映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2020.03.03「1917 命をかけた伝令」新宿ピカデリー

2020.03.03 「1917 命をかけた伝令」新宿ピカデリー

 

第一次世界大戦は、未だ航空機が主力とはならない、地上戦が中心の最後の戦争だったといわれている。ドイツとフランスの間に作られた延々と続く両軍の塹壕、それを挟んでの戦い。空からの破壊兵器が登場する前の、最も多くの犠牲者を出したというその西部戦線

 

ドイツ軍は戦線を後退させ、英仏軍はこの時とばかりに明日総攻撃を仕掛けることになっている。しかし航空写真でそれがドイツ軍の罠であることが判明する。総攻撃を決行すると1600人の部隊は恐らく全滅だ。この映画はその塹壕戦の真っ只中で、最前線部隊の突撃を中止させるべく放たれた二人の伝令の話である。総攻撃を中止せよ! それを伝えるべく二人の伝令が走る。

冒頭、大きな木の下で寛ぐ二人の兵士ウィリアム・スコフィールド(ジョージ・マッケイ)とトム・ブレイク(ディーン=チャールズ・チャップマン)、とても戦場とは思えないのどかさ、草花が風にそよぐ。二人は司令官から伝令の任務を言い渡される。それは両軍が数百メートルの距離で向き合う中の敵中横断だ。明日までに届けなければならない。夜まで待とうとスコ、直ぐに走り出すトム、1600人の中にはトムの兄がいる。塹壕から頭を突き出すと独軍の狙撃兵に狙われる。そんな塹壕の中を二人は走り出す。

話はシンプル一直線、それを飽きることなく見せる為、あたかも二人と同体験をしているかのように全編擬似ワンカットで描く。走る二人をカメラは後ろから追い、立ち止まると前に周り、二人を前から捉える。二人と一緒にカメラも走る。それを打ち込みリズムの音楽が煽り緊迫感を作る。

 

音楽はほとんどベタ、Synパッド、サスペンスの盛り上げでは打ち込みリズムに生オケが加わって厚味を加え、ブラスも入ってクレッシェンドする。メロの立つ劇伴ではない。二人を追う長いカットの緊張に合わせるように、ひたすらサスペンスを盛り上げる。そこまで音楽が補強しなくても良いのではと思うくらい、あざとくさえある。

二人のひたすら前に進むことに伴う恐怖感、それでも突き進む使命感、サスペンスを煽って緩急を付ける他に手は無い。時よりその中に高音のPfが小さな動機をそっと入れる、唯一のメロ感、これが効果的だ。

 

擬似ワンカットの長回しに初めは目を見張る。凄い、切れ目がない、どうやって撮影したのか? その内それに慣れ、意識しないようになる。同様にベタ付けの音楽もメロ感がないせいか気にならなくなる。すると音楽が無くなるところに緊張感が生まれる。

 

最初の音楽無しは、決死の覚悟で塹壕から身体をのり出すところ。それまでの緊張をブラスも入ったオケと打ち込みリズムが目一杯盛り上げる。顔を出した瞬間の静寂、数百メートル先に拡がる敵の前線、人の姿は無い。静寂が荒涼とした空間をさらに広大に見せる。

次の音楽無しは、ドイツ兵が去ったあとの地下司令部の仕掛け線にネズミが触れて爆発を起こし崩れるところ、ここに長いブラックアウトがあった。黒味が入り、映像も音楽も消え爆発の余韻だけが減衰していく。一瞬二人が死んだかと思わせる様な深い闇。

確か後半、廃墟のドアを開けると同時にドイツ兵と相撃ちになるところ、ここもブラックアウトだったか (記憶が曖昧)。音楽も映像も途切れて次のステージへと入っていく。ちょっとゲームっぽい感じがする。

他にも何箇所か音楽無しがあったはずだが記憶仕切れなかった。いずれにしろベタな音楽付けの中の素は緊張と次のステージへの展開を作り出していた。

 

少し前まで人が居た気配を残す廃屋から、二人は三機の複葉機の空中戦を目撃する。炎上した一機が墜落、次の瞬間燃えながら二人がいる手前に迫って来た。カットは途切れず続き、燃える機体から敵兵を救い出すもトムはその兵に殺されてしまう。“僕は死ぬのか” 少し間を置いて”そうだ”と答えるスコ。日本なら、大丈夫だ助かる!と言っただろう。国柄の違いか。これら一連が切れ目のないワンカットで描かれる。内容よりも撮影現場の大変さに気持ちは行ってしまった。何と大変な撮影をしたのだろう。

 

ベタ付けの音楽は良く聞くと、走りを止めたり会話のところではリズムは無しにしている。不安や緊張のシーンには重いSynが入る。Synパッドの上に画に合わせて細かく音が重ねられている。生の弦が厚みを加え、サスペンスを強調するところではきざみ、金管も入り、緊張感を作る。一見画合わせではない様に感じるが、丹念な劇伴である。

トムが死んだ後、友軍のトラックに拾われたスコは、兵士たちの他愛無い会話のやりとりの中で一人トムの死を噛み締める。ここに素朴な短い動機がPf ? でそっと入れられている。この動機、唯一心境をすくい上げるメロとしてところどころに現れ、効果的だ。感情に訴える音楽はこのメロだけである。

破壊された橋を渡るシーン、敵の狙撃兵が撃って来る。途端に打ち込みリズムが入り、アクション映画になる、あそこだけは違和感があった。音楽無しで効果音だけ、もしくはリズム無しSynのパッドでサスペンスの雰囲気だけを作る、それで良かったのでは? その方が緊迫感が出たのでは?

 

後半、廃墟と化したエクーストの街に入ってからは宗教絵画の様な映像世界が続く。赤く燃え上がる教会のナイトシーン、左に十字架、右奥赤く燃え上がる炎の中から男が現れこちらに向ってくる、黒く小さなシルエット、ドイツ兵なわけだが、僕にはそれはどこの兵でもなく思えた。人間全体に向けられた攻撃の様に思えた。単に残留するドイツ兵との戦いというより宗教的哲学的な匂いがする。撮影は凄いというしかない。映像がストーリーの奥の深い思想を視覚化する。

地下に潜む女と赤ん坊の描写はほとんど宗教画だ。赤ん坊に廃屋から持ってきたミルクを与える。音楽にコーラスが薄っすらと入り、より荘厳な雰囲気を作る。

 

川に落ち、滝つぼに沈み、死体をかき分けて、目指す森の中の部隊に着いた時、そこでは疲れ果てた兵士たちが一人の若い兵士の歌声に聞き入っていた。「I Am a Poor Wayfaring Stranger」(vocal. JOS・SLOVICK)、いつの日か帰る故郷への想いをアカペラで唄っていた。ヨルダン川云々の歌詞、アメリカ民謡とのこと。ほとんどキリストの周りに集まる人々といった画だ。

無事、伝令の任務を果し、トムの兄とも会い、その死を伝える。“君が命懸けで届けてくれた伝令も明日また新たな命令が下ると我々はそれに従わなければならない、この戦争は最後の一兵になるまで終らない”(そんな意味?) という隊長の言葉が残る。

ラストは、冒頭と同じように草原に立つ一本の木、そこにVCのソロが入る。初めてメロディ感一杯に、歌い上げる。

 

何故ワンカットに拘ったのだろうか。あたかも戦場に居るが如くの臨場感だったらカットを割っても良かったはずだ。ワンカットは否応なく“見つめる”ということ、そこへの拘り? 当然ながらトムやスコの主観目線は無い。あくまで外から二人を見つめる目線。映し出される映像は阿鼻叫喚だが、それを見る目線は冷静だ。編集で感情を増幅する様なことは出来ない。この“見つめる目線”それを観客の我々は共有させられる。

かつて、このカットは誰の目線で見ているものか、それを考えろ! と言われたことがある。誰が見ているカットか、誰の目線で描いているカットか、それは映像における文体のようなものだ。あるいは文学における人称ともいえる。但し小説にト書と台詞があるように、一つの人称つまり視点でまるまる映画を描き切ることは不可能に近いし編集という映画ならではの表現方法がある。何故わざわざその技を放棄して敢えて一つの視点で語りつくそうとしたのか。我々はスコやトムと同化するのではなく、カメラと同化して“見つめる”。その視点とは何なのか。

 

頭と尻で変わらない大きな木、風にそよぐ草花、咲き誇る桜、川には死体の脇を桜の花びらが流れていた。人間の行為を木は超然と見ている。「この世界の片隅に」(拙ブログ2016.12.05)の、空爆下でも花は咲き誇るのと同じだ。もしかしたら植物の方が人間より進化しているのかも知れない。

友情やら家族やら人間的情愛の過剰を寸止めで回避するこの映画、過剰な感情移入はさせてくれない。その代わり“木”が脳裏に焼きつく。

スコは走った、1600人を救う為に、友の兄を救う為に、友との約束を果す為に、それが翌日無意味となるかもしれないのに。まるでシジフォスの様だ。

 

臨場感だったら「ダンケルク」(拙ブログ2017.10.10) の方が圧倒的だ。第一次大戦と第二次大戦の違いはある。西部戦線は弾が横から飛んでくるのに対し、ダンケルクは空から無作為に“死”が降ってきた。こちらの方が恐怖と臨場感は凄かった。“生き延びたい”だけで一貫していた。

一方、「1917」は“見つめる”映画なのだ。

 

人間は人間を殺す。人間は人間を救う。

 

監督. サム・メンデス  音楽. トーマス・ニューマン  撮影. ロジャー・ディーキンス