映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.05.29 「美しい星」 シネリーブル池袋

2017.05.29「美しい星」シネリーブル池袋

 

三島由紀夫の原作。荒唐無稽なSF、それを吉田大八が監督するとのことで期待した。冷戦時代の原作を今に合うよう、相当手を入れたそう。

主人公の気象予報士リリー・フランキーが演じる。当たらないが売りの、ちょっと捻った予報士。だがどうしてもそう見えない。リリーは社会から承認されている感の全く無い人。それが初めて承認されている役をやった。違和感が漂う。

いくつかの不可解なことが起きて、突然火星人であることに目覚め、TVでそれを宣言する。ヘンテコなキメのポーズをする。元から胡散臭さを漂わす人がそんなキメのポーズを取っても悪ふざけにしか見えない。地球温暖化の対策を叫ぶ。もう時間がない。この荒唐無稽になかなか入っていけない。単純にドタバタ喜劇として笑っちゃって良いのか、思わず回りを見てしまう。 

息子 (亀梨和也) は自転車で宅配をやっている。ちょっとした事故をきっかけに政治家の下で働くことになる。そして水星人であることに目覚める。

大学生の美貌の娘 (橋本愛) はチャラチャラした学生生活に馴染めないでいる。路上で唄う男の歌に感動する。歌の題名は「金星」。自分が金星人であることに目覚める。

息子と娘の話になってようやく映画に入っていけた。亀梨も良いが、橋本愛が青春の不安定さと危うい一途さを全身で表わす。ミスコンの舞台でのキメのポーズも何やらオウム風の宗教臭を漂わせてそこだけ別世界を作る。

怪しげな水の商法にハマった母親 (中島朋子) が地球的生活感を醸す。母親は地球人。

 

火星人も水星人も金星人も、地球人より少し高いところから物を見ることが出来る。地球的利害を超えた見方、この視点で見ると地球温暖化問題も核の問題も自明のことである。太陽系連合は、こんな単純なことが地球人には何故解らないのか! と叫ぶ。全くその通りなのだが、これを素朴に叫ぶと漫画になってしまう。黒澤の「夢」もそうだったが、感動も説得力もなく、ハイその通りです、で終わってしまう。これに説得力を持たせるのが映画的表現のはずだ。すでにトランプが真逆の漫画を現実に演じている。トランプって存在自体がパロディだ。

この映画はそっちよりも家族の再生に重点があると感じた。水星人の息子と金星人の娘に母親は “間違いなくあたしが生んだのよ” と言う。これは可笑しかった。確かに生物学的にはその通り。しかし分子原子と遡り、宇宙的生命の循環というレベルで考えた時、DNAなんてすっ飛んで、血族なんて意味をなさなくなる。たまたま今、人間としてあることの奇跡。

 

死期の近づいた火星人の父親を囲んで、水星人の息子と金星人の娘と地球人の母の太陽系連合家族が地球という美しい星で偶然出会って家族となった、それが奇跡であることを理解する。火星人でも金星人でも何人でも良い。人間としてこの地球上で家族となった奇跡への感謝、そして地球という惑星の美しい奇跡への感謝、そういうことなのだろう。

この深い荒唐無稽、これが映画として如何に説得力を持つか、僕にはストンと落ちなかった。多分僕の感受性のチャンネルをリアルから別のものに切り替え損なった為だ。ノッケで躓いた。多分それはリリーに躓いたからだと思う。

リリー・フランキー、どんなつまらない映画でも彼だけは確実に映画の中の人として存在していた。「凶悪」や「そして父になる」や「お父さんと伊藤さん」や「SCOOP」、どれも成り切っていたし、「女が眠る時」や「シェルコレクター」でも、リリーだけは確実に映画の中でリアルに存在していた。

この映画でリリーは初めて映画の中の存在になれなかった。デッサン顔俳優リリーはどんな色にも染まると思っていた。染まらないこともあったのだ。

 

音楽は打楽器と人声中心の原始的で単純な繰り返しがトランス状態を作る。どこかインドネシアとかの宗教儀式っぽい。これがシーンを跨いでクレッシェンドしてバサッと無くなる。音楽が無かったらかなり辛いものになっていたかも知れない。

 

火星人リリーを乗せたチープなセットの宇宙船の窓から、地上で見送る家族が見える。この時の家族がはっきりしない。リリーも含めた四人だったか、リリーは居なかったか。しっかりヨリで家族を捉え、そこからゆっくりと宇宙へズームバックして宇宙船からの見た眼になるというカットが無かったような気がする。僕の見落としか、注意力の問題か、ちょっと自信がない。火星人リリーの後姿ナメで窓越しの家族を捉えれば、あんなセット作らずとも良かったのに。

佐々木蔵ノ介は瞬き一つせず、リアリティを感じさせてくれた。

 

 

監督 吉田大八    音楽 渡邊琢磨

2017.05.25 「夜空はいつでも最高密度の青色だ」 新宿ピカテデリー

2017.05.25「夜空はいつでも最高密度の青色だ」新宿ピカテデリー

 

東京の美しい夜景、その下で繰り広げられる小奇麗な恋愛、巷はそんな恋愛で満ち溢れている。映画だってそんな「恋愛もの」と「泣けますもの」ばかりだ。でも小奇麗からはじき出された者、どうしてもそんな風に生きられない者だっている。そんな者たちはイライラでパンパンだ。ふとしたことでそれに引火すると「怒り」(拙ブログ2016.9.21) になる。ほとんど紙一重

バスを待ちながら携帯に釘付けの人たち。美香 (石橋静河) だけが空を見上げる。飛行船が浮かんでいる。誰も気付かない。

看護士の美香が務める病院。今、幼い子供を残して母親が死んだ。手を合わせ見送る美香。病院の裏のゴミ捨て場のような喫煙場所、煙草の煙を吐く美香。その口元。同じように煙を吐く工事現場の慎二 (池松壮亮) 。煙草繋がり。どこだったかに日の丸のアップが1カット入った。(シーンの順番不確か)  “都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ” と詩が被る。秀逸な導入。

 

何にでもつっかかる美香には、母が自分を捨てて自殺したというトラウマがある。今は看護士として人の死に日常的に接する。誰だって死ぬ。でもこれを意識し続けたらまともに生きていけない。ノイローゼになるか、哲学者になるか、宗教に走るか。だから美香は呪文のように言う。 ”大丈夫、その内直ぐ忘れる”

過剰に理屈っぽく語る慎二 (池松壮亮) 。慎二は片目が見えない。これが彼の自意識の原点。俺が見ている世界は世界の半分だ。

工事現場の日雇い。年収200万弱。日雇いの仲間は兄貴分の智之 (松田龍平)、日雇いがきつくなっている中年の岩下 (田中哲司) 、フィリピンからの出稼ぎアンドレス(ポール・マグサリン)。きつい労働のあと、時々みんなでなけなしの金を叩いてガールズバーへ行く。美香は病院のあと、ここでバイトをしていた。

 

頑なな二人が行違う言葉を総動員して少しずつお互いの殻を壊していく。そのプロセスに原作の詩が被る。詩集が原作だとあとで知った。最果タヒ、この名前も初めて知った。詩の胆を掴んで、それを物語として甦えらせる、脚本家としての石井裕也が凄い。この二人のキャラクターを作り上げたところが凄い。あとは自動的に動いていく。そうすると、どの詩を持って来ても違和感無く乗るのだ、きっと。

テロ、シリア、大震災、格差 (これは無かったか?)、会いたい、世界と無関係ではない東京の底辺の生活、でも映画はあくまで美香と慎二の不器用なを純愛を描く。世界は背景としてぼんやりそびえ立つ。

 

死の匂いを漂わせていた岩下に希望が出来た。”俺、コンビニのお姉ちゃんに恋した、ザマア見ろ!”  思わず拍手。誰に向かって ”ザマア見ろ” か。世間だ、世間に向かってザマア見ろ! だ。良い台詞だ。世間の分析は学者がやれば良い。

フィリピン出稼ぎ労働者はみんな借金をして日本に来ている。タコ部屋の様な一室に集まって酒飲んで騒いでウサを晴らす。借金と仕送りで金を使えない彼らにはこんな方法しかない。時々智之も慎二も加わる。隣の部屋のPCオタクが騒ぎ声に怒ってドンドンと壁を叩く。包丁持って殴り込みさせれば「怒り」になる。もちろんそうはならない。

 

慎二の月54,000円のアパートの隣に独居老人が住む。慎二は時々顔を出し、ゴミを捨ててあげたり、柿の種を食べながら一緒に煙草を吸う。暑い日が続いて、その老人が熱中症で死んでいた。岩下を前に嗚咽する慎二。諸々の歪みが末端に噴出している。そこから東京が見える、日本が見える、アジアが、世界が見える。

 

智之が突然死する。岩下は日雇いを首になりコンビニのお姉ちゃんにもフラれる。心配する慎二に “大丈夫、死ぬまで生きるさ” と言って立ち去る。“岩下さん、今日もチャック (社会の窓) 開いてたね” とアンドレス。良いシーンだ。

そのアンドレスも妻と子供が待つフィリピンに帰る決意をする。もう東京で働くのはバカバカしい。

 

美香が郷里へ帰ると、優しいというより腑抜けたパチンコ狂いの父親が居て、美香に、仕送り無理するなよ、と言う。妹は東京の大学へ進学して小奇麗な生活を目指す様だ。

 

美香と慎二の元カレ元カノのエピソードが入る。小奇麗に生きている人たちだ。でもこの二人だって東京で決して幸せな訳ではない。このエピソード、無くても良かったか。でも二人の価値観を明確にすることと殻を破る踏ん切りとして、あって良かった、多分。

 

二人はよく空を見上げる。そこにあるのは、飛行船だったり、月だったり、夜空だったり。水平の視野しか持たない人々の中で垂直の視野を持つ。垂直とは宇宙と死だ。だからこそ、今の出会いは奇跡なのだ。人が人にドキドキするということは奇跡なのだ。飛行船は一人で見上げるより二人で見上げる方が楽しいに決まっている。二人はこれから一緒に、亀を飼い、夜空を見上げ、飛行船を見て、多分煙草を吸う。煙草がコミュニケーション・ツールとなっている最近では珍しい映画かも知れない。煙草バンザイ!

 

音楽はSynのパッド、時々オルガンの様な音色。もう一つはテーマともいえる優しいメロ、ギリギリでセンチメンタルにはなっていない。これがPfとAGで繰り返し出てくる。シーンによってはVCが裏に絡む。あとはフィリピン部屋のガンガン鳴るラジカセ(?) のリズムだったり、カラオケボックスの既成曲だったり。どれもずり上がりで付けられていて効果的である。

何より渋谷新宿、行く先々で現れる路上フォークの女 (野嵜好美)、リズムボックスとEGで“頑張れ頑張れ~”と唄う。ヘタな歌、直截な歌詞、コードは多分3つしか知らない。初めは何なんだと思った。ジョークにしては泥臭い。石井監督、センス無い。それが最後にメジャーデビューするのだ。彼女の顔と曲名を壁面一杯に描いたトレーラーが二人の前を通っていく。RYOKO 『TOKYO sky』 有り得ないことが起きたのだ。二人はこれを見て唖然とする。僕も唖然として直ぐに拍手喝采した。奇跡だ、これぞ映画だ。振り返れば、前のシーンに引っ掛けて付けられているこの歌のイントロのチープなリズムボックスの音はシーンの絶妙な接続詞の役割を果たしていたし、この“頑張れソング”は実質的主題歌だったのだ。音楽的洗練とは真逆を中心に据えて、最後に、”これぞ映画だ” をやってのけた。石井監督、大変なセンスだった。

音楽、渡邊崇。「舟を編む」(拙ブログ2013.5.14) 始めここの所の石井作品をほぼ手掛けている様。「湯を沸かすほどの熱い愛」(拙ブログ2016.12.20 監督.中野量太) もそうだ。全体として、画面ととってもコミュニケーションの取れた音楽である。

 

“頑張れ” という言葉、好きではなかった。どちらかと言えば ”頑張らない” が信条だった。しかしこの二人を前にして出てくる言葉は、やっぱり “頑張れ!” だ。たしか「ヒミズ」(拙ブログ2012.1.15) の最後も、頑張れ! だった。

 

役者がみんな良い。池松が上手いことは解っていた。ちょっと内省的な役の時は本当に良い。「セトウツミ」(拙ブログ2016.9.14) だって池松がしっかりと受け止めるから菅田ははじけられた。本作でも神経症的で優しくて一途で不器用を良く演じている。

田中哲司はこんな役出来るんだと目から鱗である。ザマア見ろ! はこの映画の台詞の白眉だ。松田も、初めて見るポー.ル・マグサリンも良い。

何といっても石橋静河だ。彼女にとっても映画にとっても幸運な出会いだった。芝居ズレしてないからこその良さ。きっと今しかやれない役だ。

最後に二人が恐る恐る笑顔を交わす。つっかかる美香が消えて素直な美香になっている。二人には幸せになってほしい。この映画、好きだ。

 

監督 石井裕也  音楽 渡邊崇  主題歌 The Mirraz 「NEW WORLD」

2017.05.18 「カフェ・ソサエティ」 みゆき座

2017.05.18「カフェ・ソサエティ」みゆき座

 

NY育ちの若者ボビー (ジェシー・アイゼンバーグ) が成功した叔父のフィル (スティーブ・カレル) を頼ってハリウッドへ行き、そこで出会ったヴォニ― (クリステン・スチュワート) に恋をするも、彼女はフィルの密かな愛人。積極的なボビーに心揺らぐも、遂に妻子と別れる決断をしたフィルのもとに彼女は走る。一途な恋は終わる。傷心のボビーはNYに戻り、兄のナイトクラブを引き継ぎ、これが大成功、店はNYのセレブが集まる社交場 (カフェ・ソサエティ) となる。ヴェロニカ (プレイス・ライブリー) という素敵な人とも出会い結婚、一児をもうける。

そこに欧州からの帰りと称してひょっこりフィル叔父と若き新妻ヴォニ―が現れた。人生とはそんなもの。お互いにあの頃の思いが甦る。今の生活に不満がある訳じゃない。今の相手にあきた訳じゃない。でも二人でマンハッタンの夕陽を見ているとあの頃の一途な思いが甦る。日々の生活の中で、二人は時々遠くを見つめるような眼をする様になる。そこで映画は終わる。

こんな話を、1930年代ハリウッド華やかなりし頃を背景に、ジャズをBGMとして軽妙にカマす。進行役ナレーションはウッディ自身。脱力芸は名人の域。

好きな美人女優を並べて、好きな音楽を流して、しつこくならない様にサラリと、深味など出ない様に軽く、細心の注意を払って描き出す。

思いが制御不能になり今の生活を破壊することになるかは解らない。おそらくそうはならないだろう。なんせ、人間は柔らかい心臓の持ち主であることを知り尽くしているウッディ、きっと日常の中に起きた心のカットバックを映画にしたかったのだ。あの感情、あの思い、だからこそ遠い眼をすることで終わらせたのだ。そこから先はどうでも良いこと。つまらぬ詮索は無粋。一瞬の永遠、至福の時、人生を振り返り、そんな忘れ得ぬ一瞬を映画にする。何て贅沢。こんなことをやれるなんて何と幸福な人か。

ジャズをBGMに映画による語り芸の極致。

音楽は全曲、ウッディお好みのジャズの既成曲 (多分?)。

 

監督  ウッディ・アレン  音楽家のクレジットは無かった( 確か? )

2017.05.11 「追憶」 新宿ピカデリー

2017.05.11「追憶」新宿ピカデリー

 

しっかりした脚本、的確な演出、詩情溢れる撮影、人気者を適材適所に配したキャスティング、役者たちの熱演、映画をフィルムで撮影していた頃の落ち着きと格調を持つ作品である。(今、映画はVTRで撮影しそれをフイルムに変換する、確か)

 

不幸な境遇の三人の少年、彼らを救った、場末に生きながら心に天使が住む女・涼子 (安藤サクラ)、涼子につきまとうヤクザ、涼子を救うべく三人の少年が事件を起こす。

罪は涼子が全て引き受けた。このことは全て忘れなさい。遠い過去…

 

今、篤 (岡田准一) は富山で刑事、悟 (柄本佑) は東京で小さなガラス店の経営者、啓太 (小栗旬) は輪島で土建業を営む。三人は過去を消す為に二度と合わない約束をしていた。ところが経営に行き詰まった悟は啓太を頼り、借金をしていた。

偶然、篤と悟が富山で出会ってしまった翌日、悟は死体で発見される。捜査するのは篤。篤は悟が昔の事件をネタに啓太を強請っていたのではと疑う。啓太が犯人なのでは。犯人捜しのサスペンスを軸に、過去の事件と三人の現在が語られて行く。目新しい話ではないがしっかりとした構成である。

啓太には身重の妻がいる。篤は妻 (長澤まさみ) と別居中。自分を捨てた実の母 (リリィ) が今になって纏わりついている。悟は婿養子として迎えてくれた今は亡き義理の父親の為にも店と家族を守る為に必死である。難しい年頃の小学生の娘が一人。三者三様。でもベースには子供の頃恵まれなかった ”家族” への渇望がある。

 

結局は、悟の妻 (西田尚美) と店の若い従業員が結託しての保険金目当ての殺人だった。この急転直下の解決には少し唐突感があった。店と家族を守る為に必死だった悟は何だったのか。この結果は辛い。残された娘はこれからどんな人生を生きて行くのか。今の日本の現実は、本当はここにある。

 

笑わない長澤まさみが良い。長澤は笑わせてはいけない。あの屈託のない笑顔はドラマを超えてしまう。

子供の設定はもう少し小さい方が良かったのでは。

全体に品がよく、抑制の効いた描き方。最後の方、メンマの話で嗚咽する篤に寄るかと思ったら、啓太とのツーショットで引いたまま、私は良いと思ったが、あざとさに慣れている今のお客には物足りなさが残ったか。

ひたすら明るい木村文乃も良い。明るさの奥に何かを感じさせてくれる。

いつもながら同僚刑事の安顕は存在感を発揮する。

陽光の下の子供たち、一つだけ明るいカットが欲しかった。全体に暗くグレーな世界の中で一つだけ明るい三人の黄金の日々のカット。

車椅子の安藤サクラ林真理子に似ていた。

 

最後に悟の墓参りをする娘のアップで終われば、ままならない家族の不幸の連鎖は続くとなり、重く余韻は残る。が、この映画の企画意図からは外れて、別の映画になる。未來は啓太の家族に託されている。篤もきっと妻とは別れない。それで良いのかも知れない。

 

冒頭、女声のヴォ―カリーズ。ゆったりとしたメロディー、これがメインテーマ。正確でクラシカルな発声で譜面通りキチンと歌われていて、収まる。エンドもこのヴォ―カリーズ。

このテーマ、三人の子供の頃の懐かしい思い出黄金の日々、”雪割草のテーマ” と言ったところか。劇中ではハーモニカとギターでも印象的に奏される。汚れ無きテーマ、人間社会のドロドロを超えた永遠のテーマ。映画の頭と尻をこれで括る。女声を使ったことでその意図は解る。だとしたらもっと神性がほしかった。メロディーも弱いのでは。小手先だがせめてもう少し声を加工してはどうだったのか。かなり生っぽい。声量も余裕がない。

もう一つのテーマはVCで奏される暗く重い曲。これは過去のあの事件に付けられた曲。劇中何度もVCやOBで繰り返される。人間社会のドロドロの方のテーマ。今風ベタ付けではなく、要所にキチンと付けている。ちょっと説明過多な気もする。

音楽、千住明。しっかりとしたクラシカルなオーケストレーション、大きくない編成できちんと演奏している。尺もしっかりと合わせていて、逆に窮屈なくらい。

きちんと纏まった映像に譜面通り正確に演奏されたクラシカルな音楽、もしかして収まりの二段重ねになっていやしないか。

 

音楽は映画全体のテイストを作ることが出来る。あるいは変えることが出来る。クラシカル、ジャズ、ロック、前衛現代音楽、どこかの国の民族音楽、異質な音楽をぶつけた時、映像は想像もしない拡がりや深味を醸し出すことがある。その時起きる映像と音楽の掛け算的化学反応で、映像は創り手の意図を超える。もちろんぶち壊しになることもある。リスキーだから監督と音楽家の余程の信頼関係が無い限り、やらない。無難な線で行く。

無難な線で行ったのだ。敢えてリスクは侵さなかった。だから何の違和感も無く、きちんと纏まった。纏まり過ぎた。

ハーモニカはもう少しジャジーだったら、ヴォ―カリーズはケルト風だったら、VCは喰いつくような激しい弾き方だったら、パーカッションだけでやる曲があってもよかった、パンフルートの音色なんて良いかも…、これはどうしても趣味の問題、好みの問題になってしまう。だとしても掛け算的トライをしてみる価値はあったのでは。その時、もしかしたらもう一つの「追憶」が生まれたかも…

勝手なことを言ってすいません。これはこれで、とっても良く纏まった完成度の高い作品であることは間違いないのです。

 

監督 降旗康男   音楽 千住明

2017.05.08 「無限の住人」 丸の内ピカデリー

2017.05.08「無限の住人丸の内ピカデリー

 

三池ワールド全開。アバンでキムタクが無限の住人になった経緯がモノクロで語られる。コントラストを利かせた画面が黒澤時代劇を彷彿とさせる。「十三人の刺客」(2010) 以来、僕は黒澤時代劇を継ぐ者は三池ではないかと思っている。見せ方の上手さということで。

八百比丘尼 (山本陽子)に虫を注入され無限の住人になってしまった万次 (木村拓哉) が死ねないまま何十年かが過ぎ、今となったところで画面はカラーとなる。そこで凜 (杉咲花) の仇討ちの助っ人となるという話。話の深さや整合性を云々するものではない、死なない体のキムタクが切って切って切りまくる。役人だったり、悪役の集団・逸刀流だったり、凜に危害を加えようとする者をひたすら切りまくる。見渡す限りの屍、エキストラをケチる事なく盛大にやる。その面白さに尽きる。

黒澤にはしっかりとした脚本があった。話が良く出来ている。こちらは始めからそこには拘らない。立ち回りを繋ぐ程度のストーリー。

海老蔵が同じ虫を宿す者として数シーン出るが存在感は圧倒的、もっと絡むのかと思った。もったいない。戸田恵梨香はお色気担当で太もも露わ、見せ物に徹する。石橋蓮司田中泯もお決まりを成り切って演じている。福士蒼汰だけは若くアクが無いせいか、見せ物に徹してない感じだ。しかしこれだけの役者を揃えて見せ物だけではあまりに勿体無い。

音楽は、アクションの絵面に合わせてほぼベタ。しかし細かく付けている。所々に三味線か琵琶のような邦楽が入る。人声も入る。邦楽が洋楽劇伴にサンドイッチされて、でも違和感はない。上手く充てている。結構大変な作業だったのでは。映像をしっかりサポートする音楽である。

勝手なことを言えば、虫のシーンに音楽的工夫はできなかったか。それ以外にも、ディジュリドゥを使うとか、戦いを打楽器だけでやるとか、サムルノリ (韓国の打楽器集団)を使うとか、インドネシアとかタイとかの民族音楽を使うとか、人声で唸りとか声明とか、音楽もっと荒唐無稽に遊んでも良かったのではないか。こういうこと、三池作品でしか出来ない。

キムタクは相変わらずキムタクのマンマ。キムタクが片目潰して着物着て、キムタクのマンマ台詞を言う。偉大なるワンパターンはスターの証拠とも言えるが、そのカッコ良さにいささか飽きた。アクションでは本当に頑張っているのだが。

 

監督 三池崇史   音楽 遠藤浩二  

2017.05.02 「午後八時の訪問者」 ヒューマントラスト有楽町

2017.05.02「午後八時の訪問者」ヒューマントラスト有楽町

 

フランスの地方都市 (?) の小さな診療所の若き女医ジェニー( (アデル・エネル) 、男の研修医と二人だけで運営する。怪我から心臓から認知症から、ありとあらゆる患者を診る。お金を持っている者も、そうでない者も。大学病院への話も蹴って奮闘する。フランス版女「赤ひげ」だ。

診療終了の8時を超えて鳴ったベルにドアを開けなかった。翌日その訪問者は死体となって発見された。ベルを押す訪問者の姿が防犯カメラに写されていた。若い女だった。女医に落ち度はない。警察も認める。女の身元は解らない。ドアを開ければ死なずにすんだ。ジェニーはその女が誰なのか知りたくて調べ始める。医者らしい手掛かりを見つけてその地区の人々の中に入っていく。移民が住む地区。そこでフランスの地方都市の移民の現実が暴かれて行く。

絶えず携帯が鳴る。患者は次々に来る。車を運転しながら携帯を通じて患者に連絡を取り、休む間もない、過酷な日々だ。調べる過程で麻薬の売人に脅されたりもする。

予告編では、医療倫理の根幹に関わる問題に突き当たるのかと思った。あるいは背後の巨大な悪が立ちはだかるのかと。どちらでもなかった。移民の現実というところで話は纏められた。それはそれでとってもリアルに描かれている。

小さな診療所は大変だし、移民の現実は厳しい。身元捜査のプロセスはそれなりにサスペンスフルである。しかし期待していたものより、本当に本当にこじんまりとした映画だった。

音楽は既成曲のみ、劇伴は無かった。ヘタな劇伴を付けたら作り物感が出てしまう。これは正しい。

 

監督  ジャン=ピエール・ダルデンヌ、 リュック・ダルデンヌ

音楽クレジット無し (不確か)

2017.05.07 「草原の河」 岩波ホール

2017.05.07「草原の河」岩波ホール

 

チベット遊牧民の家族を淡々と描く。父、母、幼い娘、間もなく妹か弟が生まれようとしている。行者様と呼ばれる祖父と父は仲が悪い。

羊の群れと共に高原を移動する。乳離れをし切れていない少女は弟か妹が出来ることを素直に受け入れられない。可愛がっていた羊が狼に襲われその死体を見る。村の子供が祖父に優しくしない父親の悪口を言っていた。些細な日常が大ロングの自然の中で米粒の様に描かれる。何千年と続く自然の摂理に則した生活。太古から続く悠久の時間。

直ぐそばまで文明が押し寄せている。文明とは人間の都合だ。人間の都合に合わせて自然は捻じ曲げられ、時間は人間化する。これを止めることは出来ない。父親はバイクに乗っているも、まだここには悠久の時間が流れている。ギリギリだ。

少女の ”私” はまだ目覚めていない。こちらも時間の問題だ。遠からず文明を選び ”私” が鎌首を持ち上げてくる。”私” の集合体である社会や国家に遭遇する。ましてやチベット、いやでも中国と向き合わねばならない。こちらもギリギリだ。

直ぐそこまで来ている文明と ”私の目覚め” を前にして、ギリギリで描く少女の黄金の日々。これを神話と言わずして何と言おう。神話は間もなく崩壊する。失ったものを思い出して郷愁だけが残る。

 

少女も父親も素人だそうである。母親だけは歌手とのこと。少女はほとんど役と同じ生活をしている子なのかも知れない。しかしドキュメンタリーではない。劇映画としての凝縮がある。ハリウッド並みではないにしても何人かのスタッフの前で演じているのだ。これは驚愕に値する。少女の自我を宿し始めた眼を忘れることが出来ない。

 

音楽は頭のタイトルバックと尻のエンドロールだけ。タイトルバックはバンジョーの様な琴の様な、余韻のない弦を弾いてソロで奏される曲。メロディは多分チベット高原の民族のメロディなのだろう。劇中に音楽は無い。通り過ぎる風の音、雨音、狼、人間の気配、等の音が音楽以上に雄弁である。エンドは男声が民族色有るメロを歌い上げて、背後にVC中心の弦楽器群が厚くそれを支える。トラッドな曲なのかオリジナルなのか。エンドの弦はきちんとした西洋音楽の書法だった気がする。神話の額縁をしっかりと作っている。

 

「ラサへの歩き方」 (2016.08.02拙ブログ) は二つの時間が並存していた。人間尺取虫をしている脇を車が通り過ぎる。「草原の河」は片方だけを描く。しかも少女の眼を通して。これはやっぱり神話である。

河を越えるとおじいちゃんの居る聖域だ。聖域には簡単に行けた。死は自然で当たり前のことだった。

 

編集は余分な説明を削ぎ落として簡潔、今風である。

 

監督・脚本 ソンタルジャ  音楽デザイン ドゥッカル・ツェラン

エンドクレジット音楽 テンジン・チョーギャル