2021.05.13 「街の上で」 ユーロスペース
2021.05.13「街の上で」ユーロスペース
浮気した彼女から別れ話を切り出されても、別れたくないと食い下がる、古着屋で働く荒川青 (若葉竜也) 。舞台は下北沢、「愛がなんだ」(2019 監督.今泉力哉) のナカハラ君を継承するこの主人公と、彼を巡る四人の女。と言っても彼を奪い合うというような話ではない。
雪 (穂志もえか) は青がいるにも拘わらず浮気して全部して、“別れよう”と切り出す。“絶対に別れない”と食い下がる青、“じゃ、それでいいよ、私は別れたと思ってその人とちゃんと付き合う、青はまだ私と付き合ってるって言い続けていいよ”
青が頻繁に行く古本屋の店員田辺冬子 (古川琴音)、“荒川さんって、昔、音楽やってたって本当ですか、どんな曲作ってたんですか” もしかしたら青はかつてミュージシャンを目指していたのかも。あまりにも遠慮なく直球で来た質問に垣根が壊れ、青も直球で返す。“田辺さんって、かわなべさんとデキてたってほんと?” かわなべさんとは自殺(?)した古本屋の店長。
暇な古着屋でいつも本を読んでいる青のところに自主映画を製作している高橋町子 (萩原みのり) が “良かったら私の映画に出てもらえないですか” と言って来る。“台詞とかないし、ただいつもの様に本を読んでいてくれればいいだけですから”
撮影当日、ガタガタに上がった青はNG連発。終わった後の飲み会で、一人浮いた青と、浮き気味のスタッフ・城定イハ (中田青渚) 。城定秀夫 (2020「アルプススタンドのはしの方」の監督) の城定ですと言わせるあたり、マニアック。イハはジェームス・イハか。何となくイハの部屋に転がり込み、“恋バナ”で盛り上がり、何もなく朝をむかえる。
下北にはそこら中に転がっている話だ。
これまで映画は、誰もが納得する喜怒哀楽の太い物語を据え、些細なこと微妙なことは捨象した。明解なストーリー、その為の誇張と切り捨て、輪郭のはっきりした台詞。
この映画はその全く逆である。切り捨てられた些細なこと微妙なことを丹念に拾い集めて再構築する。些細の鮮度を無くさないよう細心の注意を払う。鮮度が生命だ。その為には台詞も台詞らしく凝縮しない。日常の無駄だらけの会話をそのまま演じる。これって大変なことだ。設定を決めてそこで役者をアドリブで自由にやらせる、というのとは違う。台詞としてキチンとダラダラ書かれている。それを役者が生に解凍するのだ、実に自然に、演技なんてしてないように。役者は大変だったはずだ。
当然ながら録音も全編同録のはず。拾い切れてない、聞き取りにくいところもある。けれど鮮度優先、アフレコなんて以ての外。この映画、モノラルということをパンフレットで初めて知った。全く気が付かなかった。テーマパークムービーの立体音響を否定するつもりはないが、良い映画はモノもステレオも関係ないのだ。全部が全部ではないが。
撮影も長回しが多くなる。“恋バナの一夜” なんてカメラはフィックスだ。小手先不要、素材の鮮度。
脚本は綿密この上ない、知恵の限りを尽くしている。些細な素材を関連付け、ロバート・アルトマンよろしく、朝の路地の十字路で一気に纏める、これは大変な計算だ。朝の十字路は本当に生々しく可笑しい。
成田凌が下北を巣立った者として出てくる。これが雪の浮気相手。この位の作為は仕方ないか。学生演劇から朝ドラに飛躍した役者も現実に居た。
二度出てきて長々と同じ台詞を喋るお巡りさん、最初は単なる遊びと思ったら最後に雪の自転車で生きた。ちゃんと計算された伏線だった。お巡りさんまで下北っぽい。「ダウン・バイ・ロー」(1986ジム・ジャームッシュ) のロベルト・ベニーニを思い出した。大昔の話なので思い違いかもしれないが。
みんな社会の中で何者かになろうとしている。青にはそれがない。かつてはあったのかも知れない。学校とか会社とか地域とか家庭とか、どれも何者かであることを強要して来る。下北にも何者かになろうと必死の奴は居る。けれどそうではない、何者でもない、何者にもなろうとしない、そんな存在も許容される、街がモラトリアムを受け入れる、モラトリアムが後ろめたさを感じずに存在出来る。
なぜそうなったかは解らない。多分本多劇場の存在が大きかったのでは。僕の頃も演劇系の奴はみんなシモキタシモキタと言っていた。そこから飛躍した者、何者かになった者、飛躍も出来ず何者にもなれなかった者、そんな者たちの些細が堆積して街の土壌が作り上げられてきた。
僕が知っている下北はまだ本多劇場しか無かった頃だ。たまに行ってお酒は飲んだが住人では無かった。ましてや劇場が増え多くのスターを輩出するようになった今の下北は全く知らない。そして更に街は変貌を続けているらしい。モラトリアム土壌は大丈夫だろうか。
僕の頃の若者の街は新宿だった。日本中から若者が集まった。何者かになろうというより何かが起こるかもしれないと集まった。社会を変えるという意識だけはお題目の様に持っていた。モラトリアムというより治外法権と言った方が近いかも。「止められるか、俺たちを」(拙ブログ2018.10.15) はそんな雰囲気を思い出させてくれる。
この映画、ひたすら些細を描いて、社会性は感じられない。こいつら半径5メートルが全てかよ! と言いそうになる。けれどちゃんと働いて生活して悪いことはしていない、人を蹴落としたりもしない、モラトリアムのどこがいけないんだ! という声。すくなくともモラトリアムは競争し人を出し抜こうとはしない。今はモラトリアムであること自体がメッセージ性を持つ。
何者でもない自分という時期は貴重だ。その時“好き”だけが残る。この監督はそれに拘り続ける。
結局、自主映画の青の出演シーンはカットされていた。映画の冒頭、そのカットされたシーンが流れる。“誰もみたことはないけど確かにここに存在している” その意味、ようやく解った。
取り敢えず青は雪を取り戻した、取り敢えず。
結婚か生活の為か子供が出来たか、いずれモラトリアムを卒業しなければならない時が来る。その時、下北で過ごした時間はきっと役に立つはずだ。人を蹴落とす様なことはしないはずだ。
「愛がなんだ」はあんまり好きではなかった。ナカハラ君だけは心に残った。それがこんなに面白い映画になったとは…
劇伴は少し、メリハリ付けたいところにカットインする。インのインパクト、それのみで何ヶ所か。ローリングの主題歌も違和感無し。
留守電にだけ残るかわなべさんは、本当に死んだのだろうか。居たのだろうか…
監督. 今泉力哉 音楽. 入江陽 主題歌.「街の人」(ラッキーオールドサン)
2021.04.28「ブータン 山の教室」岩波ホール
国旗を崇め国歌を斉唱し王様を尊敬する、自然と生活と政治体制がひとつになって調和する理想の姿。本当か? かつては世界中みんなそうだったのか。人が集まれば争いが起こる。けれど人間同士争っては生きていけない圧倒的自然の中で、それは奇跡的に保存されていたということか。そこに近代が入り込む。先生は近代だ。“先生は未来に触れさせてくれる”しかしそれが調和した世界を壊すことになっていく。このどうしようもない矛盾、そこからが本当のドラマ。これは、それが起こる直前の牧歌的素朴と善意の映画。
幸福の国ブータンも首都ティンプーはすでに近代に侵食されている。主人公ウゲンはたえず携帯をいじる。サッカーの香川真司似の薄っぺらな教師の卵 (香川真司が薄っぺらということではない) 。自分は教師に向いていない、いずれはオーストラリアに移住してシンガーソングライターになる。ギターの腕前は、僕が高校生の頃初めてギターを手にしてスリーコードでフォークソングを唄った頃と大して変わらない。情報化社会、人類皆表現者、の時代は薄っぺらな勘違いだらけだ。確かにYouTubeでド素人が一瞬ウケることはある。芸術とは真逆の、一瞬のウケ、今や芸術も政治もこれが物事を決めて行く。人口70万、幸福指数No1のブータンも、首都はTokyoと同じだ。
ウゲンは薄っぺらであればあるほど良い。ルナナ村とのコントラストが付く。
国の命令で、車で一日、そこから先は徒歩と野宿で一週間の、ブータンでも最も僻地ルナナ村へ教師として赴く。次元の違う世界へ行くにはこの位の時間と距離と苦行が必要だ。そこには目をキラキラと輝かせて先生が来るのを待っている子供たちがいた。
電気は滅多に来ない、紙は貴重品、ドボントイレ、燃料はヤクの糞、石造りの学校は土埃で外と変わらない、黒板も無い。子供たちはアルファベットのCの例としてCarと言っても解らなかった。車を見たことがないのだ。
直ぐに帰ると言い出したウゲンがそうしなかった理由はとくに描かない。“先生、8時半、学校の始まる時間です” 寝ていたウゲンを起こしに来たぺムザムの無垢な瞳のせいか。村人も初めから崇めるようにウゲンを迎える。よそ者視線は全くない。
ウゲンの気持ちが変わっていく。壁を黒板替わりにし、自分の部屋の風避けの紙を切って子供たちに与える。村の人とも打ち解けていく。そうなる切っ掛けとなるエピソードも特に描かない。村長が最後の先生が去ってかなりになると繰り返し語る。
ヤクを飼う女性セデュからその地に伝わる「ヤクに捧げる歌」を教わる。多分村一番の美人、やっかみの様なものはなかったか。ヤクは、糞は燃料となり乳は飲料やバター、肉は困った時の食料となる。崇拝の対象であり生活必需品、人間の生活と一体化している。「ヤクに捧げる歌」にはそれらがみんな詰まっている。ドレミでは割り切れない口承で伝えられてきた節回し、山々と対峙しても通る強い声、室内の残響が無いと聞けない今時の歌とは違う。
昼間から酒を飲み酔いつぶれる男、ぺムザムの両親は離婚していること、この二つだけが我々の世界と通じる。
何か事件が起こる訳でもなく冬が近づく。閉ざされる冬を前にこの地に残るかどうかを決めねばならない。ウゲンはセデュと恋に落ち、ここに残ることを決意するか。ナンテついつい通俗的推測を働かせてしまう。
ウゲンは残らなかった。子供たちとの別れ、村人たちとの別れ、お涙になるのはしょうがない。
そのあとの展開に驚いた。間髪入れずオーストラリアのライブハウス、移住したとテロップ、そこでウゲンは「ビューティフルサンデー」を唄っていた。その薄っぺらなこと、生活も人生も時間も詰まっていない、ただ口当たりの良いメロを吹けば飛ぶような声で唄う。見事な展開というより呆然とする展開である。案の定ウケない、というより無視。ウゲンは唄うのを止め、一呼吸置いて「ヤクに捧げる歌」をアカペラで唄う。映画はそこで終わる。
唄い終わってエンドロールだったか、ロールの途中からバンド編成とシンセで入って来る曲が「ヤクに捧げる歌」だったか。一度見時間も経って記憶曖昧、肝心なところがボケている。ただ「歌」というものを考えさせられた。片や生活と時間と自然への畏敬が詰まった歌、片や何にも詰まっていないが西洋音階で覚えやすく国境を越える共通言語&商品としての歌、このコントラストが描ければ監督としては、してやったりなのだ。
ウゲンにもう少ししっかりとした声と歌唱力があればもっと鮮やかだった。でも歌に対比を集約させた演出は見事だ。
人が集まれば必ず争いが起きる。人口70人のルナナ村とて争いはあるはずだ。過酷な自然の中で共同体を守るには不合理な掟の様なものだってあるはずだ。この映画はそこには目を向けず、奇跡的に残されている素朴と善意の象徴としてルナナ村とそこの人々を描く。
電気の安定供給が始まれば一気に近代が押し寄せる。今、先に近代化した者たちはその歪みを声高に言う。これから近代化を経験するルナナ村の人たちは暫くは歪みより恵みを享受するだろう。ルナナ村の人にとって未来はイコール近代化なのである。
ヒマラヤの麓に奇跡的に残されたほとんど絶滅危惧種といえる人々の素朴と善意を、余計なことは考えず素直に受け入れるべき映画である、郷愁をもって…
監督. パオ・チョニン・ドルジ
音楽. 「ヤクに捧げる歌」「ビューティフル・サンデー」等、
劇伴が記憶にない。あったはずなのだが。音楽家のクレジットも見つからず
2021. 04. 23「ミナリ」TOHOシネマズシャンテ
2021.04.23「ミナリ」TOHOシネマズシャンテ
1980年代、農業でアメリカンドリームを果たすべく、中西部アーカンソー州へ移住した韓国人一家の物語。夫婦(ジェイコブとモニカ)、まだ幼い姉弟(アンとデビッド)の四人家族。夫婦はまずロスに住み、ひよこの雌雄の仕分け作業をしたようだ。子供はそこで生まれたか。このままだと下済みのまま、ソウルに居た時と変わらない。一念発起してアーカンソーへやって来る。広大な土地と、住居はトレーラーハウス、妻が話が違うとブー垂れる。デビッドは心臓の持病を持っており、妻はどうやら初めから乗り気ではなかったらしい。スタートから諍いが絶えない。
始めの方、帰宅した父を待って喧嘩が始まると察知した姉弟が、“喧嘩はしません”という誓約書を手書きで作る。実は遠い昔、私にも経験がある。幼い子供にとって夫婦喧嘩はイヤなものだ。子供の必死の思いの誓約書、一時の効力はあっても何の力にもならないことは経験上解る。
父は韓国野菜の栽培を始める。もっと作り易い作物があるはずだが敢えて韓国野菜にする。
韓国からの移住者は年々増えている。需要はあるはずだ。
身を粉にして働く父、ヒヨコの仕分け労働をしながら子供の世話と家事を担う母、それを見つめる息子デビッド。
この映画、監督の半自叙伝らしい。デビッドがのちの監督ということだ。回想のモノローグこそないがデビッドの視点で描かれる。アーカンソーを舞台にした「北の国から」である。もちろん家庭の事情は違うが。
悪戦苦闘に妻が音を上げる。離婚の危機か。解決策として韓国から妻の母親を呼ぶ。スンジャ婆ちゃんは花札と韓国の漬物を一杯持ってやって来た。トレーラーハウスにキムチの匂いが充満する。始めは嫌っていたデビッドはその匂いと婆ちゃんに少しずつ馴染んでいく。
婆ちゃんが持ってきた苗を二人が見つけた綺麗な清流のほとりに植える。苗はミナリ、セリのことである。環境が合えば自然に殖えて行くと婆ちゃん。この清流、とてもアメリカとは思えない、日本的東洋的だ。
それにしてもこのスンジャ婆ちゃん、何とアナーキーなことか。もちろん英語は話せない、教会への浄財は失敬する、甲斐甲斐しく家事をこなす訳でもなく、子供と花札をし、成り上がろうとする夫婦に理解を示す訳でもない、きっとこの婆ちゃん、世界中どこへ行っても変わらずマイペースだ。
ジェイコブ、モニカ、アン、デビッドという名前はどれもキリスト教とゆかりの名前らしい。初め父親の名がジェイコブというのに違和感があった。アメリカに来て改名したのか、それとも韓国に居る時からこの名前だったのか。この家族とこの映画のキリスト教との深い関わり、僕には良く解らない。スンジャ婆ちゃんはキリスト教的価値観の中に飛び込んで来た韓国的価値観、というより東洋的価値観ということか。経済的野心の為韓国野菜を植える父と自然に適したミナリを植えるスンジャ婆ちゃん、ミナリは次世代に向かって殖え続ける植物らしい。
キムチ臭いと言われなかったか、東洋人差別は無かったか、その辺は描かない。家族は日曜礼拝に行き、デビッドにも友達が出来る。1980年代のアメリカは今よりリベラルだったのかも知れない。経済格差による怒りが顕在化するのはもう少し後のことか。不確か。
ジェイコブは、歳の行った白人ポールを雇う。この地で農業をやり失敗した者かも知れない。土地に詳しく色々とジェイコブに提案をする。ジェイコブは聞く耳持たず、自分のやり方を押し通す。掘立小屋で暮らすこの極貧男、日曜日には、ゴルゴダの丘よろしく大きな木の十字架を背負い教会まで苦行を行なう。街の人からは白い眼でみられている。プアホワイト、白人であることが最後の拠り所、白人至上主義者として後にトランプ支持者となるような人。けれどポールはそうはならず人種差別もせず、あたかもこれまで白人が行ってきた征服とその手先の役割を果たしたキリスト教会の罪を一身に背負うかの如く、黙々と苦行を行なう。この辺の意味合い、僕には解らない。
売り先にメドが付いた穀物の貯蔵小屋が、婆ちゃんのミスで火事になってしまう。必死に穀物を運び出すが、大きな痛手となる。それを切っ掛けに婆ちゃんはボケ始める。ジェイコブも少し変化し、人の意見を聴く様になる。初めてポールを食事に招待する。
デビッドが父に婆ちゃんのミナリを見せる。生い茂るそれを見て父は感嘆する。
何度も言うが、キリスト教のことは良く解らない。ただ幼いデビッドは家族の変化をしっかりと見届ける。
家族四人と婆ちゃんが川の字になって寝るところで映画は終わる。が家族の物語はその後もずっと続く。
1980年代、東洋人への差別はまだまだあったはずだ。ましてや保守的な田舎である。既得権者としての白人の壁は簡単なものでは無かったはずだ。そのへんの淡泊さに不満は残るも、デビッドが是枝作品の子供の様に自然であったこと、スンジャ婆ちゃんが設定も演技も素晴らしかったこと、それだけでも飽きることなく観ることが出来た。スンジャ婆ちゃん(ユン・ヨジョン) のアカデミー助演女優賞は肯ける。
ただ「ノマドランド」もそうだったが、音楽がどうにも気になる。シンセの弦の音色、白玉パッド、そこにPfがアルペジオで載る。起伏の無いメロをかなりのボリュームで奏でる。素 (音楽が無い) を恐れるかの様に、音楽を付けられそうな所には必ず付ける。音を重ねるだけの単純なアレンジ、安手の意味あり気。ホームドラマの音楽は避けたかったのかも知れない。日々の日常を超えたものを感じさせたかったのかも知れない。それは解る。だからシンセ?
余計な所には付けず、「Rain Song」(エンドロールに流れるメロ) だけを要所要所にそっと流すだけでも良かった。遠いところからの視点である。
音楽のセンスは、いつどこで生まれ育ち、どんな音を聴いてきたか、つまりはそれまでの人生すべてによって形作られる。イイ悪いではない、他人がとやかく言えない個別なのだ。それをとやかく言っている私は何と無粋なことか。ただ音楽で映画をより深いものにする方法は色々とある。映画音楽に正解はない。
あくまで一度見の僕の主観。二度見して確認したかったのだが、コロナのせいで…
監督. リー・アイザック・チュン 音楽. エミール・モッセリ
2021.04.06「ノマドランド」TOHOシネマズ日比谷
2021.04.06「ノマドランド」TOHOシネマズ日比谷
劇場の大スクリーンで観なければいけない映画である。
画面を目一杯使った圧倒的大自然、その中に置かれた小さな人間、何とちっぽけで気高いのか。
ノマドとは遊牧民を指す。家を持たずキャンピングカーで流浪する、アメリカ中西部のそんな人々を、ファーン( フランシス・マクド―マンド) という女性を通して描く。フランシス・マクド―マンドは「スリービルボード」(拙ブログ2018.2.09 ) でオスカーに輝いた女優である。
企業城下町として成り立っていた町はその企業が閉鎖されればひとたまりも無い。夫が死亡し、社宅に住んでいたファーンはハウスレスとなり、キャンピングカーで彷徨することになる。リーマンショック直後の頃。
アメリカは今、中流と下流の差が縮まっているらしい。中流の生活をしていた人があっと言う間に下流へと転落する。でも都市のスラムに吹き溜まる下流ではない。ホームレスではなくハウスレス。高沸する不動産価格、家さえ持たなければ僅かな年金と日雇い仕事で何とか生活出来る。農産物収穫の手伝い、国立公園の清掃、そして感謝祭とクリスマスシーズンというAmazonが最も忙しくなる時期の仕分けと梱包。Amazonは彼らに無料で駐車場を提供する。駐車場の確保は彼らにとっては一番の問題だ。日雇い仕事を求めて彼らは転々とする。
原作 (ジェシカ・ブル―ダ―) はそんな彼らを3年に渡り追ったノンフィクション。それをファーンという主人公を設定してドラマ化した。作為はほどこさない。ファーンを通して彼らの生活を淡々と追う。まるで本物のノマド・ファーンを追ったドキュメンタリーの様だ。俳優はファーンと彼女の理解者デイブ (デビッド・ストラザーン) だけ。
始めの方、老婆がなぜノマドになったかを語る長回しはリアルで説得力がある。ノマドの集会の様なものもあり、髭をはやしたリーダー的存在もいる。みんな本物のノマド、この部分はドキュメンタリーということだ。ドキュメンタリーとドラマが混然一体となり見分けがつかない。
ファーンは小さなバンにそれまでの人生をすべて押し込む。狭いスペース、本当に大切なものだけを詰め込む。余分なものは持たない持てない。必要なものは仲間と物々交換する。所有が削ぎ落とされて本当に必要なものだけになる。大切な思い出の皿をうっかり割られた時、ファーンは怒った。割れた皿を接着剤でくっ付けた。思い出が無くなると生きていけない。
みんな高齢者、それまで定住社会の中で生きて来た。ファーンは代用教員をしたこともある。スーパーで教え子と遭遇した時も毅然としていた。人間としてのプライドはしっかり持つ。
車の修理代も無いギリギリの生活、病気になったらお仕舞いだ。老いて身体が思う様に動かなくなるという恐怖感は常にある。身内や理解者から定住の誘いもあった。でも孤独な自由を選ぶ。
大平原の中で誰憚る事無く尻をめくりオシッコをする。カメラがそれをロングで捉える。彼方に夕陽が沈む (これ不確か、話を盛っているかも)。
せせらぎでスッポンポンの身体を水に浸す。自然に抱かれるとはこういうことなのか。そこに定住者の論理は微塵も無い。自然と一体になった人間の姿。
いつも背後に広大な大自然がある。その映像は圧倒的だ。その中をファーンは一人車を走らせる。人の一生とはこういうことなのか、という気がして来る。
彼らには連帯感がある。定住を前提として作り上げられた今の社会の価値観の外側にいる者同士の仲間意識、競争を基本に置く定住社会に対し、援け合いを基本に置くノマドたち、そうしないと生きていけない、けれどきっとそれだけではない。家族が居る者いない者、病の末に定住へ戻る者、流浪の末に逝く者…
日雇いの短い期間を援け合い、また会おうと別れて行く。見ている内に定住が諸悪の根源ではないかという気がしてくる。定住が所有欲を生む。定住者が競争を基本とした社会を作り、今日の世界を築き上げた。不動産価格の高沸もそんな中から生まれた。定住者との会話の中でそんな話も出てくる。
近代の真っ只中からの新たな遊牧民の誕生、それは定住で成り立つ今の社会への大きな問いに違いない。
何故ノマドになったか、何故定住しないのか、ファーンは社宅の裏に地平線まで続く砂漠が広がっていたからだという。廃墟となった社宅を訪れ、その砂漠を見つめるうしろ姿で映画は終わる。
良い映画なのだ。ただ音楽が気になった。一度見なので記憶曖昧、違っていたら許してほしい。
映画が始まって少しして(シーン失念) 、メロドラマの様なウェットなメロのピアノソロが鳴った。意外なので驚いた。少ししてまた同じ様なピアノソロが入った。ファーンの気持ちとそれに続く車での移動のシーン、結構長い。砂漠や山々を背の車の走りに音楽を付けて括りたいのは解る。でも走る車のロングからではなく、その前のファーンの気持ちを語るようにマイナーで入ってその感情をそのまま通す。孤独感は画面を見れば解る。厚塗りする必要なんてない。僕ならこの2曲トル! 3曲目はホンキ―トンクピアノでブルースを唄う酒場のシーン。ホンキ―トンクピアノ、アウトして直結で先のウェットなピアノソロ、映像は廃墟となった社宅 (?) 前に立つファーンの後姿のロング、そして次の日雇いの地へ走る車、この一連をウェットメロのピアノソロが通す。この音楽も必要なのか。せめてホンキ―トンクと車の走りの間を素 (音楽無し) にするとか。素の力は音楽に匹敵する。
以後、車の走りとファーンの気持ちに合わせて厚塗りウェットメロが随所に入る。
音楽の絞り方も中途半端。車の走り一杯でアウトすれば良いものを、ジャガイモ工場の作業シーンまで引っ張る、まるでFOをし損なったかのように。
ノマドを選択した理由には社会的要因がある、家族の問題がある。社会の歪み、経済の問題として捉えるなら「ダニエル・ブレイク」(拙ブログ2017.03.28) の様に描けば良い。家族の問題として描くならホームドラマの視点で描けば良い。この映画、それらを包含しつつ、その背後に広大な自然を描く。人間社会を超えた自然を描く。人間のドラマの背後にはいつも山々が連なり、砂漠が広がっている。画面の端には夕陽が沈んでいく。そこには人間社会の喜怒哀楽を超えた時間が流れている。映像はしっかりとそれを捉えている。音楽がそれをただの人間ドラマに矮小化する。
荒涼とした海に向かって佇むファーン、そこにエモーショナルなピアノ、鳥が飛び立つとそれに合わせてチェロが入り盛り上げる。孤独の強調? 映像が持っていた悠久の孤独は人間ドラマの解り易い孤独に押し込められる。これは監督の本意だったのか。あるいはまるで邦画の様に、プロデューサーサイドから、もっと解り易く泣ける様に、とでもリクエストがあったか。
既成曲がかなりの数、的確に使われている。いっそオリジナルの劇伴はラストを除き全部外し、既成曲のみでやれば良かった、最後の砂漠からエンドロールまでのみオリジナルの劇伴、但しメロドラマの様なウェットメロではなく、人間的情感を超えた音楽で…
抽象的な言い方だが、地平線の彼方から聴こえてくる様な音楽がほしかった。例えば「パリテキサス」の様な、あるいは「バクダッドカフェ」の”calling you”のような、 そのままそんな音楽ということではない。考え方としてである。僕はピアノという楽器の選択も違うような気がする。
映画音楽に正解は無い。だから、一度見をしただけの僕の主観ではある。
監督. クロエ・ジャオ 音楽. ルドビコ・エイナウディ
原作. ジェシカ・ブルーダー
撮影・美術. ジョシュア・ジェームズ・リチャーズ
( 撮影と美術を兼務しているのに驚き、成る程と思った。素晴らしい! )
2021.03.02「すばらしき世界」新宿ピカデリー
2021.03.02「すばらしき世界」新宿ピカデリー
ワーナーマークからオフでリバーブの効いた足音の様な音が薄く入る。刑務所の中を魂が彷徨っているようだ。もちろん後付けの理屈。見ている時はノッケから何だろう? だった。ただ孤独感はひしひしと伝わって来る。その音は主人公三上 (役所広司) のUPでそっと消えていく。ここからは現実。
出所の日、刑務官に送られ雪の中バスに乗る。初めて音楽、それがバイオリン、パーカッション、バリトンサックス、ピアノで、ラテンというか中近東音楽というか、全く意外。出所の日だから明るくて良いのかもしれないが、このエキゾチシズム、この音楽の距離感、この映画、コメディー仕立だなと思う。その通り、長らくムショ暮らしだった男が、娑婆の現実にぶち当たって悪戦苦闘する話だ。それを独特のユーモアを持って描く。リアルな様だが深い優しさを持ったヒューマンコメディー、役所広司という存在がそれを成り立たせている。
単純な正義漢でキレやすく、それゆえ殺人を犯した。度を越したことに反省はするもキレたことには反省も後悔もない。真っ直ぐな性格。そんな人間に娑婆は優しくない。福祉事務所もコンビニもアパートの住民も自動車試験場の審査官も。ついにはチンピラに絡まれていたサラリーマンを救けて大立ち回りをしてしまう。その時の三上の生きいきとしたこと、それを見る僕らのスカっとする気持ち。三上は正しい、どれもこれもみんな正しい。けれど純粋無垢な子供の様な正義感でこの社会を生きられないことを僕らは知っている。真っ直ぐな心が通じるのは映画の中だけ。だからそれを見て僕らは拍手し涙する。
人間の子供は剥き出しの自我を成長するに従い他者との関わりを通してコントロールし折り合いを付ける方法を学んでいく。三上にはそれが希薄だった?
考えれば、娑婆で普通に暮らすということは我慢の連続だ。僕らはそれをほとんど無意識に行っている。複雑な制度に腹が立つしPCを扱えない奴はどうするんだ、ズルと嘘が蔓延する、自分の子供がイジメにあったら相手のガキを引っ叩きたい、理不尽な上司を殴りたい。でもしない。身元引受人の弁護士は言う。我慢、キレるな、深呼吸。
弁護士夫妻(橋爪功、梶芽衣子) 、福祉事務所の人(北村有起哉)、コンビニの店員(六角精児)、ルポライター (仲野太賀)、一歩踏み込んで接するとみんな良い人だ。ちょっと都合良過ぎない? と言えばそうかも知れない。だが僕はホッとする。「ダニエル・ブレイク」(拙ブログ2017.03.28)の様に徹底的にリアルに描いて問題提起するのも良いが、僕はホッとする方が良い。人間を信じたい。
音楽は冒頭の曲以外はピアノ中心にドラマに付ける。バイオリンの弦か何かをはじく音が随所に入る。情念と忍耐には、低弦の蠢き、シンセの歪んだ低音、ヒューマンなふれ合いにはピアノが間のある優しいメロディーを付ける。けっしてウェットにしない、乾いて距離を置いた、けれど優しい音楽。付け過ぎず程好く三上の気持ちをサポートする。
我慢しているつもりでも、あちこちでトラブルが生じ上手く行かない。初老のムショ帰り、高血圧生活保護の男、アパートの部屋でイラだってカップ麺を投げつけたりする。
中盤、何もかも上手く行かず、昔の兄貴分に連絡を取ってしまう。映画の分岐点。突然の東京の夜の空撮、そこに「What a Diference a Day may」に似た女性Vocalが流れた。その鮮やかな転換。作詞.aiko、作曲.林正樹、歌.Lydia Harrell、「What~」に感じが似てるがオリジナル。東京から九州へ、カタギからヤクザの世界へ、余計な説明は無くあの歌で一気に転換する。音楽演出として見事。あるいは突然の女性ジャズVocalに違和感のあった人もいるかも知れない。違和感か見事か、これは感性の違い、どうしようもない。僕は見事!
けれどここにも平安は無かった。兄貴分 (白竜) の組は警察のガサ入れをくう。ヤクザは今の世、やっていけるものではなくなっていた。最近の「ヤクザと家族」等の映画を僕は見ていない。思い出すのは「その後の仁義なき戦い」だ。勿論ヤクザを肯定なんかしない。けれど“強きをくじき弱きを助く”の直情型正義感には郷愁がある。今“強き”と“弱き”は複雑に入り組み見分けは付かなくなってしまった。
少ししか出てないが姐さん役のキムラ緑子が良い。ガサ入れの裏で、ヤクザは成立しなくなったこと、娑婆もヤクザも我慢の連続、でもカタギの空は少しだけ広い、戻ってきちゃダメ! 餞別握らせて逃がす。手を合わせて走っていく三上、良いシーンである。
ルポライターが三上が預けられたという養護施設を探し出して、二人で訪ねる。バックにギターでカントリー調の曲が流れる。
品のイイお婆さんが映し出された。あれ? もしかして母親? 母親に会っちゃうの? 一瞬そう思わせて、そうではなかった。このお婆さん、時々施設に手伝いに来ていた人、当時のことは殆ど覚えていなかった。母親らしき人の記憶も無し。けれどこれだけでは終わらせない。ピアノが弾けたというお婆さんは園の歌の伴奏をしたという。すると三上がぼそぼそと記憶の底から言葉を拾い出すように唄い出した。お婆さんも一緒に唄い出す。歌が一気に時間を飛び越えあの頃を蘇らせ、昇華する。この歌の演出は上手い! どんな歌だったか、詩や曲がどうのということではなく、園の歌で演出したということの上手さである。そのあと三上は園児と庭でサッカーをし、ゴールした少年を抱きしめながら泣き崩れる。こちらもマスクがグショグショである。
母親は三上を迎えに来なかったのかも知れない。三上がいつのまにか作ってしまったフィクションだったのかも知れない。真偽は解らない。ただ母親のフィクションがこれまで生きてくるのに必要だったのだ。ここで三上はそれにケリを付けた。
ヤクザにケリをつけ母親にケリを付けた三上は東京に帰って、我慢、キレない、深呼吸、で新たな生活を始める。介護施設の手伝いという仕事も得た。弁護士夫婦や福祉事務所やコンビニやライターがそれを祝ってくれた。
最近僕は映画の後半になると、どういう終わり方にするのかなぁと、そればかりが気になる。我ながらイヤな見方である。高血圧で心筋梗塞らしいことは始めにふれられている。薬も飲んでいる。これだということは想像がついた。どの辺でこれを使うか。
働き出した介護施設の同僚に知恵遅れの若者がいた。何かとヘマをやり同年代の他の同僚からは馬鹿にされていた。お花を大切にしていた。施設の裏でその若者がイジメられていた。キレた三上が迫っていく。ここで乱闘になり、三上に発作が襲い、ボコボコにされ、横たわる三上の姿を捉えたままカメラがスーッと上に引いていく。暗く救われない終わり方、「ダニエル・ブレイク」型。ところがこれは幻想だった。三上は我慢したキレなかった深呼吸した。同僚が若者のヘマを馬鹿にしながら話す、それに息苦しそうに引きつった様な笑いで応じた。シャバで生きるとはこういうことなのか。その晩三上はアパートで発作を起こし一人で死んだ。手には若者がくれたお花が握られていた。
翌朝集まった、身元引受人、福祉事務所、コンビニ、ライター、みんなやりきれない思いだった。新しい生活がスタートした矢先だった。でも最後にカメラは上に向かってパンして、少しだけ広くなった空を映した。
「すばらしき世界」は皮肉にも取れる。でも僕は言葉通りに受け止めようと思う。
品のイイお婆さんを一瞬母親と思わせた、知恵遅れの若者イジメに迫って行った、この二か所、この思わせぶり演出には一瞬ダマされた。西川美和に弄ばれた。
長澤まさみがこの映画唯一のセクシーを担当する。三上のドキュメンタリーを企画するTV局P役。出番は僅かだが圧倒的にエロい。あの存在感、今や大女優。
セクシーといえば裸一杯のソープのシーン、でもセクシーというよりも母と老いとエロが一体となって三上の優しさ溢れるシーンになっていた。ソープ嬢 ( ? ) も良かった。
今、邦画で役所広司のお陰で成立する企画が多数ある。この映画もその一つ。邦画を支える大スター。だが僕はスターのオーラを感じない。カッコイイし充分にスターなのだが、ヤクザをやっても山本五十六をやっても中年の冴えないサラリーマンをやっても、いつも役所広司なのだ。このオーラのなさ、この普通さ、見事に役に成り切りしかもいつも役所広司である、これを名優というのだろうか。演じている感すら感じさせない。映画界は役所広司に感謝すべきである。
監督. 西川美和 音楽. 林正樹
2021.03.04「天国にちがいない」新宿武蔵野館
2021.03.04「天国にちがいない」新宿武蔵野館
映画は映像と音で物語を語って来た。少し物語に頼り過ぎてやしないか。物語に依存しない映画独自の表現、そんなものはあるのか、可能か。
この映画に特段の物語はない。主人公が発する台詞は“ナザレ”“パレスチナ”の二言のみ。記録映画やイメージフィルムなどではなく、実験映画でも前衛芸術映画でもない、102分の立派な劇映画。僕は飽きることなく居眠りもしなかった。
監督・脚本・主演.エリア・スレイマン。この監督を知らなかった。
主人公はスレイマン自身。ナザレ出身パレスチナ系イスラエル人。職業、映画監督。企画を売り込みにパリとニューヨークを訪れる。設定はこれだけ。ランダムなエピソードに物語的繋がりはない。どのエピソードでもまず初めに画面中央にスレイマンが現れる。瞬きもせず無表情で。
“私は見つめている”という声がどこかから聞こえる (よう) 。
隣りのレモン泥棒男、こん棒を持って両脇を通過する若者の群れ、レストランで妹をネタに因縁を付ける兄弟。カメラはフィックス、画面はシンメトリ、人の動きは対角線か遠近法、それを見つめるスレイマンはいつも中央で一言も発せずただ見つめる。時に動作や音をシンクロさせたり、映像的音響的遊びを散りばめる。それが何とも言えないユーモアを醸し出す。
レストランの兄弟とスレイマンのお酒を飲む動作とグラスの音のシンクロには笑ってしまった。何でこんなことで笑えるのか。
雨の中の隣りの爺さんの“ヘビの恩返し”はほとんど落語の小噺である。
唐突に“ベドウィンの水運び女”が出てきても違和感は無かった。その頃にはこの映画が物語を語るものでないことは解ってきた。
私は見つめる。見つめるものは様々で脈絡はない。私の視点ということだけが一貫している。ナザレ出身のパレスチナ系イスラエル人スレイマンということだけが一貫している。視点が定まっていると脈絡のないエピソードの羅列の背後に何やら訳の分からぬものが立ち現れてくる。
語り口はそぎ落としてシンプル、現実を独特の視点でデフォルメする。そのデフォルメからユーモアが生まれ、詩が立ち昇る。僕はそのデフォルメの仕方に俳句を連想した。
隣人はレモン盗みて胸を張り
三人のグラスシンクロ睨み合い
ショーベンの止まらぬ男雨止まず
花の巴里ジジイの目線ケツを追う
ひと気無き街戦車行く見えぬかや
ニューヨーク幼児お迎え銃肩に
騎馬隊の後のボタボタ清掃車
舞い降りし天使包囲すメガポリス
昇天の天使残せし白き羽
地下鉄で眼(ガン)付けられて逃げ場無し
パソコンや小鳥の自由空の碧
季語も無く映画のエピソードを17文字にしただけ、才能無し凡人の俳句というより下品な川柳である。これは無視して、現実を見る、それをデフォルメする、その仕方に注目してほしい。僕はとっても俳句に通じるものを感じた。それを“軽み”を持った映像で表現する。
但しこの“軽み”の映像、役者の動き、美術、カメラ、照明、録音等、細心の注意が払われている。緻密この上ない。
これは俳句映画なのではないか。スレイマンは俳句を知っていたのか。
少し前に「ホモサピエンスの涙」(2019スウェーデン、監督ロイ・アンダーソン) という映画を題名に引かれて観た。同じ様にエピソードの羅列、一貫した物語はない。台詞は有るがエピソードの中で話に落ちがある訳ではない。ほとんどワンエピソード・ワンカット、カメラ位置、役者の動き、美術等、練りに練って計算し尽されている。エピソードどうしには関連したものもある。十字架を背負い街を引き回されるキリストのエピソードがあり、信仰を失ってしまったと嘆く司祭の話がある。背後に“信仰”の問題を通底させた哲学的散文集、格調高く芸術の香りがする。しかしいささか退屈眠気も襲い、観終わって全体としての感銘やメッセージというものを感じられなかった。“軽み”も感じなかった。
「天国~」には“見つめるスレイマン”が映画の中に実像として登場する。初老の、思慮深く、品の良い、少しスケベも残っている、あの顔が“軽み”を作っている、僕はそう感じた。そして“軽み”の奥に、ナザレ出身パレスチナ系イスラエル人という重みが横たわっている。無表情な顔が僕には少しづつ暗くなっていく様に感じられた。最後のクラブで踊り狂う若者を見つめながらグラスを傾ける顔は、最初にベランダから顔を出した時より明らかに暗くなっていた、僕はそう感じた。
そうか、この映画はスレイマンという物語なのだ。物語とは、好きになったり嫌いになったり、殺したり殺されたり、だけではないのだ。僕は物語を語る映画は必要だと思っている。しかし安手の物語から自立した映画的表現も可能なのだ
この映画は物言わぬスレイマンという物語を淡々と描く。スレイマンを通してパレスチナが見えてくる、世界が見えてくる、壮大な世界の今の物語が見えてくる。
エピソードとエピソードの間には時々歌物の既成曲が入る。おそらくイスラエルのヒット曲なのだろう。今風というより少しレトロ、日本で言えば昭和の香り、これが繋ぎとして絶妙。この映画をきちんと下世話に踏み留めている。哲学的散文集にしていない。俳句的“軽み”を持ったエンタテイメント劇映画。選曲のセンスは世代的共感もあるのか、とってもとっても良い。
唯一知っている曲は「I put a spell on you」、誰のバージョンだか、英語の歌詞で入っていた。突然のブルース聞き覚えあり、あれ何だっけ? 思い出すまで少し時間が要った。この曲、僕はCCRで最初に聴いた。 この曲も含め、既成曲はみんなマイナーだった様な気がする。
オリジナルの劇伴はあったのだろうか。全く記憶にない。
タイトルの「天国にちがいない」It must be heaven、これには色んな解釈が成り立つ。
今の世界に対する最大の皮肉?
パリ、ニューヨークと巡り、戻ったナザレ、盗みの隣人はレモンの木に接ぎ木をして世話していた。ベドウィンの女は相変わらず頭に瓶を載せて水を運ぶ。ここが天国にちがいない?
“軽み”の奥から、世界への警鐘と諦めがひしひしと伝わって来る、どんな物語よりも雄弁に…
アラファトはカラファトとなり時は往く
監督. エリア・スレイマン 音楽. 既成曲多数
2021. 1. 26「21世紀の映画アンケート」
2021. 1. 26 「21世紀の映画アンケート」
年々文章を書くのが億劫になっている。このブログも最初の頃の勢いはない。映画は見たがブログ化していないものもたくさんある。今回は、「21世紀の映画アンケート」で邦洋問わず5~10本を選び簡単なコメントを付けて、という依頼があり書いた文章。取り敢えずの繋ぎとして。
成りたい自分に成りたい、夢の実現、そうだ、映画監督になろう。
「キツツキと雨」(2012 沖田修一) は駆け出し監督 (小栗旬) が、何でも良いから早く終わらせたいスタッフと言うことを聞かない役者との間で悪戦苦闘する話。プロデューサーが言う。“早く(カメラを) 回せ!”“でも天気が?”“いいから回せ!”雲間から日が射した時には涙が出た。ただ晴れただけで泣けた。「泣けます!」と宣伝する映画とは真逆の涙。偶然が微笑んで、成りたい自分の輪郭がうっすらと見えた。
かつてシナリオコンクールで佳作入選してしまった女 (麻生久美子) が30半ばを迎えようとしている。未だ書かれざる傑作を吹聴する若い男がいる。「ばしゃ馬さんとビッグマウス」(2013 吉田恵補)、女はシナリオ作家を諦めて故郷へ帰り家業の旅館を継ぐ。“成りたい自分”なんて結果でしかない。思いと外圧のせめぎ合いの結果、気が付くと“何者か”になっている。当初と違っててもそれで良い。
僕が高校生だった60年代、4年制大学へ行く女子は僅かだった。息子は大学その姉や妹は就職するかせいぜい短大。日本も韓国も大した変わりはない。男兄弟の大学進学の犠牲になった母、学歴のない父、ウニはその娘。学校では“ソウル大学に合格するぞ”とみんなで拳を上げる。そんな中で自我に目覚め性に目覚め、男女不平等に目覚める。「はちどり」(2020キム・ボラ) はそんな少女を等身大で描く。
「82年生まれ、キム・ジヨン」(2020キム・ドヨン) はほとんどその後の「はちどり」だ。一流大学を出て、理解あるエリートサラリーマンと結婚し一児をもうけ、仕事は止めたが戻りたい。“男優位社会”、日本では映画のテーマにもならなくなった“嫁姑”“家”が立ちふさがる。追い詰められたキムに憑依現象が起こる。男は彼の国でもこちらでも生まれながらに既得権者である。理解ある夫は既得権者の余裕の上で良き理解者なのだ。さて僕は、当時もしあったら、育児休暇を申し出ただろうか。
成りたい自分なんてとうに忘れた。今はバンコクでポン引きまがい、でもイイ悪いの判断はまだ付く。国の力、金の力を傘に着て女を騙しちゃいけない。「バンコクナイツ」(2017 冨田克也) はアジアの吹き溜まりで飄々と“自分”であり続ける日本の男(主演.監督自ら) を描く。’60,’70年代のプロテストするアメリカンフォーク&ロックが形を変えてタイのポピュラーソングの中に生きている。
置かれた境遇から女 (木竜麻生) は強くなりたいと女相撲の力士となる。男 (東出昌大) は志は持つもいい加減なテロリスト。「菊とギロチン」(2018瀬々敬久)、時は関東大震災直後、一瞬の祝祭空間を作り出した後、あっけなく弾圧され消えていく。浜辺で踊り狂うシーンは忘れられない。この二本、独立プロの範疇を超えて大作。
成りたい自分なんてヤワなことは言ってられない。「灼熱の魂」(2012ドゥ二・ビルヌーブ)は“どんなことがあっても生き延びる”だ。中東らしきどこかの国、部族宗教対立の中、拉致された子供は洗脳され鍛えられ立派な性的拷問のスペシャリストとして母の前に現れる。母は妊娠する。時が経ち、その時生まれた息子に母が残した遺言は“父を捜せ、兄を捜せ”リアルだが神話の匂いを漂わす。そうでもしなきゃやりきれない。
この監督の「ボーダーライン」(2016) 、アメリカとメキシコの国境、麻薬組織と不法移民、それを取り締まる特命捜査官、文明国の常識は吹っ飛ぶ。集められた不法移民の彼方に真っ赤な夕陽があった。
次にこの監督が撮ったのが「メッセージ」(2017)、バカ受け (お煎餅) 型の宇宙船で飛来した宇宙人と女性言語学者がコンタクトする。人間の時間は直線、宇宙人の時間は平面、すべてが同時に存在する。これを納得するにはちょっと飛躍がいる。コミュニケーションが成立し宇宙人は消えていく。平面時間を理解した女は、その娘が幼くして死ぬことを解った上で子供を産む。例え短くても人間として生きたこと、出会えたことは奇跡だ。頭では解るのだが、慟哭しき無い。
人間の時間はたかだか70~80年、その中でもがき苦しむ。競争が好きな人間は人間社会の中で必死に“何者か”になろうとする。それがエネルギーを生み出すことを否定はしない。
しかし人間の時間の外側にはそれを包み込んで気の遠くなる様な宇宙の時間がある。人間の時間を描きながら、いつも背後に宇宙の時間を感じさせてくれる様な映画。