映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2022. 11. 25 「土を喰らう十二か月」秩父シネコン

2022.11.22「土を喰らう十二か月」秩父シネコン

 

人は社会性をそぎ落としていくと、食と性と死が剥き出しになる。これに正面から向き合える人はそういない。早い話がリタイアしたサラリーマン、社会で何がしかであったことを引きずる。

主人公ツトム (沢田研二) は作家、社会と縁は切ってないが、ひとり信州の山奥に住む。晴耕雨読ならぬ晴耕雨書。幼い頃、禅寺で修行し学んだ精進料理を極める。原案は水上勉の食についてのエッセイだったこと、知らなかった。それを元に時々訪れる女性編集者・真知子 (松たか子) のキャラを設定しドラマ化した。上手い脚本だと思う。

長野から鬼無里 (きなさ)を通って白沢洞門、ここを抜けた時に眼前に突然広がる北アルプス、10年程前チャリ旅で通過した時の衝撃を未だに覚えている。ここを通過すると後はゆっくりと白馬に下る。ツトムの住む小屋はその辺りのようだ。

冒頭、高速を走る車の見た目、そこに流れるジャズ、”おいっ、土を喰らうだぞ? ” 導入は山間の小屋の大ロングあたりと踏んでいた。フロントガラスの主観移動のスピード感、テーマのはっきりしたジャズ、なぜか「危険な関係」を連想した (古くてゴメン)。

違和感あり。次の瞬間音楽が乱暴にカットアウト、画面も山を背景に土と戯れるツトム、グランドノイズはちゃんと付いていたかも知れないが僕には静寂に思えた。音楽のフレーズなど無視したバサッ!  映像の強引なカットつなぎ、その衝撃で生まれる一瞬の静寂、少しして音楽も映像もまた強引に元に戻った。僕はいっぺんにこの映画が好きになった。

この静寂、これは”詩”である。この”詩”をいかに物語として説明出来るか、この映画はそういうことだ。

ツトムは取ってきたばかりの芋を洗い、囲炉裏で焼いて、真知子にふるまう。芋を洗う沢田の手はちゃんと土をいじる手だ。ツトムは真知子を呼び捨てにする。今夜は泊まるんだろう?  娘なのか。 真知子が遠目でツトムを ’美しい’ と言う。不可解。

ツトムが作家で随分前に亡くなった妻の遺骨と共にこの地で隠遁生活をしていること、時々真知子が原稿を取りに訪れること等が分かってくる。

細やかな村人との交流はある。大工役の火野正平は、あの火野正平が、という位成り切っている。立春啓蟄くらいしか解らなかったが、十二の季節を表す言葉が章の役割を果たし、それに即して自然あるいは畑で取れた作物での精進料理が丁寧に描かれる。あんな事やったら原稿書く暇など無いな、肉は喰いたくならないのか、俗人はそんなことが気になる。食の描写は丁寧で美しい。

性は、時々真知子が訪れる。

妻の母親チエは息子夫婦と折り合いが悪く、この地でひとり、小屋に住む。小屋の中は結構モダン、風貌も洋風、始め奈良岡朋子だということが解らなかった。あんな婆さん山奥に居るか。そこは映画の嘘として良し。

ある日チエ婆さんは小屋で死んでいた。ツトムが葬式を仕切ることになる。嫌われ者と思っていたチエ婆さんは実はみんなに慕われていた。チエ婆さんの味噌にみんなが世話になっていた。大勢の人が来てしまい、ツトムはてんてこ舞い、栗豆腐 (これは美味しそうだった) を作り足し、手伝いに来ていた真知子に、庭から芹 (?) を取ってきて、と叫ぶ。僕は時々庭から紫蘇の葉を取って来るくらいはする。坊さんを呼んでないので、昔、禅寺で修行していたツトムは読経までする。参会者は本物の村人らしい。死と食と人々の交わりが儀式に凝縮された良いシーンだ。かつてはみんなそうやって生きていた。

ツトムが真知子に ’ここで暮らすか’ と言うのが先だったか、脳梗塞で倒れるのが先だったか。死の影が忍び寄る。救急車の中で真知子はツトムの手を握り続ける。無事生還、後遺症も無し。真知子は若い作家と結婚するらしい。もうここには来ないと言う。いつまで奥さんの骨壺を抱えているの (不確か)? と言う。確か、編集の全ては奥さんに教わったという台詞があった。真知子は亡妻の後輩編集者だった様だ。それなりのドロドロはあったのだろう。けれどそれがツトムと一緒に暮らすことを断る、全てではないにしても理由のひとつということか。ちょっとつまらない。台詞で言う必要もない。

ツトムは死を考える。死と仲良くすることを考える。寝る前に ’皆さんさようなら’ と言って眠りにつく。翌朝目覚め、冬晴れの外で伸びをして、食卓の前で ‘いただきます’ と言って映画は終わる。予想通り。

 

食を中心に据えた映画、その描写は丁寧、自然との共生、背後には禅の教えがある、多分。

性は真知子というキャラクターを通してドロドロには踏み込まず、スマートに描く。

死はどうだったか。チエ婆さんの葬式は自然に還るという形で共同体の中に違和感なく組み込まれていて良いシーンだった。ツトムの死は?

脳梗塞のエピソードに僕は死の影を感じられなかった。むしろ真知子との性を感じた。あそこでツトムが死の淵を覗いたようには思えない。だから 'おやすみなさい' も軽いジョークにしか聞こえない。睡眠は一時の死、このまま目覚めなかったらどうしようという恐怖がある。朝目覚めて、ああ生きていた! ありがとう、いただきます、という生命の不思議不可解感謝、これが迫って来ない。「東京物語」 (1953 監督.小津安二郎) のラスト、夕暮れの中に一人佇む笠智衆、宇宙の中にポツンとひとり、絶対孤独。笠智衆からはそれが立ち昇る。隣のおばさん (高橋トヨ) の 'こんばんは' (不確か)で地上に引き戻される。この映画には夕暮れの笠智衆のカットが無い!

都会生活から遠く離れ、自然と共生してそのめぐみを工夫して食べ生きる、それをとってもファッショナブルにみんなも憧れる様に描くことが主眼だとしたら、その点では佳作である。良く出来ている。でもその奥に老いと死が立ち昇った時、映画はもっと深いものになったはずだ。

役者の問題もあったかも知れない。それ以上は言うまい。

 

まるで黒澤時代劇の様に黒光りする床には時間が宿っている。実際には有り得ない一枚ガラスの大きな窓には人知を超えた光景が拡がる。日常を超えた美術である。

音楽は、映像と音楽の掛け算の、まれな成功例。なぜ大友良英だったのか、聞けるものなら是非聞きたい。ローリングも大友ジャズで良かった!

 

監督.  中江裕司  音楽.  大友良英