ自身に見える。

ファビエンヌ、絶えずタバコを吸うのが良い。女優を生きるということは大変なことなのだ。

ただ、結末は見えていた。女優という生き方を選んだ者を描く時、現在を肯定するなら纏め方はこれしかない。ここに至るまでには血の出る様な思いがあったはずだ。リュミールはきっと母を憎んだ。けれど時間が経ち今は大人となり、そんな母を理解出来るようになった。むしろ孤独と老いがファビエンヌの方にかかって来ている。それがあんまり感じられなかった。大人となって大きな心を持つようになった“今”に重点がある。どうしても和解に向けた予定調和になる。回想を使わない描き方は会話劇として洗練されているがデリケートな台詞を聞き逃すと浅いものになってしまう。一度見なので、僕は重要な台詞を聞き逃したのかも知れない。

 

音楽、明るく軽快、ホームドラマのBGMの様、Pfがメイン。

パリの秋に似合う音楽、シャレて軽やか、映画を邪魔せず主張せず、いつも少し離れたところから爽やかに奏でる。付け方も程好い。感情を増幅するようなこともしない。ただ、出来ることならもう一つ離れた視点からの音楽があれば、と思った。同じ時間と空間を母と娘という関係で共有した者同志を包み込むように見つめる視点、そんなところからの音楽 (言うのは簡単であるが)、 それがあると映画はもう一つ深くなった。

映画の方も、敢えてなのか、老いと死を描いていないと感じた。娘と母に流れた時間は描かれる。けれどそれを含めて大きな時間が流れている。それが感じられなかった。

映画にそれが描かれ、そこに遠い視点の音楽が付いた時、随分深いものになったのではないか。

 

脚本・監督. 是枝裕和  音楽. アレクセイ・アイギ