映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2020.02.06 「アイリッシュマン」シネリーブル池袋

2020.02.06 「アイリッシュマン」シネリーブル池袋

 

アイリッシュマンというタイトルからゴッドファーザーアイリッシュ版かと思った。前に見たジョニー・デップの映画「ブラック・スキャンダル」(拙ブログ2016.2.9) がボストンを舞台にアイリッシュとイタリアンの縄張り争いを描いた実話に基づくものだったので、アングロサクソンから差別されていたアイリッシュが結束してマフィアの様なファミリーを作り、遅れて来たイタリアンと抗争を展開するものと勝手に思い込んでいた。浅知恵の思い込み、反省である。

ロバート・デ・ニーロ演じるシーランはイタリア・マフィアの中で唯一イタリア人ではないのに、汚れ仕事を引き受けることに寄って幹部から信頼されたアイルランド人、それでアイリッシュマンだったのだ。

 

冒頭、老人介護施設の廊下を手持ちカメラが移動していく。そこに老いたシーラン (ロバート・デ・ニーロ ) がいる。語り出す。

 

1975年、シーラン夫妻とラッセル (ジョー・ペシ) 夫妻が共通の知人の娘の結婚式出席の為に車で長旅をしている。ラッセルが飛行機嫌いだからだ。二人の妻はラッセルが禁煙しているにも関わらず煙草を吸い続ける。猛禽類の様な目のラッセルだが、ゆとりある初老の二組の夫婦という感じにも見える。途中田舎のドライブイン、シーランが、覚えているか? 覚えているとラッセル。1950年頃、トラック運転手だったシーランはここでラッセルにトラックの修理をしてもらった。それが二人の出会いだった。

“家のペンキは自分で塗る”(不確か。依頼された殺しは自分の手でやる、という隠喩らしい) というシーランをラッセルが気に入り、それをきっかけにシーランがファミリーの一員としてのし上がっていくという過去が語られる。

シーランは第二次大戦でイタリア戦線に従軍しイタリア語を話した。戦争の名の下に正当化される“殺し”を実践してきた。

音楽が50年代ポップスを間断なく繋ぎ、時代を表わす。ラッセルからの依頼、それを完璧にこなすシーラン、妻と三人の娘を抱えたシーラン、シーランとラッセルの友情、そして時々入る政治状況。キューバからアメリカを追い出したカストロは敵だった。何とか再びキューバのカジノ利権を取り戻したい。その為の大統領? マフィアはJFKに肩入れしていた。密造酒で儲けたJFKの父の頃からの繋がりもあった。それらが当時のヒット曲に乗せてテンポ良く描かれる。

ラッセルからジョー・ホッファ (アル・パチーノ) を紹介される。全米トラック運転手組合のリーダー。僕も子供の頃、名前くらいは知っていた。大統領の次に力のある人と言われていた。’50でいえばエルビス・プレスリー、’60でいえばビートルズの様な存在だっだ。

ホッファは全米のトラック運転手を束ね、年金組織を作り、刃向かう組合を潰し、集めた金をマフィアの資金源として運用していた。当時銀行はマフィアに金を貸さなかった。そこをホッファが狙った。マフィアとホッファは持ちつ持たれつ、ラスベガスはホッファの金で作られたと言う。

シーランはホッファとホテルの同室で寝るほどの仲となる。それ程信用していた。父の仕事を怪しんでなつかなかった下の娘も、表向き組合員の為に働くホッファにはなついた。

 

老人介護施設の“今”から1975年へ、さらにそこからの回想、テンポ良くエピソードを並べながら時間軸は激しく動き、さらには似たような名前 (トニーだらけ)、似たような顔、始めは少し混乱した。冒頭とエンドの老境の“今”は額縁として置いておく。過去語りの中の1975年、ここが話の中心。それが始めは解らなかった。一度見をした後、少しネットでその頃のアメリカを調べた。その上で二度見した。俄然面白くなった。

 

1961年、JFKが大統領に就任する。その直後ピッグス湾事件が起きる。シーランはこれにも関わっている。ケネディの弟のロバートが司法長官になり、マフィアとトラック組合の関係を追及、ホッファを目の敵にする。ホッファは、マフィアがJFKを援助したのに対し、ニクソンに資金援助をしていた。

1963年、JFKが暗殺される。これを誰が喜んだか、誰が得をしたか、アメリカ史に詳しければもっと楽しめるのだろう。ラッセルが言う、“大統領を殺る様な奴らだ”

ホッファは逮捕され服役、出所した時はホッファが据えた委員長がマフィアと良好な関係を築いていた。委員長に返り咲こうとするホッファとマフィアとの間に隙間風が吹き出す。シーランは両者の間の板挟みとなる。ラッセルの指示でホッファを説得するも聞く相手ではない。表向きはトラック組合の支部長であるシーランの永年表彰、そのパーティー、家族を始め関係者が一同に集まった晴れ舞台、生バンドが次々と当時のダンスナンバーを演奏する。その裏でシーランが必死にホッファの説得を行う。年金生活に入るなんて真っ平だ! 「アルディラ」をバックにホッファはシーランの末娘 (アンナ・パキン)と平然とダンスを踊る。ラッセルが言う。俺たちは出来る限りの努力をした、でも限界だ! シーランはその意味を解っている。「アルディラ」の何と合うこと、これぞ黒澤の言う、コントラプンクト!

「アルディラ」FOして1975年のドライブする4人、回想が1975年の“今”に追い付く。音楽だらけだったこれまでと打って変わって、ここからは音楽全く無し。この音楽無しの緊迫感を作る為にその前を音楽だらけにしていたのかも知れない。音楽がサスペンスを盛り上げるというのは嘘である。映像がしっかりとサスペンスを描けている時、音楽を付けるとあざとく感情が一方向に流れるだけだ。

ラッセルから告げられる。一人で飛行場へ行け、小型飛行機が用意してある、それでデトロイト(?) に行って3時間で戻れ。シーランは友人ホッファを殺す。住宅街の曲がり角、そこを現場へ向かう車、ことを終えて立ち去る車、同ポジ・ロングショット、これぞ映画! 段取りは完璧だった。

ズリ上がりで結婚式のBGM。ようやく音楽が入る。参列するシーラン、ラッセル、その顔のUP、一連の流れ、声も出ない。

そこで終わったって良い。あるいは介護施設の車椅子のシーランを1シーン入れて終わったって良い。しかし映画はその後を丁寧に描き、介護施設の“今”に繋げる。

 

ホッファは謎の失踪をとげたことになっている。ホッファの妻から泣きながらシーランに電話が入る。シーランは必死に対応し励ます。関係者は真相が解らないまま、何らかの罪で刑務所送りとなる。消された者もいる。シーランもラッセルも敵対したマフィアのトニーもみんな刑務所で老いていく。フガフガになったラッセルにシーランがパンを千切ってあげるシーンは可笑しいやら哀しいやら。ラッセルは刑務所内の教会に通い出す。

シーランは出所し、妻の葬儀に立ち会えた。肺がんは当然であるというナレーションが入る。参列した末娘は未だシーランを受け入れてはくれなかった。

ホッファ失踪の関係者で生き残ったのはシーランだけになった。ジャーナリストが遺族の為にも真相を話してはとインタビューする。誰だれに聞け! とシーラン、亡くなりましたとジャーナリスト、誰が殺った? 癌です!

ここまで来てようやくスコセッシが描きたかったものが解って来る。1975年以降のみんな老いていく姿を描きたかったのだ。

シーランも老いた、ラッセルも老いた、それはデ・二―ロとジョー・ペシに重なる。アル・パチーノも老いた。そしてスコセッシも老いた。みんな老いる。この映画はこれら映画人の総決算、卒業制作の様なものである。それが同時に戦後のイタリア移民の裏社会の歴史でもあり、アメリカの歴史にもなっている。

ゴッドファーザー」「ワンスアポンナタイムインアメリカ」等のマフィア物の集大成なのだ。

 

父親にとって娘の存在は大きい。僕にも娘がいるので良く解る。娘に受け入れてもらいたい、これさえあれば生きた証となる。人生の成り行きで殺し屋となってしまった父を娘が受け入れないのも解る。みんなその時を生き延びる為に必死だった。弱かったからこそ掟を作り纏まり、それを維持する為に人も殺した。今、シーランは人生の終わりを前にして、人生を意味あるものと言ってほしい娘からそれを拒絶されている。シーランもラッセル同様、牧師に向かって懺悔をするのである。

 

音楽は前半、ほとんど既成曲、それが時代を表わすと同時に話の展開を支えて上手く充てている。既成曲『グリスビーのブルース』(映画「現金に手を出すな」のテーマ) が劇伴の様に使われる。ロビー・ロバートソンのオリジナルの劇伴がハモニカで入る。ブルースのよくある音型、『グリスビーのブルース』と区別がつかない。後ろのリズムは違うのだがどちらもハモニカがメイン。スネアが加わり、EGが加わり、裏に低弦が這ったりする。後半はほとんどがこれ、CBがソロでこのメロを奏することもある。ヘンな劇伴を付けるより気が利いている。ただ見分けが付かない様な既成曲と劇伴だったら、どちらかに統一した方が良かった気がする。

随所に気の利いた台詞がある。どれも忘れてしまったのだが一つだけ残った。ホッファが言う、ラッセルの妻、あれはイタリアのマフィアの名門の娘、イタリア・メイフラワーの一員だよ、なるほど。

役者の素晴らしさは言い出したら切りがない。みんな乗り移っている! と一括り。

 

ネットフリックスが配信をしているとのこと、出資者ということで仕方ないが、スコセッシはこれをTV画面で見るということを想定して作ってはいないはずだ。やはり劇場の大きな画面と真っ暗な闇の中で見てほしい。TVではこの映画の輪郭だけしか伝わらない。

ノンフィクションの原作を良くぞここまで映画のシナリオに作り上げた脚色、見事!

 

監督. マーティン・スコセッシ  脚色. スティーブン・ザイリアン

音楽. ロビー・ロバートソン 音楽監修. ランドール・ポスター (既成曲担当ということか?)