映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2023. 1. 12 「ケイコ 目を澄ませて」

2023 1.12 ケイコ 目を澄ませて  テアトル新宿

 

冒頭、鏡に映る女のドUP、朝 (?) の部屋の様子、土手を走る女、荒川、鉄橋を電車が何本も通過する。’ケイコ~’  ‘’聴覚障害~’、時々無造作に入る下絵無しの文字。メインタイトルも見落としてしまうほどさりげない。車道から石段を下りた陽当たりの悪そうな、植木鉢が一杯並ぶ路地の奥のボクシングジム、ケイコはそこに着く。着替えて練習。シャドウ、ミット打ち、スパーリング (不確か)、筋肉のUP、顔のUP。

この間、電車の音、生活音はあるが、台詞は無い。ケイコは声を出さず、黙々と練習する。

終わるとノートに、ロード10キロ、ミット打ち2ラウンド、スパーリング3ラウンド (不確か) と丹念に記す。

この沈黙、聴覚障害を逆手に取った様な、冒頭で一気に捉まってしまった。台詞無しがここまで緊張を作り出すものか。絵も無造作なカット繋ぎである。

 

昼間はホテルの部屋の清掃ベッドメイキング等を黙々とこなす。同僚のおばちゃんたちとのコミュニケーションも必要最小限だ。

次の日もまたジムに行き、土手を走り、ミットを打ち、スパーリングをする。トレーナーのミット目掛けて必死にパンチを繰り出す。ケイコが一日の中で一番集中する時だ。信じられない様なリズムで、動くミットを捉えパンチを繰り出す。そのリズム初めは規則正しく、途中から変拍子となり、アドリブフリー、ケイコは動くミットを外さない。トレーナーとの闘いだ。終わって二人は満足そうに笑みをこぼす。ケイコの初めての笑顔。このシーン、岸井ゆきの、よくぞここまで ! と絶賛するしかない。そして録音は良く音を拾った。この台詞のない (もちろん周りの生活音はあるのだが) 沈黙の中で、音として際立つのは、鉄橋を渡る電車の音、そしてこのミット打ちの音だ、これが音楽だ。ほとんどプリミティブな音楽。

 

ケイコは時々、同居する弟やジムの会長 (三浦友和、渋い !) と手話で言葉を交わす。

打たれて怖くない? 怖いよ、何でボクシングをやるんだ、ハイと言え ! どれも明解な答えなんてない質問、何で生きているんだ? と同じ。

 

ケイコはプロテストの掛かった試合に出る。顔は腫れボコボコにされながらもラッキーパンチか、KO勝ちする。耳が聞こえないボクサーということで、業界紙が取材に来る。会長 が言う。” 才能 ? 見て下さいよ、小柄でリーチもない、ただ目がイイ、相手を真っ直ぐに見る”

普通の子なのだ。一所懸命生きる、普通の子なのだ。言葉を発しないケイコのボクシングは唯一のコミュニケーション、気持ちの爆発、怒り?

ケイコの過去にはほとんど触れない。弟と同居する。時々弟の彼女が来ると直ぐに自分の部屋に引き籠る。若い頃は荒れている時期もあったらしいという会長の言葉。母親は試合を見に来ていた。いつまで続けるの? と心配する。今に至るケイコについては観る者に委ねられる。

 

東京で最も古いボクシングジム、会長も高齢病気持ち。ジムを閉めることとなる。これはケイコにとっては大事件だ。会長が引き取り先を探してくれる。規模も大きく設備も良い近代的なジムだ。でもケイコは断る。遠いから。ケイコにとってこのうらぶれたジムはボクシングを通じた唯一のコミュニケーションの場であり、会長はそれを解っている。

 

ジム閉鎖前にケイコの試合が組まれる。きっとここがクライマックス、大きな展開が待っている。ところがいとも簡単にKO負けしてしまう。ここに来て鈍い私もようやく解った。この映画はドラマチックな展開など鼻から考えていないことを。

ロード10キロ、ミット2ラウンド、スパーリング3ラウンド、毎日コツコツとこれを繰り返し、日記に記す。普通に一所懸命生きるとはそういうことなのだ。でもジムがなくなるとどうするのか。弟の彼女とふとしたことで気持ちが繋がる。彼女をハーフにするなど細かい配慮が憎い。彼女は簡単な手話を弟から教わっていた。耳の聞こえないケイコは些細な繋がりに敏感で、しっかりと見抜く。ケイコが心を開く。夕方、弟、彼女、ケイコと三人で花火をする。ケイコは笑っている。

翌日、土手を走っていると女が駆け寄って挨拶して立ち去る。何と言ったか忘れた。KOを喰らった相手だった。怪訝なケイコのUP、かなり長いカット、だんだんと顔がほぐれ笑顔になっていく。僕はいつ音楽が入るかばかり気にしていた。満を持して音楽、感動の大団円。音楽は入らなかった。ほぐれた顔のUPは無造作に荒川土手のロングに切り替わり、辺り一帯の空撮、そこにクレジットタイトル、最後は真横に走るポンポン船の何気ないカットで終わる。

音楽が入って聴覚障害を持つ女の子の感動の物語として纏める、この映画そう纏めたって充分に素晴らしい。けれど感動の物語にはせず、普通の、普通の女の子の、一所懸命生きる普通の女の子の、どこにでもある。誰の物語でもあることにして、この映画はもう一段上の普遍性を獲得した。よくぞ入れなかった。

ケイコはジムが無くなっても大丈夫だ。一所懸命生きていく。

 

この映画、弟が引くギター、職場のホテルのBGM、(どちらも現実音、劇伴ではない) 以外は、音楽が無い。これは始めから意図していたのか、結果としてそうなったのか、最後の顔のUPに音楽を入れたくならなかったか、これは是非聞いてみたいところである。

 

聴覚障害者ということでコミュニケーションは最小限、意思疎通はほぼ手話、声を発することはほとんどない。一か所、最後の試合で足を踏まれダウンを取られた後、形相を変え唸り声を上げる。おそらくここが唯一の発声、これには万感の思いがこもっている。

唸り声の直前、一瞬無音にするということは考えなかったか。ケイコの無音の世界。ケイコ側に立った音世界があっても良かったか。あざといか。

 

原作がそうだからだけでなく、耳が聞こえないという設定はコミュニケーションというものをより鮮明にする。健常者にとっては何でもないことがより大きな意味を持つ。聞こえないケイコは聴覚以外の方法でより鋭く音を聴く。

 

例えば、’ケイコの孤独’ という視点で音楽を付けることは出来る。あるいは ’ケイコの意志’ という視点で、土手を走る、ミット打ちをするケイコ等に付けることは出来る。’街のテーマ’ として電車のSEや土手の騒めきをオフにして音楽に代えることも出来る。’ケイコの応援歌’ という視点での付け方だって可能だ。けれどどれも映画の中のある感情を強調することになる。それは映画の現実をいびつにする。この映画は映像が充分に語っている。岸井ゆきのの肉体が全部を内包してそこに有る、余計なことをする必要はないのだ。

 

音楽が映画の中のある感情を強調する、そういう映画があっても良い。けれどこの映画の様に全的に世界を描けている時、どんな音楽も映画を限定し矮小化してしまう。唯一、’街のテーマ’ という視点で土手河川敷鉄橋のシーンに遠くからの視点の音楽を付けることは可能だったかも知れない。それを見事に効果音が果たしている。音楽を付けなかったこと、丹念に効果を付けたこと、それゆえ音楽賞ものである。音楽は、付けないという音楽もあるのだ。

 

最後に、毎度古い例えで恐縮だが「名も無く貧しく美しく」(1961 監督. 松山善三 音楽. 林光 ) という大ヒットした名作があった。小林圭樹と高峰秀子が共に聴覚障害の夫婦、生まれた子供は健常者、この家族が様々な障害を乗り越えて生きていくという、涙無しには観られない作品だった。林光の綺麗な音楽が大感動作として盛り上げた。名作である。でも感動作で終わった。「ケイコ~」はそれを超えている。