映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2021.04.28「ブータン 山の教室」岩波ホール

2021.04.28「ブータン 山の教室」岩波ホール

 

国旗を崇め国歌を斉唱し王様を尊敬する、自然と生活と政治体制がひとつになって調和する理想の姿。本当か?  かつては世界中みんなそうだったのか。人が集まれば争いが起こる。けれど人間同士争っては生きていけない圧倒的自然の中で、それは奇跡的に保存されていたということか。そこに近代が入り込む。先生は近代だ。“先生は未来に触れさせてくれる”しかしそれが調和した世界を壊すことになっていく。このどうしようもない矛盾、そこからが本当のドラマ。これは、それが起こる直前の牧歌的素朴と善意の映画。

 

幸福の国ブータンも首都ティンプーはすでに近代に侵食されている。主人公ウゲンはたえず携帯をいじる。サッカーの香川真司似の薄っぺらな教師の卵 (香川真司が薄っぺらということではない) 。自分は教師に向いていない、いずれはオーストラリアに移住してシンガーソングライターになる。ギターの腕前は、僕が高校生の頃初めてギターを手にしてスリーコードでフォークソングを唄った頃と大して変わらない。情報化社会、人類皆表現者、の時代は薄っぺらな勘違いだらけだ。確かにYouTubeでド素人が一瞬ウケることはある。芸術とは真逆の、一瞬のウケ、今や芸術も政治もこれが物事を決めて行く。人口70万、幸福指数No1のブータンも、首都はTokyoと同じだ。

 

ウゲンは薄っぺらであればあるほど良い。ルナナ村とのコントラストが付く。

国の命令で、車で一日、そこから先は徒歩と野宿で一週間の、ブータンでも最も僻地ルナナ村へ教師として赴く。次元の違う世界へ行くにはこの位の時間と距離と苦行が必要だ。そこには目をキラキラと輝かせて先生が来るのを待っている子供たちがいた。

電気は滅多に来ない、紙は貴重品、ドボントイレ、燃料はヤクの糞、石造りの学校は土埃で外と変わらない、黒板も無い。子供たちはアルファベットのCの例としてCarと言っても解らなかった。車を見たことがないのだ。

直ぐに帰ると言い出したウゲンがそうしなかった理由はとくに描かない。“先生、8時半、学校の始まる時間です” 寝ていたウゲンを起こしに来たぺムザムの無垢な瞳のせいか。村人も初めから崇めるようにウゲンを迎える。よそ者視線は全くない。

ウゲンの気持ちが変わっていく。壁を黒板替わりにし、自分の部屋の風避けの紙を切って子供たちに与える。村の人とも打ち解けていく。そうなる切っ掛けとなるエピソードも特に描かない。村長が最後の先生が去ってかなりになると繰り返し語る。

ヤクを飼う女性セデュからその地に伝わる「ヤクに捧げる歌」を教わる。多分村一番の美人、やっかみの様なものはなかったか。ヤクは、糞は燃料となり乳は飲料やバター、肉は困った時の食料となる。崇拝の対象であり生活必需品、人間の生活と一体化している。「ヤクに捧げる歌」にはそれらがみんな詰まっている。ドレミでは割り切れない口承で伝えられてきた節回し、山々と対峙しても通る強い声、室内の残響が無いと聞けない今時の歌とは違う。

昼間から酒を飲み酔いつぶれる男、ぺムザムの両親は離婚していること、この二つだけが我々の世界と通じる。

 

何か事件が起こる訳でもなく冬が近づく。閉ざされる冬を前にこの地に残るかどうかを決めねばならない。ウゲンはセデュと恋に落ち、ここに残ることを決意するか。ナンテついつい通俗的推測を働かせてしまう。

ウゲンは残らなかった。子供たちとの別れ、村人たちとの別れ、お涙になるのはしょうがない。

 

そのあとの展開に驚いた。間髪入れずオーストラリアのライブハウス、移住したとテロップ、そこでウゲンは「ビューティフルサンデー」を唄っていた。その薄っぺらなこと、生活も人生も時間も詰まっていない、ただ口当たりの良いメロを吹けば飛ぶような声で唄う。見事な展開というより呆然とする展開である。案の定ウケない、というより無視。ウゲンは唄うのを止め、一呼吸置いて「ヤクに捧げる歌」をアカペラで唄う。映画はそこで終わる。

唄い終わってエンドロールだったか、ロールの途中からバンド編成とシンセで入って来る曲が「ヤクに捧げる歌」だったか。一度見時間も経って記憶曖昧、肝心なところがボケている。ただ「歌」というものを考えさせられた。片や生活と時間と自然への畏敬が詰まった歌、片や何にも詰まっていないが西洋音階で覚えやすく国境を越える共通言語&商品としての歌、このコントラストが描ければ監督としては、してやったりなのだ。

ウゲンにもう少ししっかりとした声と歌唱力があればもっと鮮やかだった。でも歌に対比を集約させた演出は見事だ。

 

人が集まれば必ず争いが起きる。人口70人のルナナ村とて争いはあるはずだ。過酷な自然の中で共同体を守るには不合理な掟の様なものだってあるはずだ。この映画はそこには目を向けず、奇跡的に残されている素朴と善意の象徴としてルナナ村とそこの人々を描く。

電気の安定供給が始まれば一気に近代が押し寄せる。今、先に近代化した者たちはその歪みを声高に言う。これから近代化を経験するルナナ村の人たちは暫くは歪みより恵みを享受するだろう。ルナナ村の人にとって未来はイコール近代化なのである。

ヒマラヤの麓に奇跡的に残されたほとんど絶滅危惧種といえる人々の素朴と善意を、余計なことは考えず素直に受け入れるべき映画である、郷愁をもって…

 

監督. パオ・チョニン・ドルジ  

音楽. 「ヤクに捧げる歌」「ビューティフル・サンデー」等、

   劇伴が記憶にない。あったはずなのだが。音楽家のクレジットも見つからず