映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2022. 8. 2 「ノマドランド」再び  B-Ray

2022 .8. 2「ノマドランド」再び B-Ray

 

2021年4月6日、拙ブログにて「ノマドランド」を評した。素晴らしい映画、でも僕は音楽に疑問があると記した。B-Rayで再見した。素晴らしい映画であることに変わりはない。一度見では気付かなかった細かい発見もあった。何より僕は、ちょっと唐突かも知れないが「はなれ瞽女おりん」(1977  監督. 篠田正浩、音楽. 武満徹 ) との相似を感じた。

 

「はなれ瞽女~」は明治末、日露戦争の少し前、舞台は北陸、極貧の地で生まれた盲の少女、生きる選択肢は女郎か瞽女瞽女とは4~5人の盲の女が三味線を弾き瞽女歌を唄い、雪深き寒村を門付けして回り、お布施やおひねりを貰い生活するというもの。三味線やら女の歌声は希少でそれを楽しみに待つ人々がいた。共同体はギリギリで瞽女を許容していた。瞽女は男と交わってはいけない。妊娠や出産は足手まといになるからだ。交わった者は組から落とされて、はなれ瞽女として一人で門付けすることになる。母親代わりのカカ様は言う、瞽女阿弥陀様に守られている、男と交わってはいけない。

おりんは年頃になり男と交わり、はなれ瞽女となる。一時、元下駄屋の脱走兵と束の間の幸せを知るも、脱走兵は捕まり処刑される。おりんはほとんど乞食の様にはなれ瞽女を続け、実の親も知らず、育ててくれたカカ様を訪ねるもすでに身まかっていた。

時が流れ、鉄道工事の作業員が岬の突端の赤い布の下でしゃれこうべを発見する。カラスが飛び立つ。

宮川一夫のカメラが北陸の自然を見事に捉え、雪の中裸足で歩く瞽女の集団をロングで映し出す。そこに武満徹の音楽が流れ、僕は雪景色の上に宇宙が広がっていると感じた。編成は、ハープ,鳥笛 (ブラジルの民族楽器)、オーボエ、フルート、パーカッション、弦、他。武満の音楽を聴き、そのこの世ならざる響きにショックを受けることを、ごく一部の人の間で武満徹体験という。まさしく僕にとってのそれだった。

 

ファーンが定住する姉を訪ねた時、会話の中でそれとなく過去が語られている。中流家庭、生き方は違うも頼りにしていた妹、それが勝手に家を出て結婚しエンパイアという企業城下町で生活を始める。一時は代用教員もやっているくらいだから教養もある。資源開発で出来た街は資源がなくなるとあっという間に郵便番号も無くなる。単一目的で出来た街に文化は育たない。夫は死に街は無くなり、でも何んで定住ではなくノマドを選んだか。不動産という最大の出費を回避すれば何とかやっていけるという経済的理由がひとつ。姉の家で不動産の話が出た時ファーンは定住者たちに反論する。ノマドの集会で教祖的存在の髭のリーダーが、定住者の生活を「ドルの奴隷」と言う。でも経済の問題は背景として後ろにさり気なく置く。

もう一つの理由、家の裏は地平線まで何もなく荒野が広がっていた。それはアメリカのプリミティヴな開拓者精神ということか。それとももっと深く、人間は人間社会の価値観の外のもっと大きな自然に包まれて生きている、それを忘れてやしまいか、としいうことか。

 

その時々の経済の許容がある。かつては共同体の掟として姥捨があった。「楢山節考」である。「プラン75」(2022) の近未来の様に政府が法律を定め、人々に選ばせるということもある。瞽女は他に選択肢のないギリギリの生き方である。ノマドは身体が言うことを効かなくなったら定住の道を選ぶという選択肢がある。ノマドを選ぶということはより自覚的に選択したということか。

 

音楽の話である。

どこに焦点を当て音楽を付けるか。あるいは武満流に言えばどこを削っていくか。

ノマドランド」は、表層に経済も含めた社会の問題を置く。けれどこれを音楽で際立たせることは難しい。映画もそういう作り方をしていない。ファーンという女性の生き方に付けるという考え方がある。これが最も解り易いし一般的だ。映画はこの考え方で付けている。ファーンの ”孤独” である。ファーンと一緒に住みたいと思っていたデイブが去った後の、恐竜のシルエット、一人だけでファミレス。ジャガイモ工場、次の工事現場、スワンキーからのメール、この一連をピアノの ”孤独” で括っているのは上手い。いくつかのシーンを一つの感情で纏める見本の様である。一度見の時僕はこのウェットが堪らなくイヤだった。

一方、武満は ”おりん” の喜怒哀楽には全く付けていない。初めから、この宇宙に誕生した一人の女として遠くからそっと見つめる。盲で極貧で親も知らない。それを音楽は幸とも不幸とも語らない。感情を超えた視点。最後は骸骨である。ここでも音楽は静かに見つめる。

ノマド」はエモーショナルなところにはチェロが入って盛り上げ、涙を誘うような安手は避けながら、ファーンの ”孤独” を強調する。けれどあのマイナーメロの優しいピアノが入ると、えっ?  孤独は映像で充分に解るよ! と僕は思ってしまう。孤独の厚塗りだ。

ラストのファーンの心の原点である家の裏の地平線まで続く荒涼とした大地、歩き出すファーンにまた優しきピアノである。

ノマド」はローリングの後に荒野で朽ち果てた車、その脇に骸骨があったって良かった。「はなれ瞽女」と同じなのだ。

一度見の時、僕の中では「パリテキサス」(1984 監督. ヴィム・ベンダース、音楽. ライ・クーダー) のスライドギターが鳴っていた。きっと宇宙が現出する…

ただ今回の二度見でこんな風にも考えてしまった。「ノマド」の劇伴にあたる部分はルドヴィコ・エイナウディの既発売のアルバムからの選曲である。これは最初のブログの時気が付かず、後で解った。この映画の為の書下ろしは一つもない。ローリングには ”Featuring of Music” としてエイナウディがクレジットされている。つまりエイナウディは「ノマド」の音楽に何の責任もないのだ。選曲し充てたのは監督だ (マクドーマンドが色々言ったかも知れないが) 。責任は監督にある。

「おりん」と「ノマド」は劇伴の間に現実音としての瞽女歌、現実音としてのカントリーやブルース、が挟まり、構成はよく似ている。どちらもそれが絶妙な変化を付けている。違うのは武満の書下ろしとエイナウディの既成曲の違い。けれどエイナウディのピアノでファーンの孤独以上のものを引き出すのは無い物ねだりである。そして監督もそれを求めていない。

さらにこんな深読みをしてしまった。クロエ・ジャオは敢えて ”ファーンの孤独” に絞った、それ以上の意味は求めず、解り易い孤独に絞った。その方がより一般的な映画になる。”ファーンの孤独” ということで見れば、ほぼ完璧な選曲完璧な充て方だ。抒情的で深い孤独が音楽によって伝わってくる。これは確信犯なのかも知れない。

「おりん」の武満は四季の変化や荒涼とした日本海と同じトーンでおりんに音楽を付ける。おりんを大きな自然の中の一部として捉える。盲で極貧で親から捨てられ、愛することを知り、はなれ瞽女としてひとり生き切った、それを遠い宇宙の果てからそっと見つめる。人間であることの哀しみとでも言ったら良いか、それをそっと見つめる視点。

言葉では簡単に言えるがこれを音楽で表現出来る人は簡単にはいない。オリジナルの音楽として依頼するには大変なリスクが伴う。恐らく上手くいかない方が大きい。”ファーンの孤独” に絞った時、ピッタリの音源が目の前にCDとしてあった。こちらになびくのは自然で最良で安全だった?

孤独に絞って付けた音楽は結果として成功である。随分感情移入出来る映画になった。感情移入はエンタテイメントでは最も重要なことである。映画は一般性を勝ち得た。でも?

僕は孤独に落とし込んで付けた音楽は映画を浅いものにしてしまった気がしてならない。

 

 

監督. クロエ・ジャオ  音楽. ルドヴィコ・エイナウディ

撮影・美術. ジョシュア・ジェームズ・リチ

 

「はなれ瞽女おりん」(1977)

監督. 篠田正浩、  音楽. 武満徹   撮影. 宮川一夫