映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2021.11.05「ドライブマイカー」( 2022.1.14 二度目) テアトル新宿

2021.11.5「ドライブマイカー」( 2022.1.14 二度目) テアトル新宿

 

村上春樹は読んだことがない。芝居は嫌いである。車の運転もしない。この映画の感想を記すには相応しくないかもしれない。

 

話の核は全て台詞で語られる。その時カメラは語る役者をじっと見つめ、ほとんど固定だ。ふつう映画はズームや切り返しを使って話を出来るだけ解り易いようにする。それを一切しない。話の核となる独白へ至るプロセスは映画的なのだが、独白は極めて演劇的だ。ひたすら台詞に依存する。こんな非映画的映画の三時間、これが、緊張し、集中し、一気に見られる、一体何故か。

 

主人公家福 (西島秀俊) は演出家で、広島演劇祭でチェーホフの「ワーニャ叔父さん」(私は読んだことがない) を演出することになっている。オーディションをして、多国籍の役者をキャスティングし、中には韓国手話で話す聾啞者もいる。

家福は執拗に本読みをさせる。抑揚は付けるな、ただそのまま読め。日本語、韓国語、英語、韓国手話が入り混じっての本読み。役者から文句も出る。泣いたり叫んだりの過剰な高まりはない。演出として与えようとしない。ある時役者の口から台詞が自然に発せられる。演出とはそれを待つこと、その奇跡を待つことなのか。

このやり方、映画監督濱口竜介とだぶる。

 

冒頭,長いアバン。家福と妻・音 ( 霧島れいか ) の夜明けのベッドシーン、フランス映画の様に美しい。音が家福との結婚をためらったのは、名前が家福音というあまりに宗教的な名になるから。なるほど、福音か。

音は夢の話をする。朝になるとそれをすっかり忘れていて、覚えている家福の口から自分の見た夢の話を聞く。それを元に脚本を書き、脚本家として認められるようになった。家福も音も元役者。娘がいたが幼くして亡くした。それをきっかけに家福は演出家、音は脚本家となる。音は自分の脚本に出演する若い男優と情事を繰り返す。家福はそれを知っているも正面からそのことに向き合おうとしない。お互いが価値観を押し付ける様なことはしない、そんな関係。けれどお互いを認め深い結びつきがあることは二人とも解っている。

音が、”今日、早く帰れたら話がしたい”と言う。とっさに家福は ”ワークショップがあるから” と返す。音はその日、くも膜下出血で急死する。その時、正面から向き合うことを避けて家福は夜の街をサーブを走らせ彷徨っていた。

家福の為に音が「ワーニャ叔父さん」の台詞を吹き込んだカセットが残された…

 

ここまではこの映画の話の前提、そしてメインタイトル。普通はこの長いアバン (30分位 ? )、途中の回想で処理しても良い。けれど必ずしもメインタイトルが頭にある必要はない。この夫婦が抱える心の距離、あるいは問題提起。深く結ばれつつも、愛車サーブの運転を妻にさえ任せることが出来ない、そんな家福という人物。

 

タイトル明けは3年後、サーブで広島へ向かう家福、そこには演劇祭が用意したドライバーが居た。事故を起こした時のトラブルを考えてのこと、これは決まりですと押し切られる。このドライバーみさき ( 三浦透子 ) 、いつも不貞腐れた表情で隙を見つけては煙草を吸う。仕事以上の関わりはしない。

車の中で家福は毎日、音の声で「ワーニャ叔父さん」を聞き、台詞の練習をする。みさきはイヤでも聞くことになる。

韓国手話の女優 (パク・ユリム) と演劇祭事務局員 (ジン・デヨン) 夫婦の家へ夕食に招かれる。事務局員は夫婦であることを内緒にしたことを詫び、その後二人の馴れ初めを話す。妻は手話、それを夫が通訳する。その手話の美しいこと、言葉を飲む。手話という神聖なるテキストが夫によって言語化される。「ワーニャ叔父さん」が音の声で言語化された様に。

手話の中に”ハッ ! ” (?) という破裂音が音としてあることを初めて知った。突然入るとドキッとする。そうではないようだが、怒りを発しているようにも聞こえる。キツイ感じがする。韓国手話だけの音なのか。

家福はそこで初めてみさきの運転が完璧だと褒める。不貞腐れみさきは表情も変えずいつの間にかフレームアウトする。あれっ? パンダウンすると床に這って犬をかまっている。不可解とユーモアと照れ隠し。少し距離が縮まる。

 

ワーニャ役の高槻 (岡田将生) はTVなどにも出演しそれなりに知られており、音と関係があった。高槻は若い故か感情のままにコミュニケーションを取る。それしか出来ない。抑制すること、コントロールすること、それに対する自覚はある。家福の奇跡とは、それを超えた先にある ”自然” ということか。確かにそれは ”奇跡” だ。

高槻が車の中で音がセックスの際話していた物語の、家福も知らない続きを話す。話には続きがあったのだ。高槻の作り話か。岡田将生が長台詞を固定カメラ (家福) に向かって話す。この時、演出家・家福言うところの奇跡が起きていた。岡田が素晴らしかった。

みさきが言う ”嘘を言っている様には思えません”

車のルーフを開けて、初めて二人揃って煙草を吸う。車に小さな火が二本突き出る。

 

高槻が、隠し撮りした若者を殴る事件を起こす。逮捕そして当然の主役降板、公演は中止か家福自らが演じるか。3日以内に決めねばならない。家福が言う ”どこでもいいから走らせてくれ”  みさきはかつて働いていたゴミ処理工場を見せる。北海道から流れてきてここに辿り着き、ゴミ処理車のドライバーになった自分の過去を話し出す。

みさきは若いが、これまでに感情では処理仕切れない経験をしてきた。二人は階段状の岸壁で煙草を吸う。また少し距離が縮まる。

何故ゴミ処理工場だったか解らない。ただ絵的に絶妙なインパクトである。工場は平和公園から続く原爆ゆかりの線上にあった。社会性が皆無と言っていいこの映画の少しだけそれを匂わせた装飾。深く意味を持つとは思えない。

みさきの生まれ故郷、北海道のナントカ村、そこへ連れて行ってくれ!

 

上越の雪のトンネルを抜け新潟へ、そこからフェリー、コンビニでおにぎり買っての昼夜ぶっ通しの内面への旅、主観移動で深く深く心の奥へ。運転を代わるというも、仕事ですからと拒否するみさき、フェリーで眠りに落ちるみさき、それをみつめる家福、心の距離は無くなっている。

 

北海道ナントカ村、そこに着いてからの少しのノンモン (無音)、僕は堪らなくここが好きだ。あれがあるから、みさきの内面の物語にリアリティが生まれる。母親の送り迎えで運転を覚えたこと、虐待されたこと、母に別人格が現れ、その人格と居る時みさきは幸せだったこと、家が土砂崩れで流された時みさきは母を助けなかったこと、この長い長い独白には言葉もない。三浦透子の奇跡である。カメラ固定での長台詞は極めて演劇的だ。けれどカメラ位置や編集に頼らない、映画的長台詞も可能なのだ。一見演劇的だが、明らかに見事な映画だ。その為に濱口監督は奇跡を待ったのだ。

みさきの心は未だに雪で満たされている。それに耐えている。雪の中に穴を掘り、煙草を手向ける。感情を盛り上げる演出はない、音楽もない、けれど涙溢れる。

 

次は家福の番だ。”僕は音を殺した、僕は正しく傷付くべきだった”

西島秀俊という役者はいつも変わらない。本作も「きのう何食べた?」( 2021.11.3公開 ) の時も。いつも座敷犬の様な顔をして、声はしっかり活舌も良いのだが一本調子の台詞、それが持ち味といえばそうかもしれないが。まして演出家、冷静沈着は役に合ってはいる。けれどそれが音との壁になっていたのでは。”僕は正しく傷付くべきだった ” あの場でそんな言葉を吐くだろうか? これは芝居の台詞だ、映画の台詞ではない、でも芝居の演出家、だったら良いか。僕は嫌いだ。みさきの奇跡の台詞のあと。どうしようもないインテリ源ちゃんが鼻に付く。家福は相変わらずインテリとっちゃん坊やのまま。

 

音が読む「ワーニャ叔父さん」の ”音” が物語の柱だ。ワーニャ叔父さんと家福は共に内省の人、” これで良いか、これで良かったか ” 未読だが既読の人にとっては随分家福理解には役立つはずだ。まして外国の人には解り易い。上手くチェーホフを利用した。

みさきは死んだ娘と同い年という台詞が確かあった。そうか、これは存在し得なかった家族の話なのだ、と勝手に深読みする。車の中には家福がおり、少しづつ距離を縮めるみさきがいる。通奏低音として「ワーニャ叔父さん」の "音" が有る居る。脚本は「ワーニャ叔父さん」上演という意匠の下に、話としてはかなり無理あるも、強引に纏め上げた。極めて論理的、その構築力は大変なものである。そこに役者が台詞を発する時の奇跡の力を借りて芳醇な物語を作り出した。ありのままを受け入れて生きていこう。飽きることのない三時間の映画が出来上がった。その腕力は大したものである。

あとは好み。

 

音付けが上手い。車の走り、シーン代わりの頭に少しインパクトを付ける、ナントカ村のノンモン、「ワーニャ叔父さん」公演の銃声のずり上がり、デリケートな音付けである。

音楽はみさきと心が通じ合うところに少し、印象に残らなかったが、それで良い。センス良し。まとまった音楽はエンドロールのみ。映像が乱暴にCOして黒味、そこから軽いスネアが聞こえてきた時はちょっと違和感があった。曲自体に違和感は無かったのだが入り方がちょっと。軽薄なスネアの音がちょっと…

編集も無駄を省いて良い。雪の中から一気に家福演じる「ワーニャ叔父さん」の舞台に直結は家福の内面の映画であることを良く現わしている。公演会場の外観でも入ってたらぶち壊しだった。

時々入る車の走りのロングショットは効果的である。

 

煙草が心の灯の役割を果たす。久々の煙草を上手く使った映画、嬉しい。

 

最後に韓国のスーパーで買い物をするみさき、車はサーブ、中に聾唖女優夫婦が飼っていた犬がいた。これは如何様にも解釈して下さいという監督からのメッセージか。

あとは本当に好み。

 

監督.  濱口竜介   脚本.  濱口竜介、大江崇允   音楽.  石橋英子

原作.  村上春樹