映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2021.03.02「すばらしき世界」新宿ピカデリー

2021.03.02「すばらしき世界」新宿ピカデリー

 

ワーナーマークからオフでリバーブの効いた足音の様な音が薄く入る。刑務所の中を魂が彷徨っているようだ。もちろん後付けの理屈。見ている時はノッケから何だろう? だった。ただ孤独感はひしひしと伝わって来る。その音は主人公三上 (役所広司) のUPでそっと消えていく。ここからは現実。

 

出所の日、刑務官に送られ雪の中バスに乗る。初めて音楽、それがバイオリン、パーカッション、バリトンサックス、ピアノで、ラテンというか中近東音楽というか、全く意外。出所の日だから明るくて良いのかもしれないが、このエキゾチシズム、この音楽の距離感、この映画、コメディー仕立だなと思う。その通り、長らくムショ暮らしだった男が、娑婆の現実にぶち当たって悪戦苦闘する話だ。それを独特のユーモアを持って描く。リアルな様だが深い優しさを持ったヒューマンコメディー、役所広司という存在がそれを成り立たせている。

 

単純な正義漢でキレやすく、それゆえ殺人を犯した。度を越したことに反省はするもキレたことには反省も後悔もない。真っ直ぐな性格。そんな人間に娑婆は優しくない。福祉事務所もコンビニもアパートの住民も自動車試験場の審査官も。ついにはチンピラに絡まれていたサラリーマンを救けて大立ち回りをしてしまう。その時の三上の生きいきとしたこと、それを見る僕らのスカっとする気持ち。三上は正しい、どれもこれもみんな正しい。けれど純粋無垢な子供の様な正義感でこの社会を生きられないことを僕らは知っている。真っ直ぐな心が通じるのは映画の中だけ。だからそれを見て僕らは拍手し涙する。

 

人間の子供は剥き出しの自我を成長するに従い他者との関わりを通してコントロールし折り合いを付ける方法を学んでいく。三上にはそれが希薄だった?

考えれば、娑婆で普通に暮らすということは我慢の連続だ。僕らはそれをほとんど無意識に行っている。複雑な制度に腹が立つしPCを扱えない奴はどうするんだ、ズルと嘘が蔓延する、自分の子供がイジメにあったら相手のガキを引っ叩きたい、理不尽な上司を殴りたい。でもしない。身元引受人の弁護士は言う。我慢、キレるな、深呼吸。 

弁護士夫妻(橋爪功梶芽衣子) 、福祉事務所の人(北村有起哉)、コンビニの店員(六角精児)、ルポライター (仲野太賀)、一歩踏み込んで接するとみんな良い人だ。ちょっと都合良過ぎない? と言えばそうかも知れない。だが僕はホッとする。「ダニエル・ブレイク」(拙ブログ2017.03.28)の様に徹底的にリアルに描いて問題提起するのも良いが、僕はホッとする方が良い。人間を信じたい。

 

音楽は冒頭の曲以外はピアノ中心にドラマに付ける。バイオリンの弦か何かをはじく音が随所に入る。情念と忍耐には、低弦の蠢き、シンセの歪んだ低音、ヒューマンなふれ合いにはピアノが間のある優しいメロディーを付ける。けっしてウェットにしない、乾いて距離を置いた、けれど優しい音楽。付け過ぎず程好く三上の気持ちをサポートする。

 

我慢しているつもりでも、あちこちでトラブルが生じ上手く行かない。初老のムショ帰り、高血圧生活保護の男、アパートの部屋でイラだってカップ麺を投げつけたりする。

 

中盤、何もかも上手く行かず、昔の兄貴分に連絡を取ってしまう。映画の分岐点。突然の東京の夜の空撮、そこに「What a Diference a Day may」に似た女性Vocalが流れた。その鮮やかな転換。作詞.aiko、作曲.林正樹、歌.Lydia Harrell、「What~」に感じが似てるがオリジナル。東京から九州へ、カタギからヤクザの世界へ、余計な説明は無くあの歌で一気に転換する。音楽演出として見事。あるいは突然の女性ジャズVocalに違和感のあった人もいるかも知れない。違和感か見事か、これは感性の違い、どうしようもない。僕は見事!

けれどここにも平安は無かった。兄貴分 (白竜) の組は警察のガサ入れをくう。ヤクザは今の世、やっていけるものではなくなっていた。最近の「ヤクザと家族」等の映画を僕は見ていない。思い出すのは「その後の仁義なき戦い」だ。勿論ヤクザを肯定なんかしない。けれど“強きをくじき弱きを助く”の直情型正義感には郷愁がある。今“強き”と“弱き”は複雑に入り組み見分けは付かなくなってしまった。

少ししか出てないが姐さん役のキムラ緑子が良い。ガサ入れの裏で、ヤクザは成立しなくなったこと、娑婆もヤクザも我慢の連続、でもカタギの空は少しだけ広い、戻ってきちゃダメ! 餞別握らせて逃がす。手を合わせて走っていく三上、良いシーンである。

 

ルポライターが三上が預けられたという養護施設を探し出して、二人で訪ねる。バックにギターでカントリー調の曲が流れる。

品のイイお婆さんが映し出された。あれ? もしかして母親? 母親に会っちゃうの? 一瞬そう思わせて、そうではなかった。このお婆さん、時々施設に手伝いに来ていた人、当時のことは殆ど覚えていなかった。母親らしき人の記憶も無し。けれどこれだけでは終わらせない。ピアノが弾けたというお婆さんは園の歌の伴奏をしたという。すると三上がぼそぼそと記憶の底から言葉を拾い出すように唄い出した。お婆さんも一緒に唄い出す。歌が一気に時間を飛び越えあの頃を蘇らせ、昇華する。この歌の演出は上手い! どんな歌だったか、詩や曲がどうのということではなく、園の歌で演出したということの上手さである。そのあと三上は園児と庭でサッカーをし、ゴールした少年を抱きしめながら泣き崩れる。こちらもマスクがグショグショである。

母親は三上を迎えに来なかったのかも知れない。三上がいつのまにか作ってしまったフィクションだったのかも知れない。真偽は解らない。ただ母親のフィクションがこれまで生きてくるのに必要だったのだ。ここで三上はそれにケリを付けた。

 

ヤクザにケリをつけ母親にケリを付けた三上は東京に帰って、我慢、キレない、深呼吸、で新たな生活を始める。介護施設の手伝いという仕事も得た。弁護士夫婦や福祉事務所やコンビニやライターがそれを祝ってくれた。

 

最近僕は映画の後半になると、どういう終わり方にするのかなぁと、そればかりが気になる。我ながらイヤな見方である。高血圧で心筋梗塞らしいことは始めにふれられている。薬も飲んでいる。これだということは想像がついた。どの辺でこれを使うか。

働き出した介護施設の同僚に知恵遅れの若者がいた。何かとヘマをやり同年代の他の同僚からは馬鹿にされていた。お花を大切にしていた。施設の裏でその若者がイジメられていた。キレた三上が迫っていく。ここで乱闘になり、三上に発作が襲い、ボコボコにされ、横たわる三上の姿を捉えたままカメラがスーッと上に引いていく。暗く救われない終わり方、「ダニエル・ブレイク」型。ところがこれは幻想だった。三上は我慢したキレなかった深呼吸した。同僚が若者のヘマを馬鹿にしながら話す、それに息苦しそうに引きつった様な笑いで応じた。シャバで生きるとはこういうことなのか。その晩三上はアパートで発作を起こし一人で死んだ。手には若者がくれたお花が握られていた。

翌朝集まった、身元引受人、福祉事務所、コンビニ、ライター、みんなやりきれない思いだった。新しい生活がスタートした矢先だった。でも最後にカメラは上に向かってパンして、少しだけ広くなった空を映した。

「すばらしき世界」は皮肉にも取れる。でも僕は言葉通りに受け止めようと思う。

 

品のイイお婆さんを一瞬母親と思わせた、知恵遅れの若者イジメに迫って行った、この二か所、この思わせぶり演出には一瞬ダマされた。西川美和に弄ばれた。

 

長澤まさみがこの映画唯一のセクシーを担当する。三上のドキュメンタリーを企画するTV局P役。出番は僅かだが圧倒的にエロい。あの存在感、今や大女優。

 

セクシーといえば裸一杯のソープのシーン、でもセクシーというよりも母と老いとエロが一体となって三上の優しさ溢れるシーンになっていた。ソープ嬢 ( ? ) も良かった。

 

今、邦画で役所広司のお陰で成立する企画が多数ある。この映画もその一つ。邦画を支える大スター。だが僕はスターのオーラを感じない。カッコイイし充分にスターなのだが、ヤクザをやっても山本五十六をやっても中年の冴えないサラリーマンをやっても、いつも役所広司なのだ。このオーラのなさ、この普通さ、見事に役に成り切りしかもいつも役所広司である、これを名優というのだろうか。演じている感すら感じさせない。映画界は役所広司に感謝すべきである。

 

監督. 西川美和   音楽. 林正樹