映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2020.02.03 「ジョジョ・ラビット」 日比谷シャンテ

2020.02.03 「ジョジョ・ラビット」日比谷シャンテ

 

ビートルズの「抱きしめたい」ドイツ語バージョンがC.Iした時には度肝を抜かれた。

その歌を背景にはしゃぎまわるナチ少年ジョジョ(ローマン・グリフィン・デイヴィス)、記録映像でヒットラーに熱狂する群衆、ヒーローとはこういうもの、ビートルズヒットラーも変わらない、キャラクターと状況があった時、群衆は熱狂するのだ。そしてその背後にはそれを仕掛けた者が必ずいる。

ジョジョ10歳、戦争ごっこが大好きで、華奢だから強いものに憧れる。その時そこにアドルフ・ヒットラーがいた。アドルフ (タイカ・ワイティティ) はジョジョのヒーローとなる。すんなりナチの考え方、ユダヤ人悪、が入る。ユダヤ人には角が生えている、臭い、でも見た目は変わらないんだけど…

ヒットラーユーゲントの子供教育のキャンプで、ウサギを殺せと言われて殺せなかった。みんなからジョジョは、ラビット! と馬鹿にされる。手榴弾の訓練で怪我もする。華奢な体の上に顔に地図の様な傷が出来る。でもジョジョには守り神のアドルフがいる。時々現れては励ましてくれる。アドルフは本物のヒットラーに似ていない。ココリコ・田中にちょっと似てるか…

母 (スカーレット・ヨハンソン) は自分の考えを持った人、密かに屋根裏にユダヤ人少女エルサ( (トーマシン・マッケンジー) をかくまっていた。ジョジョはそれに気づく。でもバレると母も自分も殺されると知っているので、そのままにする以外にない。

街の広場にはナチに逆らった人、ユダヤ人、ユダヤ人を匿った人などが、縛り首にされてぶら下がっている。みんなその脇を平気で通る。本当は平気ではないのかもしれないが。時流に流されるとはそういうことだ。

死んだ姉に似たユダヤ人少女は角も無いし臭くも無かった。ジョジョを喰おうともしなかった。同じ人間だ。ジョジョの中にナチの言うのとは違うユダヤ人像が出来て行く。ほのかな恋心の様なものも芽生える。

 

ジョジョの可愛らしさは「ニューシネマパラダイス」の少年を思い起こさせる。子供目線の天真爛漫さは、仏映画「わんぱく戦争」やTVの「ちびっこギャング」を思い起こさせる。

 

長い物には巻かれろ、同調圧力、自由からの逃走、思考停止、鬼畜米英、朝鮮人差別、一度熱狂すると平常時では考えられない様なことを人間は平気でやる、人を殺す、安易な方へ安易な方へと流れ、制御不能の大きな流れとなってしまう。ジョジョは強力な同調圧力の中で、自分の考えでウサギを殺さなかった。

昭和30年代前半、TV黎明期の頃、ドラマ「私は貝になりたい」(1958ラジオ東京テレビ、現TBS) という名作があった。戦地で上官の命令に従い捕虜を銃剣で刺して処刑する。目をつむって必死に刺した。戦後C級戦犯裁判でその罪を裁かれ、絞首刑となる。上官の命令に従わなかったらどうなるか分らなかった…

ジョジョは子供で相手はウサギだった。笑い者で済んだ。でも母親はユダヤ人を匿っていたことがバレて広場に吊るされた。少しオシャレな靴の足元で大泣きせず堪えながらいつまでもいつまでも蹲っているジョジョ、忘れられないシーンである。

一人ぼっちになったジョジョは自分の目でものを見始める。世界はアドルフの言うものと随分違っていた。アドルフを心の親友にしておくには無理が生じて来た。

 

街が戦火に覆われる中、エルサとジョジョは必死で生き延びる。ここに流れたのがトム・ウェイツだったかデヴィッド・ボウイだったか、記憶が曖昧である。

 

やがてアメリカ軍が進駐してくる。街でアドルフの次に親友だったヨーキー(アーチ―・イェーツ)と遭遇する。二人は無事を抱き合って喜ぶ。もうナチなんてやってられないよ、ヒットラーはピストルで自殺したし攻めて来るロシア人は赤ん坊を喰うらしい。ヨーキーは早くも次の流れに乗っている、悪気なく時々の流れに乗る庶民の代表だ。その晩飛び込んで来たアドルフはこめかみから血を流していた。これには笑った。ジョジョはアドルフを外に放り出す。そしてエルサと扉を開け、外に出て、ヘンテコな自由のダンスを踊りだす。涙流しながらの大笑いである。

 

画面から漂う雰囲気、どう考えてもこれはヨーロッパ映画、決してアメリカ映画ではない。けれどそんな分け方は無意味なのかもしれない。言葉は英語、フランス語でもドイツ語でもない。米軍が進駐してきて小突き回された時、言葉が解らないとジョジョが言う。あそこだけはちょっと気になった。ジョークとして受け止めるべきか。

 

音楽、マイケル・ジアッキノ。ジョジョのテーマといえるメロが一貫する。出だしはちょっとリリー・マルレーンに似た雰囲気、ヨーロッパの香りがする。ハープやVlやPf、女声で奏でる。小編成、弦も入るが大きくない。しっかりと一貫したメロのある劇伴である。

ただポイントは既成曲だ。冒頭タイトルバックの「抱きしめたい」(ビートルズ)、母とのサイクリングには「ママ」(ロイ・オービソン)、シーンが曖昧だが「大人になんかなるものか」(トム・ウェイツ)、「ヒーローズ」(デヴッド・ボウイ) 、どれもここぞというところに流れる。その頃、ビートルズは存在しなかったし、トム・ウェイツデヴィッド・ボウイも同様だ。劇中音楽ということではなく、演出の音楽として付けられている。サウンドとしての効果と歌詞やアーティストのイメージから選曲されている。「ジョーカー」の既成曲の扱い方と同じだ。これまで既成曲を使う時は劇中の時代に存在した曲という暗黙の了解があった様に思う。あるいは歴史的文化遺産となっているクラシック曲等。この映画や「ジョーカー」は何の制約も考慮することなく、演出上の視点からのみで選んでいる。「ワンスアポンナタイムインアメリカ」や「アイリッシュマン」の既成曲とは全く扱いが違うのだ。邦画では「この世界の片隅に」(拙ブログ2016.12.05) の「悲しくてやりきれない」がこれと同じ考え方だ。どれも的確な選曲をして絶大な効果を上げている、従来だったらオリジナル劇伴が担うべき所を。「ジョジョ」と「ジョーカー」の既成曲使用の成功例は今後大きく波及するのでは。劇伴作曲家の領域は間違いなく狭まり、選曲する者、もしくは監督自身による音楽のコントロールという、これまで唯一コントロール出来なかった音楽という領域のある部分を手中に収めるということになるのかもしれない。成功すれば絶大な効果、失敗すれば無残。劇伴作曲家は、それ見たことか! と思うに違いない。

けれど本作のマイケル・ジアッキノは要所を既成曲に譲りながらも、全体としての音楽の統一感をしっかりと作っている。僕は最近の劇伴では出色の出来だと思う。

その他に時代を表わす曲として「タブー」始め何曲か、ラジオやSP盤の音としてある。これは「ワンスアポン~」や「アイリッシュマン」の既成曲と同じ考え方だ。

 

キャプテンK (サム・ロックウェル) はちょっとアメリカンの匂いがするが、全体を通してコメディーの部分を担う。小芝居を打ってジョジョを救うも、オフで銃声が響いた。悲しい。子供を18人産んだ(?) というナチおばさんのミス・ラーム (レベル・ウィルソン) 、ヒョロリとして眼鏡を掛けた親衛隊長ディエルツ大尉 (スティーブン・マーチャント) が可笑しい。知らない良い役者が居るものだ。

スカーレット・ヨハンソンは勝気で自分の考えをしっかりと持ち、でもナチ少年のジョジョを決して頭から否定しない。自分で考えるように導く。相変わらずの美貌、「アベンジャーズ」で使った無駄な時間 (未見でこんなこと言うのもナンだが) を早く取り戻してほしい。

何といってもジョジョとヨーキーである。この二人で何か企画が出来るのではないか。

僕はウサギを殺さない、僕は僕だ! ジョジョ、ラビットとは、僕は、僕だ! と言うことだ。

 

監督. タイカ・ワイティティ  音楽. マイケル・ジアッキノ