2021.04.06「ノマドランド」TOHOシネマズ日比谷
2021.04.06「ノマドランド」TOHOシネマズ日比谷
劇場の大スクリーンで観なければいけない映画である。
画面を目一杯使った圧倒的大自然、その中に置かれた小さな人間、何とちっぽけで気高いのか。
ノマドとは遊牧民を指す。家を持たずキャンピングカーで流浪する、アメリカ中西部のそんな人々を、ファーン( フランシス・マクド―マンド) という女性を通して描く。フランシス・マクド―マンドは「スリービルボード」(拙ブログ2018.2.09 ) でオスカーに輝いた女優である。
企業城下町として成り立っていた町はその企業が閉鎖されればひとたまりも無い。夫が死亡し、社宅に住んでいたファーンはハウスレスとなり、キャンピングカーで彷徨することになる。リーマンショック直後の頃。
アメリカは今、中流と下流の差が縮まっているらしい。中流の生活をしていた人があっと言う間に下流へと転落する。でも都市のスラムに吹き溜まる下流ではない。ホームレスではなくハウスレス。高沸する不動産価格、家さえ持たなければ僅かな年金と日雇い仕事で何とか生活出来る。農産物収穫の手伝い、国立公園の清掃、そして感謝祭とクリスマスシーズンというAmazonが最も忙しくなる時期の仕分けと梱包。Amazonは彼らに無料で駐車場を提供する。駐車場の確保は彼らにとっては一番の問題だ。日雇い仕事を求めて彼らは転々とする。
原作 (ジェシカ・ブル―ダ―) はそんな彼らを3年に渡り追ったノンフィクション。それをファーンという主人公を設定してドラマ化した。作為はほどこさない。ファーンを通して彼らの生活を淡々と追う。まるで本物のノマド・ファーンを追ったドキュメンタリーの様だ。俳優はファーンと彼女の理解者デイブ (デビッド・ストラザーン) だけ。
始めの方、老婆がなぜノマドになったかを語る長回しはリアルで説得力がある。ノマドの集会の様なものもあり、髭をはやしたリーダー的存在もいる。みんな本物のノマド、この部分はドキュメンタリーということだ。ドキュメンタリーとドラマが混然一体となり見分けがつかない。
ファーンは小さなバンにそれまでの人生をすべて押し込む。狭いスペース、本当に大切なものだけを詰め込む。余分なものは持たない持てない。必要なものは仲間と物々交換する。所有が削ぎ落とされて本当に必要なものだけになる。大切な思い出の皿をうっかり割られた時、ファーンは怒った。割れた皿を接着剤でくっ付けた。思い出が無くなると生きていけない。
みんな高齢者、それまで定住社会の中で生きて来た。ファーンは代用教員をしたこともある。スーパーで教え子と遭遇した時も毅然としていた。人間としてのプライドはしっかり持つ。
車の修理代も無いギリギリの生活、病気になったらお仕舞いだ。老いて身体が思う様に動かなくなるという恐怖感は常にある。身内や理解者から定住の誘いもあった。でも孤独な自由を選ぶ。
大平原の中で誰憚る事無く尻をめくりオシッコをする。カメラがそれをロングで捉える。彼方に夕陽が沈む (これ不確か、話を盛っているかも)。
せせらぎでスッポンポンの身体を水に浸す。自然に抱かれるとはこういうことなのか。そこに定住者の論理は微塵も無い。自然と一体になった人間の姿。
いつも背後に広大な大自然がある。その映像は圧倒的だ。その中をファーンは一人車を走らせる。人の一生とはこういうことなのか、という気がして来る。
彼らには連帯感がある。定住を前提として作り上げられた今の社会の価値観の外側にいる者同士の仲間意識、競争を基本に置く定住社会に対し、援け合いを基本に置くノマドたち、そうしないと生きていけない、けれどきっとそれだけではない。家族が居る者いない者、病の末に定住へ戻る者、流浪の末に逝く者…
日雇いの短い期間を援け合い、また会おうと別れて行く。見ている内に定住が諸悪の根源ではないかという気がしてくる。定住が所有欲を生む。定住者が競争を基本とした社会を作り、今日の世界を築き上げた。不動産価格の高沸もそんな中から生まれた。定住者との会話の中でそんな話も出てくる。
近代の真っ只中からの新たな遊牧民の誕生、それは定住で成り立つ今の社会への大きな問いに違いない。
何故ノマドになったか、何故定住しないのか、ファーンは社宅の裏に地平線まで続く砂漠が広がっていたからだという。廃墟となった社宅を訪れ、その砂漠を見つめるうしろ姿で映画は終わる。
良い映画なのだ。ただ音楽が気になった。一度見なので記憶曖昧、違っていたら許してほしい。
映画が始まって少しして(シーン失念) 、メロドラマの様なウェットなメロのピアノソロが鳴った。意外なので驚いた。少ししてまた同じ様なピアノソロが入った。ファーンの気持ちとそれに続く車での移動のシーン、結構長い。砂漠や山々を背の車の走りに音楽を付けて括りたいのは解る。でも走る車のロングからではなく、その前のファーンの気持ちを語るようにマイナーで入ってその感情をそのまま通す。孤独感は画面を見れば解る。厚塗りする必要なんてない。僕ならこの2曲トル! 3曲目はホンキ―トンクピアノでブルースを唄う酒場のシーン。ホンキ―トンクピアノ、アウトして直結で先のウェットなピアノソロ、映像は廃墟となった社宅 (?) 前に立つファーンの後姿のロング、そして次の日雇いの地へ走る車、この一連をウェットメロのピアノソロが通す。この音楽も必要なのか。せめてホンキ―トンクと車の走りの間を素 (音楽無し) にするとか。素の力は音楽に匹敵する。
以後、車の走りとファーンの気持ちに合わせて厚塗りウェットメロが随所に入る。
音楽の絞り方も中途半端。車の走り一杯でアウトすれば良いものを、ジャガイモ工場の作業シーンまで引っ張る、まるでFOをし損なったかのように。
ノマドを選択した理由には社会的要因がある、家族の問題がある。社会の歪み、経済の問題として捉えるなら「ダニエル・ブレイク」(拙ブログ2017.03.28) の様に描けば良い。家族の問題として描くならホームドラマの視点で描けば良い。この映画、それらを包含しつつ、その背後に広大な自然を描く。人間社会を超えた自然を描く。人間のドラマの背後にはいつも山々が連なり、砂漠が広がっている。画面の端には夕陽が沈んでいく。そこには人間社会の喜怒哀楽を超えた時間が流れている。映像はしっかりとそれを捉えている。音楽がそれをただの人間ドラマに矮小化する。
荒涼とした海に向かって佇むファーン、そこにエモーショナルなピアノ、鳥が飛び立つとそれに合わせてチェロが入り盛り上げる。孤独の強調? 映像が持っていた悠久の孤独は人間ドラマの解り易い孤独に押し込められる。これは監督の本意だったのか。あるいはまるで邦画の様に、プロデューサーサイドから、もっと解り易く泣ける様に、とでもリクエストがあったか。
既成曲がかなりの数、的確に使われている。いっそオリジナルの劇伴はラストを除き全部外し、既成曲のみでやれば良かった、最後の砂漠からエンドロールまでのみオリジナルの劇伴、但しメロドラマの様なウェットメロではなく、人間的情感を超えた音楽で…
抽象的な言い方だが、地平線の彼方から聴こえてくる様な音楽がほしかった。例えば「パリテキサス」の様な、あるいは「バクダッドカフェ」の”calling you”のような、 そのままそんな音楽ということではない。考え方としてである。僕はピアノという楽器の選択も違うような気がする。
映画音楽に正解は無い。だから、一度見をしただけの僕の主観ではある。
監督. クロエ・ジャオ 音楽. ルドビコ・エイナウディ
原作. ジェシカ・ブルーダー
撮影・美術. ジョシュア・ジェームズ・リチャーズ
( 撮影と美術を兼務しているのに驚き、成る程と思った。素晴らしい! )