映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2020.06.05 「アマルコルド」配信 (1973年)

2020.6.05 「アマルコルド」配信 (1973年)

 

綿毛が飛んで来ると春だ。北イタリアの小さな港町、15歳の思春期の少年、その名はフェリー二君ならぬチッタ(ブルーノ・ザニン)、頭の中はオッパイとお尻で一杯である。

春は、冬の女神の人形を火あぶりにする祭りから始まる。魔女の火あぶりを連想する。

学校では隠れて煙草を吸い、悪ガキどもとつるんでイタズラをする。個性的な先生と悪ガキたちの丁々発止。

憧れの人は街一番の派手女グラディスカ (マガリ・ノエル)、ちょっと無理めの大人の女、映画館で隣に座り果敢にアタックするも軽くあしらわれる。

家は、“お前の年には働いていた” が口癖の父親(アルマンド・ブランチャ)としっかり者の母親、祖父、弟、叔父、みんな大声で怒鳴りまくる。食卓の賑やかなこと。

ムッソリーニファシズムの時代、街中がまるでスターに憧れる様な軽さで熱狂する。でも父親はどうも馴染めない。母親は集会がある日は父親を外出させない様にしている。

夏になると沖をアメリカの豪華客船レックス号が通過する。それを街中の人が小船を出して見に行く。深夜の真っ暗な海に突然姿を現す海の女王の満艦飾、それは神々しくさえある。グラディスカはそれを見て涙を流す。「大地のうた」(1956 監督.サタジット・ライ 音楽.ラヴィ・シャンカール  インド映画) で機関車を見に行った少年を思い出す。

時々は教会に行って懺悔をする。司祭は聖職者というより善良な街の一員、生活者だ。

秋の一日、精神病院に入っている叔父を家族で訪ねる。一日だけ許された外出、そこで叔父は木に登り "女が欲しい!" と絶叫する。

濃霧の朝、祖父は目と鼻の家が解らず彷徨う。牛や枯木がシュールなオブジェの様に現れる。死とはこんなものかと呟く。

“雪が降ってきたぞ!”という声に映画館に居た全員が映画そっちのけで外に飛び出す。この街にはめずらしい大雪だ。雪合戦の標的はグラディスカのお尻。

閉店後の煙草屋に忍び込み巨乳女将のオッパイに必死にしゃぶりつく。上手く吸えずに追い出される。

熱 (知恵熱ならぬ性の目覚め熱?) を出し、チッタは、好きな人から見向きもされないと母に嘆く。その母が急な病で身罷る。

突堤に旅支度をして海を見つめるチッタの姿。

再び綿毛が飛んで来て、春を告げ、憧れのグラディスカは真っ当な結婚をする。野っ原で街中集まってのお祝い、そこにはボロ切れに書かれたParadisoという幕がなびいていた。チッタの姿は無かった。

 

一言で言うなら、少年の旅立ちの話である。その前夜、まだ人間社会にまみれる前の素朴で自然で善意に満ちた一年間の話。大きな事件が起きる訳でもなく淡々とエピソードが並ぶ。それをけっして上品とは言えない下ネタのユーモアを満載して語る。オシッコだったりオッパイだったりお尻だったりオナラだったり。祖父は腕でピストン運動をやり女中の尻を触る。悪ガキは車庫の車に乗り込んで集団オナニー、興奮に合わせて車が揺れ、ヘッドライトが点滅する。マスライト。男も女もみんなスケベで自然で可愛くて “この素晴らしき人間たち”、という声が聞こえて来る。

悪人は出てこない。ムッソリーニファシズムもどこかお祭りの様だ。そんな政治や経済や人間社会のしがらみを取っ払った人間の存在そのものを、詩情豊かに点描する。社会のリアルではない、その奥にあるParadisoを。

 

「祭りの準備」(1975 監督.黒木和雄  脚本.中島丈博  音楽.松村禎三  配給.ATG)という大好きな映画がある。これは四国の片田舎で悶々としている少年の都会への旅立ちの話だった。都会で人生の祭りをこれから始めてやる! と逃げ出すように旅立つ。そこでの田舎はけっしてParadisoなどではなく、社会から切り捨てられたどん詰まり、性と老いと血の繋がりで窒息寸前に描かれていた。そこに希望の光としてあったのが “映画”だった。おそらく中島丈博自身がWっているのだろう。旅立てない者が大半、原田芳雄が一人バンザイをして見送る。忘れられないシーンである。

もう一つ「ニューシネマパラダイス」、これは誰でも思いつくはずだ。「アマルコルド」に“映画” と言うテーマを据えた様な映画、その分明快な物語性が出ていた。

 

Paradisoを持つ人は幸運だ。あるいは振り返る年齢や今の状況でParadisoとなるかどうかが違ってくるのかもしれない。けれどこの映画はそんな見方を超えてその奥にある、いい加減でスケベだけれど “人間って素晴らしい” に達している様な気がする。フェリー二は人間が好きなのだ、愛おしいのだ。

 

この映画には骨太な物語も起承転結もない。一年間の季節に則した時系列の点描が並ぶ。つなぎも素っ気無くFO。

物語を映像で重厚に語る名画は沢山ある。物語は重要だ。けれど物語の辻褄合わせが映画から詩情を奪ってしまうことがある。物語から解放された映画独自の表現があっても良い。映像と音による物語に頼らない表現としての映画、「アマルコルド」はきっとそれだ。

 

物語から解放されているだけではない。語り口は自由奔放だ。時々弁護士が登場してこの街の歴史や、グラディスカという名前の謂れ、はたまた豆売りの一晩に28人相手の自慢話の真実などをこちらに向って解説してくれる。そこに“夜中にうるさいよ”(不確か) なんて声がオフから入る。映画の完結した世界の垣根を時々飛び越える(ふりをする)。

 

目をギラつかせて年がら年中発情している女は海に向って“フーマンチュー!”(謎の中国人、映画初期に彼を主人公に何本もの映画が作られた) と叫ぶ。“女が欲しい!” と同じような意味なのか。

 

並べられたエピソードをアマルコルド (私は覚えている) として纏めているのが音楽だ。有名な8小節のテーマ、シンプルこの上なくしかも郷愁を誘い心にこびりつく。タイトルバックでテーマが流れると一気に別世界へと連れて行かれる。それに続くシーンは床屋、親父が今夜の祭りの楽隊で吹くという早いテンポの曲を笛 (Fl) で吹き、それに合わせてグラディスカがお尻から登場する。何と自然なエロティシズムか。

次のシーンは夜の祭、楽隊が威勢よく奏でる。アレッ? どこかで聞いた曲、暫く思い出せなかった。「シボネー」(作曲. エルネスト・レクォーナ) のメジャーに展開するサビだ。きっと楽隊が劇中音楽として演奏する曲としての既成曲「シボネー」だと思った。ところがそのメロは劇伴へと展開していく。叙情的なシーンと映画の枠組みを作るところではテーマ、明るく賑やかなところには「シボネー」、ほとんど劇伴として同等の扱い。新しい娼婦が来た等、さらに賑やかなところには「ラ・クカラチャ」(メキシコ民謡) 、こんなことってあるのか。ロータ自身のアイデアか、フェリー二の指示か、二人の間にどんなやり取りがあったのか。

既成曲のメロを自分の作曲したテーマと同等に消化アレンジして作り上げた、こんな見事な劇伴を僕は他にしらない。劇伴はオリジナル、劇中音楽 (例えば喫茶店のBGM等) は既成曲という住み分けが僕の中では出来ていた。今でこそ既成曲をふんだんに使うのは当り前になってきたが、それはほとんどがオリジナルの音源での使用である。ロータは既成のメロを自分の劇伴の中のテーマとして自らアレンジして使っているのだ。こんなやり方ってあったのか。

既成曲使用の著作権使用料という経済的な問題はある。貧しい邦画はその点で既成曲は出来るだけ使わない。僕はそれに慣らされていた。そんな瑣末なことより、ほとんどオリジナルといっても良いくらい見事に消化され劇伴として成功しているこの事実。僕にとっては驚き以外に無かった。

音楽は、ロータによるテーマ、床屋の親父が吹いた舞曲のようなメロ、既成曲の「シボネー」「ラ・クカラチャ」、この4曲を巧みにアレンジして構成している。絵柄として楽隊が演奏するシーンが多いので編成はSaxやCla中心の木管、そこに少し金管と打楽器、けれどそれがそのまま劇伴となるときは弦が入ってきたりする。あるいは盲目のアコーディオン弾きが語り部の様に登場してメロを引き継いだり、逆にアコのソロから大きい編成へと展開したりする。テーマと「シボネー」を繋げたりもしている。

サウンドとしてはレトロなビッグバンドジャズ。

僕には目から鱗だった。こんなやり方ってあるんだ。但し作曲家の納得が前提だ。

公開当時、この辺に触れた記事等無かったものだろうか。もし情報お持ちの方がいたらお教え頂きたい。

ひとつだけ気になったところ、テーマメロの尻のFOがどれも中途半端な気がした。フレーズの収まりの良いものにわざとしたくないという意図があったのかも知れない。しかし季節が変わって新たなエピソードとなるところ等は収まり良くした方が良かったのでは… そんなところが何箇所かあった。

 

巨乳が出てきたり、ノッポが出てきてそれを手名付ける小さな看護士女が出てきたり、伊達男や豆売りや、美男も美女も不細工も、盲目もカエル似の少女も目の周りが隈だらけの秀才も、まるで見世物小屋の如く色んな人間が出てきてそれぞれに個性的。みんなひっくるめて“この素晴らしき人間ども”とフェリー二は愛おしむ。

 

映画は劇場で観るもの、DVDや配信で、家庭のブラウン管で観るのは映画ではないとは今でも思っている。それは変わらない。けれどコロナ禍、致し方なくアマゾンの配信に入った。最初に見たのがこの作品。良いものは良い。ただやはり大きな画面で見たかった。大きな音で聴きたかった。楽隊が奏でる音楽と街の喧騒、祭りの終った後の静寂、その中に混じる様々な音、ラスト野っ原の拡がりと風音、グラディスカを乗せて走り去る車の小ささ…、残念である。

 

監督. フェデリコ・フェリー二  音楽. ニーノ・ロータ