映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2020.7.03「花のあとさき ムツばあさんの歩いた道」シネスイッチ銀座

2020.07.03 「花のあとさき ムツばあさんの歩いた道」シネスイッチ銀座

 

秩父市吉田太田部楢尾、群馬との県境、山の急斜面にへばりつく様に立つ今は住む者もいない10件たらずの民家、炭焼きと養蚕を生業とし、かつては100人からの人が住んでいた。それらが衰退した戦後、国の政策で杉の植林が奨励されるも、ようやく伐採可能に育った頃安い外材が押し寄せ杉林は放置されたままとなる。近くに下久保ダムが出来、それに合わせて道も整備され、住人は町(多分蛇石町、藤岡市に合併されて今はない)へ働きに出るようになり、集落は寂れて行く。

そんな集落を2002年、NHKが取材を開始、その時の住民は小林公一、ムツ夫婦、そしてもう一組の夫婦、他に時々帰って来る人たちが何人か。取材は18年に及び、ドキュメンタリー番組として7回放送された。

僕は全く知らなかったが、かなりの評判を得ていたらしい。7回の放送を再編集して劇場用映画としたのがこの作品である。

 

ムツばあさん夫妻もかつては街に働きに出ていたらしい。60を過ぎた頃からこの集落を山に還す準備を始める。子供たちは町に住んでいる。遠からず集落に住む者は居なくなる。

山から土地をお借りし、石垣を作り家を建て、畑として耕し、暫く生活した後、山にお還えしする、その時は感謝のお花を添えよう。いつ誰が来ても花が咲いているようにしよう。苦労して開墾した大切な畑に花を植えていく。

 

電気水道は通じている。無人となった家も時々帰る時の為にどの家もそのままにしてある。月に何回か移動販売車は来るし郵便も届くようだ。それでも猿は出没し草は生え、少しずつ自然に還っていく。

18年という時間は人間にとっては長い。公一さんが亡くなり、ムツばあさんも亡くなった。

集落は今は誰も住んでいない。行事がある時、子供世代が訪れるくらいだ。それでもムツばあさん夫婦の植えた花は毎年咲いている。いつか集落は自然に還る。公一さんやムツばあさんが自然に還っていったように。

 

映像はムツばあさんや公一さんの日々の日常を淡々と描く。二人の “死” もナレーションで触れるだけ、人間から見たら大事件だが、自然から見たら特別なことではない。ラストカットの、山道を登る生前のムツばあさんのうしろ姿、これが唯一、演出といえば言える。

 

この淡々としたドキュメント、それがなぜ僕等にこんなにも突き刺さるのか。

人間の都合だけで物事を考えていたら大間違いだよ! そんな声が聞こえる。

都会という、人間の都合の塊のようなところで生活していると、人間を含めてもっと大きなものの存在をいつの間にか忘れてしまう。人間は地球の支配者であり未来永劫主としてこの地球に君臨すると当たり前の様に思ってしまう。いやそんな事を意識もしない。長い地球の歴史を見れば解る。そんな事ある訳がない。さらに宇宙に目をやれば人間の歴史など屁の様だ。

人間は自然を利用しその法則を解明して上手く人間の都合に合わせて変えて行った。そうして今の世界を作り出した。それは凄いことだし人間という生物は奇跡に近い。そして傲慢にも自然を忘れた。確かに都会に居ると人間には人間社会しか見えない。人間は同種間の競争が好きだし、少しでも他より秀でようとする。人間は競争する生き物なのだ。そこから生のエネルギーが生まれると同時に様々な争いが生じる。

人間の都合だけで汲々となっている所に、たまに大雪が降ったり大雨が降ったり地震が来たり新型コロナウィルスが襲ったりする。その時初めて人間を超えたものがあることを思い出す。突然の災害、想定外の出来事、でもこれ人間の都合から見ただけの話、自然から見たら何ら特別な出来事でも想定外でもない。

 

人間が作り出したこの世界、その恩恵は計り知れない。それによって僕らの今の生活がある。戻すことも否定することも出来ない。ただ、このまま行ったら人類の滅亡はそう先の話ではないかも知れない。核戦争か、温暖化か、疫病か、大地震か、巨大隕石の衝突か、10年後か、50年後か、100年か1000年か10000年か…

 

自然を利用しながら程々の所で折り合いを付ける、かつて人間は “程々” をわきまえていた。利用させていただくという畏敬の念を持っていた。いつ頃だろうか、この “程々” が壊れてしまったのは。“経済” という言葉が “儲け” という言葉とイコールになったあたりか。もっともっと効率良く自然を利用して儲けなければいけない、先のことは考えず今!

 

随分前の朝日新聞天声人語に、「これ以上早くなる必要はない、これ以上便利になる必要はない、それを理論化すること…」(大体の意味) という一文があった。いずれ滅亡は避けられないとしても、子孫の為に少しでも延命はしたいものである。けれど今だに人類延命の為の大理論は生まれていない。

 

この映画には、その理論はないが実践がある。強烈なインパクトはそれだった。今すぐ都会の生活を捨てて、自然の中で生活せよ! と言っているのではない。こういう実践の例があること、人間の都合の外側に大きな世界があること、それをもう一度思い出せ! ということ、“程々” を思い出せ!  この映画はそう問いかけてくる。

 

オダギリジョウが監督した「ある船頭の話」(拙ブログ2019.9.26)  の中の忘れられないシーン、マタギの父親 (細野晴臣) が死に、その遺言で息子 (永瀬正敏) と船頭 (柄本明) が雨降りしきる中遺体を森に還すシーンがある。仕留めて来た獣たちの今度は餌となって森へ還るという遺言。遺体を覆う布を取った時の大仏様の様な細野の顔、そこに雨が激しく降り注ぐ。細野晴臣、撮影は大変だったろうなぁ、あの大仏顔ピッタリだなぁ、それらが相まってあのシーン忘れられない。「ムツばあさん~」を観てそれを思い出した。

 

音楽は小編成、Syn、Cla、G、Vl、Pf、極々普通、主張することもなく、感情を煽ることもない。音として寂しいところ、展開をスムーズにする為のところに付く。BGMに徹する。淡々とした映像だから音楽もこれで良いのかも知れない。

僕は少し物足りない気がした。せめて最後のエンドロールで、この映画が持つ深い問いかけを音楽で表現してほしかった。きっと問題提起の映画にしたくない、あくまで淡々と終わりたい、という思いがあったのだろう。僕の方がメッセージ性とか変な芸術性に毒されているのかも知れない。けれど言葉や映像が声高に語らないものを最後に音楽がすくい上げて提示しても良かったのではないか。あるいはムツばあさんのつぶやき、何気ない会話の中でこの映画の本質を突くような喋りがあったら、それをエンドロールの裏に流すとか。どうも今のままだとマッタリし過ぎている。劇場用映画として見せるにはそれくらいやっても良かったのではないか。少し重くなってしまい、さり気無さは無くなるかもしれないが…

 

ムツ婆さんの愛嬌のある平べったい顔と何とも言えない喋り方の、何と魅力的なことか。それが映画を持たせている。主演女優賞である。

こういう企画をやりおおしたNHKスタッフは偉い。それをさせたNHKも偉い。受信料を払うことに納得してしまった。

 

監督・撮影. 百崎満晴  プロデューサー. 伊藤純 ナレーション. 長谷川勝彦

作曲・演奏. 大曾根浩範(syn) 喜多直毅(vl) 巨勢典子(pf)

演奏. 加藤崇之(G) 高野裕美(cla)