映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2019.11.28 「蜜蜂と遠雷」日比谷TOHOシネマズ

2019.11.28 「蜜蜂と遠雷」日比谷TOHOシネマズ

 

母と幼い娘が連弾をしている。クラシックの良く聴くピアノ曲 (曲名が出てこない) 、母が主旋律を弾き、娘が高音域で自由に戯れる。リバーブを一杯に効かせた高音が雨音に重なる。雨の雫のスローモーション、その背後に黒い馬が神々しく入って来る。それに合わせて重低音の唸り。画面は暗く深く神秘的だ。ピアノ高音と雨音、黒い馬、重低音、まるで宇宙の涯で音楽が誕生する瞬間に立ち会っている様。一体何が始まるのか。

画面・音ともカットアウトしてピアノコンクール会場の明るい表、そこにジャズベースのソロがカットインする。その鮮やかさ、意味など関係無くしびれた。ここにベースソロを持ってくる発想、尋常ではない。そこにメインタイトルが出たか、それとも冒頭だったか、音楽の流れに気を取られメインタイトルの記憶が残っていない。

 

そこからはピアノコンクールで競う四人の天才の話である。

冒頭から7年が過ぎ少女・栄伝亜夜 (松岡茉優) は二十歳になろうとしている。その間に母は亡くなり、天才少女と持てはやされるも音楽する喜びを見失い、コンサートの舞台から逃げ出すという事件を起こしている。二十歳を前にしての復活を掛けた最後の挑戦である。

 

マサル (森崎ウィン) はジュリアード (音楽院) の貴公子と言われ、大本命の優勝候補でマスコミからの注目度も高い。ミスなく正確に弾くことを第一義と教え込まれている。偶然にも亜夜の母から幼い頃ピアノの手解きを受けていた。その頃のあだ名は泣き虫マー君、亜夜と母親の連弾を憧れを持って聴いていた。いずれ作曲もしてクラシックの枠を越えたコンポーザーピアニストになることを目指す。

 

高島明石 (松坂桃李) は音大を出て今は地方の楽器店で働く。妻と子のある27歳、コンテストの年齢制限ギリギリ、最後のチャンス。“生活者の音楽”を目指す。地元の希望の星であり、ローカル局のディレクター (ブルゾンちえみ) がドキュメントとして追い続けている。

 

破れた靴からのパンアップで登場した風間塵 (鈴鹿央士) は最年少、ピアノの神様と言われ先年亡くなったホフマン先生の推薦状を持って登場した。身近にピアノを弾ける環境ではなかったので、音の出ない鍵盤だけのピアノで指先から血が出るまで練習していた。この少年を受け入れるか拒絶するかは審査員次第と推薦状に記されていた。

 

一次予選を経て、二次予選は「春と修羅」(作曲・藤倉大) という宮沢賢治をモチーフとしたコンテストの為のオリジナルの課題曲だ。この曲の後半はカデンツァ、ジャズでいうアドリブだ。真っ白な譜面の上には確か“自由に、そして宇宙的に”(不確か) と書いてあった。

マサルは自らのカデンツァを譜面に起こし繰り返し練習してミスのないものにしていた。明石は宮沢賢治の「春と修羅」の中の“あめゆじゅとてちてけんじゃ”という言葉に触発されたものを考えていた。亜夜は何も浮かばない。風間塵は意に介さない。

明石のカデンツァを聴いて亜夜は急にピアノが弾きたくなる。今弾きたい。けれど練習室は一杯。明石の紹介で街の楽器工房のピアノにたどり着く。そこに風間塵が現れる。“お姉さんもピアノ弾きたくなったんだ” 天才たちに通ずる何かがあったのだろう。窓から射し込む月の光を見ながら、ドビッシーの「月の光」、「ペーパームーン」、ベートーベンの「月光」(「ペーパームーン」を挟み込んだのが秀逸) を指の赴くままに連弾する。月と交歓している様に聴こえる。僕の様な凡人にも音楽する喜びが伝わって来る。

翌日二人はカデンツァを見事にこなし、マサル、明石とともに二次予選を通過した。

最終選考の六人は他の二人が棄権して四人に絞られた。そこではオケとの共演である。

 

オケの指揮者は巨匠と言われている小野寺 (鹿賀丈史)。一人で弾く時と違って思う様にいかない。マサルは一箇所、テンポを自分のピアノに合わせてほしいと要望するも小野寺にねじ伏せられる。亜夜は母との連弾のトラウマか、低音部の一箇所がどうしても弾けない。小野寺に鍵盤を叩かれ、音が出ないのかと思った、と皮肉られる。鹿賀丈史の巨匠ぶりが上手い。風間塵のリハの様子は会場スタッフの会話で語られる。“結局コンバスの位置を動かしただけで終わったな、それにしても小野寺相手に楽器の位置を変えさせるなんていい度胸だ” ステージマネージャー田久保 (平田満) が “あそこは去年床を貼り換えて響きが違っているんだ、彼はそれが解ったんだ” 尋常ならざる天才ぶりをさり気なく会話で処理した脚本が上手い。

 

亜夜はどうしてもステージを逃げ出したトラウマを克服出来ない。

審査委員長 (斉藤由貴)との洗面所での会話 “コンサートピアニストとしての覚悟が足りない、かつてあなたと同じように天才少女と言われた者からのアドバイスよ” (不確か)

明石の “年齢制限ギリギリ、これでダメだったら音楽は諦める” という言葉に “私だってこれが最後の…” と言って泣き出す。

塵からは “お姉さん、帰って来るよね” と言われる。

雨の中、スーツケースを引っ張って逃げ出す。地下駐車場の出口に置かれたグランドピアノ。雨音と黒い馬。決定的な何かがあった訳ではない。でも踵を返して階段を駆け上がりステージのそでに立った時、塵が “お姉さん、お帰りなさい” もう滂沱の涙。音楽する喜びを取り戻した、それを理屈ではなく、映像で説得されてしまった。

塵はホフマン先生 (音楽の神様) が遣わした使者だったのだ。

亜夜の演奏が終わると小野寺が握手を求めた。

コンクールの結果が文字で示されローリングタイトルとなる。結果はどうでも良いのだ。

 

映画を見ながらずっと音楽って何なんだろうと考えていた。世界は音楽に満ちている。蜜蜂の羽音、遠雷、大自然が発する音。静寂の中にも音楽は隠されている。風が吹く中に棒を立てると音が生まれる。虎落笛なんて言葉もある。自然の中に満ちている音を様々な方法で引き出して、それを整理して、長い月日を経て、引き出す道具を楽器という形に作り上げた。世界中にある音楽の中で西洋がそれをドレミという平均律に整え、ピアノという道具を作り出した。それを作曲家と演奏家が一瞬にして消えてしまう音楽として聴覚化し、それが人に感動を与える。これってほとんど宇宙の神秘に触れているようなものだ。作曲家や演奏家は巫女のようだ。

 

海辺の四人、塵が砂浜に足跡を付ける。“これ何だ?” “ウ~ン、アイネク(アイネクライネナハトムジーク)” “それじゃ、これは?” と亜夜。それを見てブルゾンちえみのディレクターが “凄い世界、私には解らない” “俺にも解らないよ” と明石。水平線に遠雷が光る。地球が奏でている。それを見る天才四人。

音楽と選ばれた天才をワンシーンで語る。原作にあるのか、それとも映画のオリジナルか。

 

話は単純なのだ。音楽する喜びを見失ってしまった少女がコンテストで出会った3人の天才たちからの刺激を受けてそれを回復するまでの話。けれど “音楽する喜び” をどうやって映像化するのか。普通の音楽好きが吹奏楽のコンクールで優勝して良かった、というレベルの話ではない。神様に選ばれた天才たちの話だ。どうしても音楽の根源に触れざるを得ない。そんなことを映像化出来るものだろうか。同じことが原作にも言える。いつもながら原作は未読、すいません。原作者は映画化の申し出があった時、驚いたという。きっと文字で表現し得たという自負があったからだろう。だから即物的具体的な映像で表わすのは無理だと思ったのだろう。

けれど映画を見ながら僕は音楽って何かをずっと考えていた。音楽の原初の姿を考えていた。少なくとも底の浅い感動ものを遥かに超えた映画になっていることは確かだ。

 

四人にはそれぞれピアノの吹き替えが付いている。亜夜 (川村尚子)、明石 (福間洸太朗)、マサル (金子三勇士)、風間塵 (藤田真央)、みんな役柄の四人の様に天才と言われる人たちの様だ。人選は四人のキャラクターを考慮している。「春と修羅」のカデンツァは藤倉大がキャラクターに合わせて作ったか、それともこの四人のピアニストに託したか。お月さまメドレーのアレンジは誰なのだろう。川村と藤田に自由にやらせたのだろうか。

指のアップの吹き替えもこの四人が行っている (はずだ)。多くを占めるピアノの演奏シーンだが、撮影は様々なアングルで工夫し、監督自ら行った編集 (多分) も見事、役者本人が弾いている様にしか見えない。塵役の鈴鹿央士はある程度弾けるのでは。憑りつかれた様な弾き方が指も含めて引き画で入っている。プレイバック撮影は丁寧だ。

 

音楽はほとんどがピアノの既成曲、それをズリ上げズリ下げで劇伴の様に充てている。オリジナルの劇伴は前述したジャズベースのソロ、この曲は途中からチェロのピチカートが入って来るもテイストはジャズ、それ以外には劇中の何ヶ所かにブリッジの様にハープのソロが付いている。ピアノだらけの中で良いアクセントになっている。課題曲の「春と修羅」、劇中ではこの曲のカデンツァが物語の重要部分なので、全容が聴けるのはエンドロールのみである。

 

良い映画の役者は脇役も含めてみんな良い。

松坂桃李は努力して成った天才、天賦の才能の前に漂わせる寂しさを良く演じている。役者として幅が出て来た。森崎ウィンを僕は知らなかった。いかにもピアノエリート然とした貴公子をきちんと演じている。鈴鹿央士は役そのまま、この新人を見つけたことが映画を成立させているとさえ言える。

松岡茉優、コメディもやれればシリアスもやれる。「ひとよ」では真逆、これも見事だった。松岡の笑顔は限りなく優しい。天賦の天才であり努力の天才でもある。そしてとっても人間的だ。四人は選ばれたものとしての苦しみを共有してお互いを思いやる。四人は優しい。

現実はみんな福島リラのようなのではないか。もっと熾烈でトゲトゲしいはずだ。師事する先生の派閥や力関係、ビジネスも含めた思惑の中で争われているのだろう。それを描くと単なる人間ドラマになってしまう。それらを全て切り捨てて、“音楽とは何か”を中心に据えた映画にした、しかも立派な商業映画として成立させたことが凄い。

“栄伝さん、入ります” (不確か) と言う田久保役・平田満の圧倒的存在感、小野寺が “さすがに田久保さんがステージマネージャーのホールだけのことはある” (不確か) とさり気なく言っている。脚本も細かい。座っているだけの片桐はいりがこびり付く。斉藤由貴臼田あさ美ブルゾンちえみ (役者開眼) もアンジェイ・ヒラもみんな良い。良い映画だから脇が光るのか、脇が良いから映画が光るのか。

 

映画的メリハリも考慮したクラシックの選曲と使用箇所は誰が決めたのだろう。それも含め、藤倉大、四人のピアニスト、オリジナル劇伴作曲家 (篠田大介) 、それらを纏めた音楽プロデューサー (杉田寿宏)、この「蜜蜂と遠雷」音楽スタッフは良い仕事をした。出来ることならスタッフとして音楽賞の対象にしてあげたい。映画音楽の賞を一人の作曲家に収斂させて授賞させるのは無理な作品が増えている。この映画はまさにそんな例である。

 

石川慶監督、僕は「愚行録」(拙ブログ2017.03.10) しか見ていない。あの導入は見事だった。映像作家としての力は並々ならぬものを感じる。この監督を選んだプロデューサーの英断にも拍手である。

 

さて、僕の主演女優賞候補に、瀧口公美、蒼井優、さらに松岡茉優が加わってしまった。

 

監督. 石川慶  挿入曲「春と修羅」作曲. 藤倉大  オリジナル劇中音楽. 篠田大介

ピアノ演奏. 川村尚子、福間洸太朗、金子三勇士、藤田真央 音楽プロデューサー. 杉田寿宏