映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.07.07 「22年目の告白 私が殺人犯です」 新宿ピカテデリー

 

(ネタバレご容赦)

予告編で想像していたよりずっと面白かった。

時効を迎えた事件の犯人が名乗り出る。「64」はギリで犯人を逮捕した。こちらはノウノウと犯人が名乗り出る、「私が殺人犯です」という告白本を出版するというかたちで。派手な出版記念記者会見、一躍マスコミの寵児となる。警察は手が出せない。五人も絞殺している。しかもわざと身近な人間の眼前で。この理不尽、そこに焦点をあてた映画と思っていた。ところがもう一捻りあった。これは予告では全く匂わせていなかった。この緘口令は大成功。これが社会的なサスペンスの先にもう一つ、サイコロジカルなサスペンスを作っている。

名乗り出た犯人・曾根崎 (藤原竜也)、かつて寸でのところで取り逃がした刑事・牧村 (伊藤英明)、その事件を取材した作品で認められて今はTVのキャスターとなっているジャーナリスト・仙堂 (仲村トオル)、この三人の22年間、そこに殺された五人の遺族が巧妙に組み込まれて物語を作っていく。遺族にはヤクザ (岩城滉一) がいたり、医者 (岩松了) がいたり、都合良すぎるといえばその通りだが、そこはエンタメ、巧みに取り込んで不自然さを感じさせない。かつての事件はその都度カットバックで手際よく語られて、良く出来た構成の脚本である。

曾根崎が牧村の耳元で口を覆って囁く映像、リップは分からない。そこに予告編では“あんたがドン臭かったからだよ”と載せている。本編では台詞は聴こえない。実際にはあとで“早く殴って”と言ったことが明かされる。予告の台詞は全く別の所から持ってきたものだった。本編予告連携の上手い小技である。

犯人の殺人の動機を黒沢清サイコパスに持って行かなかったのが良い。サイコパスを持ってくると確かに不条理今風リアルにはなるかもしれないが、理屈を超えてしまうのでサスペンスとしてはドン詰まりだ。どうするのか。かつて戦場取材でテロリストに拉致され、目の前で仲間が絞殺された。自分だけ助かった。それがトラウマとなった。成る程、しかしそれだけで殺人鬼となるものか。日本に戻った仙堂の壊れた心が殺人鬼へと化していく様子を納得させてくれる1カットがあれば。無理難題は重々承知の上で。IS等を考えると全く有り得ない話でもない。

 

何より音楽が面白い。音楽というよりSE。楽音はほんの少し。どれもモノトーン。あとは打ち込みのリズムだったり、通信音 (?) だったり、歪み音だったりで構成する。有りがちなSynのパッドはほとんど無い。つい雰囲気とサスペンス盛り上げの為に入れたくなるものだが、それをしていない。代わりにSEが無感情に入る。

現代音楽? ミュージックコンクレート? かつて前衛芸術映画でその様な試みはあった。それをエンタメで実に上手くやっている。現代音楽の様に理屈から入るのではない。映画を如何に面白くするか、そこから発想している。絵面や物語の展開に合わせているところはある。打ち込みリズムはサスペンスを煽る役割もしている。が、何より音楽に通底している考えは、感情移入をさせないということ。いくらでも泣きは作れる。それを一切排除する。その為に音楽が重要な役割を果たしているのだ。

牧村と曾根崎は感情で動く。仙堂は感情が壊れている。感情が壊れた奴に22年間、感情で挑み続けた。音楽は少し離れたところから感情の壊れた世界を担う。だから感情的なサスペンスドラマを超えることが出来た。

時々バサッと素を作る。台詞や息遣いだけになる。これが実に効果的だ。音楽、効果も含めた音付けのセンスの良さに感心する。

エンドでノイズの様なEG (主題歌のイントロ?) がCIして、クレジットタイトル、エンドロールが始まったと思いきやタイトル1枚 (?) だけで直ぐに音楽と共にCO。 白くハイコントラストで飛ばした病院の廊下、両脇を抱えられた仙堂、何回か出て来たピアスだらけのチンピラ (ヤクザの義理の息子) が背後から…、 映像バサッとCO、同時にノイズEGが再びCI 、今度は間違いなくローリングとなる。目の覚める様な流れだ。

最後の最後で消化不良だった感情は一応収まる。納得する。後味スッキリというようなものではないが、エンタメの枠だけはキチンと守った纏め方である。

 

横山克という作曲家、初めて聞く名前、相当センスの良い人だ。僕が教えられた映画音楽とは全く違う感性。パルスやノイズなんて発想、僕には思いもよらない。楽音以外の音を完全に音楽として使いこなしている。映画音楽は“音”なのだ。

海外に旅立つ曾根崎 (拓巳) を見送る空港ロビー、ここだけは音楽らしい楽音が流れていた。

 

音楽はどんな体制でやったのだろう。全て当て書きとも思えない。全て素材録りの選曲とも思えない。「サイタマノラッパー」で評価された監督 (評判は聞いていたが未見)、音楽への造詣は相当あるはずだ。センスの良い選曲スタッフが居たのかも知れない。どのように作っていったか知りたいものだ。

 

監督 入江悠   音楽 横山克   主題歌 感覚ピエロ

2017.06.28 「ジーサンズ  はじめての強盗」 新宿ピカデリー

2017.06.28「ジーサンズ はじめての強盗」新宿ピカデリー

 

歳をとってもカッコイイ。ジョー役のマイケル・ケインアルバート役のアラン・アーキン、増々渋いウィリー役のモーガン・フリーマン、みんな80越え、カッコイイ人はジジイになってもカッコイイのだ。

3人とも同じ鉄工所に40数年勤めて、しっかりと企業年金も積み立てた。老後はこれで何とかなる。ところが会社が買収されて年金はそれとともに消滅した。裏で銀行が糸を引く。3人それぞれの事情を抱えるも年金消滅が生活の基盤を奪うのは同じだ。考えた末に銀行強盗をやることになる。荒唐無稽。

口笛とコンガが全面に出たボサノバ調、昔のTV「ナポレオンソロ」のような雰囲気のタイトルバックが流れ、3人がそれぞれに映し出された時には、こちらの感度は老人ハイテンションにピタッとセットされて荒唐無稽に違和感無し。

スーパーでの強盗の練習、自転車の荷台にウィリーを乗せての「ET」 (1982) のパロディー、時々出てくる「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985) ドクのクリストファー・ロイドが映るだけで可笑しい。

もも肉もいいけど胸肉もいいわよとアルバートに迫るスーパーのおばさん、これが何と何とアン=マーグレット、後で解った。僕が知っているのはプレスリーの相手役の頃、解る訳がない。彼女が唄った「バイバイバーディー」(1963) の主題歌は子供の僕にはどうしても“バーイ バーイ バーヒ―”に聞こえた。

イデア満載ギャグ満載、セックスしちゃうしマリファナ吸っちゃうし、夜のベッド脇の電話での3人の会話には哀歓もある。何よりメールや携帯が出てこない、こんなの久々だ。

3人の役者が素晴らしいのは当然。それにも増して脚本 (セオドア・メルヒ) が良い。銀行強盗を決意するまでのプロセス、その後の準備と練習、決行とアリバイの証明、全てが何かの伏線になっていてそれが見事に回収される、小技のアイデアは山の様。

たけしの「権三と七人の子分たち」(拙ブログ2015.5.8) がよぎった。たけしという才能が次から次に溢れてくるアイデアを一気に纏めて演出した。才人たけしの瞬間パワー。一方こちらの脚本、クレジットは一人だがアイデアは多分多くの人が持ち寄っている。そして推敲に推敲を重ね、撮影現場では役者からのアイデアも相当出たはずだ。何せ演出もこなす3人である。それを最終的に監督が纏める。捨てられたアイデアは山の様にあるはずだ。それが映画の厚味になっている。「権三~」にはその厚味が無かった。

 

唯一不満だったのは音楽である。トーンはシンフォニックジャズ。弦も木管金管もラテンパーカッションも入る。前述のように「ナポレオンソロ」の様なレトロな響きもある。「What a Diff”rence a Day Made」(歌.ブレンダ・リー ?) の様な既成曲も上手く使っている。悲しめのところは哀しく、サスペンスのところはその様に、煽るところは煽って、映画音楽としてはきめ細かく丁寧に、洒落たジャジーさを保ちつつ、付けている。付け過ぎなのだ。後半、強盗のハラハラドキドキになってからはそれを煽るようにベタにつけるのはしょうがない。問題は前半だ。何であんなに絵面に合わせてベタに付ける必要があるのか。音楽による気持ちの先取り、感情の単純化と押し付け、前半は音楽を半分以上取れる。その方がもっと複雑な思いが滲み出る。老いの哀歓だって出る。音楽外して流れが悪くなるなんてことはない。編集はしっかりしていて音楽無しで充分持つ。少しシリアスになるかも知れないが後半とのコントラストが付く。見ながら、この音楽要らない、この音楽邪魔、とつぶやいてしまった。

 

ズラリ並んだジイさんたちの子供による面通しのハラハラドキドキ、誕生日プレゼントに貰った子供が喜びそうな腕時計のアップ、あゝバレたか。

強盗も成功して、締めはウィリーの腎臓移植。怖がりながらも提供するアルバート。並んで横たわる2人。次のカットはダークスーツのジョー、ネクタイは確か黒。あれ? まさかウィリー? それともアルバート? ここから先は目下公開中なのでネタバレ配慮。たっぷりと思わせぶりをしてコロッとかわすテクニックは見事。

銀行は徹底的に悪党として描かれる。庶民目線の資本批判はしっかりと通っている。ロンドンのダニエル・ブレイク(拙ブログ2017.3.28) を誘って行政批判のパート2なんてのは?

誰も死なない、安っぽい涙も流れない、懐かしい曲が沢山流れる、名画へのオマージュとパロディも満載、何よりスカっとして元気が出る、素敵な映画。

 

「ジーサンズ はじめての強盗」、この邦題、まあ良かったのではないか。「はじめてのおつかい」のパロディーとどれ位の人が気付くかは別として。

“三人のおじいさんが生まれて初めて銀行強盗をしました。それがなんと成功しちゃったのです”なんてコピーはいかが?

 

監督 ザック・ブラフ  音楽 ロブ・シモンセン

2017.06.26 「佐藤勝 音楽祭」、 7月30日に開催

2017.06.26「佐藤勝 音楽祭」、7月30日に開催

 

「佐藤勝音楽祭」が開催される。

佐藤勝(1928-1999)、今更言うまでもないが、日本の映画音楽の第一人者。黒澤明を始め、岡本喜八山田洋次山本薩夫等の作品を音楽で支え、組んだ監督100余人、作品数は300を超える。

佐藤先生は始めから映画音楽作曲家を目指した。純音楽(クラシック)の作曲家を目指した訳ではない。だからクラシックにコンプレックスが無い。当時、きちんとしたオケを書ける作曲家は大なり小なり、クラシックの作品を書こうと思っていた。それで楽壇から評価されたい。佐藤先生には全くそれが無かった。“俺は首根っこまでコマーシャリズムに浸かった作曲家だ”と平気で言っていた。

早坂文雄(1914-1955) の唯一の内弟子である。「七人の侍」の時は、早坂の下、外弟子(こんな言い方あるかな?) の武満徹(1930-1996)と机を並べてオーケストレーションを担った。外弟子の武満は何がしかのお小遣いを貰うも、俺には何にも無かったと言っていた。内弟子だから。

現代音楽の洗礼はしっかりと受けているのだ。ジャズの洗礼も。早坂は佐藤先生に、これからは映画に現代音楽を書きなさい、と言ったそうである。

現代音楽とジャズを消化しつつ明解なメロディーがあった。黒澤に鍛えられ、岡本とは様々な実験的試みをやった。マサル節と称される明解なメロディーを持ち、ひ弱な映像は負けてしまう。若手の監督がそれゆえに敬遠することもあった。しかしマサル節でどれくらいの映画が救われたことか。

一方、「若者たち」(作詞.藤田敏雄、歌.ザ・ブロードサイド・フォー) や「恋文」(作詞.吉田旺、歌.由紀さおり) などの歌も書いた。柔軟だった。

映画音楽の棒 (指揮) の名手でもあり、自分の書いたものは全て自分で振った。武満は映画音楽の録音の時、スケジュールが合う限り、佐藤先生に頼んでいた。この譜面のここからこっちの譜面のここに繋いで、それからこっちの譜面の…って、武満の時はいつもスコアが譜面台に載り切らないんだ、と言いながら見事に振っていた。前にも書いたが、武満徹映画音楽を一番理解していたのは佐藤先生だったのかも知れない。

7月30日、「幸せの黄色いハンカチ」(山田洋次作品)、「肉弾」「吶喊」「独立愚連隊」(岡本喜八作品)、「隠し砦の三悪人」「用心棒」「赤ひげ」(黒澤明作品)、「ゴジラの逆襲」「ゴジラの息子」「ゴジラ対メカゴジラ」等のオケものを演奏する。

マサル節が炸裂する。

 

詳細

「佐藤勝音楽祭」 指揮.松井慶太  演奏.オーケストラ・トリプティーク

7/30  13.30開場 14.00開演  渋谷区文化総合センター大和田さくらホール

チケット カンフェティチケットセンター 購入0120-240-640

問い合わせ 03-6228-1630   ¥7500~¥4000

2017.05.23 「メッセージ」 ヒューマックス渋谷

2017.05.23「メッセージ」ヒューマックス渋谷

 

初めに言葉有りき。

十二使徒が言葉を武器に世界に遣わされる。

 

言葉はコミュニケーションのツールであると同時に武器となる。言語で認識は異なってくるらしい。思考方法も違ってくるという。確かにそうかも知れない。言葉は自然と深く関わり、それが時間を経て歴史を作り文化を作る。地球上の多様な文化は言葉の違いに依拠する。言葉が滅ぶと文化も滅ぶ。

 

冒頭、ほとんどUPのみで母と娘が描かれる。誕生、成長、そして死。その後ろに弦カルで全音符のゆったりとした曲、やがてそこに八分音符の短くシンプルなメロが乗り、執拗に繰り返される。ミニマルミュージックというやつか。荘厳で古典的でさえある。厳かな気持ちになる。一体何が始まるのか。

あなたの物語は彼らに会わなかったら始まらなかった。(不確か)

 

言語学者ルイーズ (エイミー・アダムス) が大学で教鞭を取っている。ここからは「ボーダーライン」(拙ブログ2016.5.18) の監督らしく、クレーンや移動を駆使して実に上手い。学内、湖畔の屋敷、寝ている彼女ナメの窓に突然のサーチライト、ウェバー大佐 (フォレスト・ウィテカー)の来訪、レコーダーから流れる雑音の様な異星人の声、10分で支度せよ、空撮のヘリ、ヘリの中の科学者イアン(ジェレミー・レナー) との会話、そして現れる巨大なバカウケ (おせんべいのばかうけのこと。ネットの監督インタビューでそう言っていた) 型の殻・宇宙船、それを取り囲んで点在する軍のキャンプ、広い画とヨリ、轟音と静寂、息をも尽かせぬ。その間、ワンカットの無駄も無い、一言の無駄な台詞も無い。

実は二度見した。一度目はあまりの畳みかけに付いていけなかった。二度目でいかにそぎ落とされて無駄が無いかが解った。一気に引き込まれる。

音楽は弦カルから一転、Synの低音が通奏してSFサスペンスに突入する。時々ゴアーンという金属系の唸りの様な音が4音の動機を繰り返す。異星人のテーマか。それ以外は特にメロディー感はない。時々キャンプ内のルイーズのところで素を作る。それが効く。「ボーダーライン」と同じ。実に上手い付け方である。

 

異星人は何の目的でやって来たのか。それがチームに与えられたミッション。その為には言葉によるコミュニケーションが必要だ。8時間毎に開く殻、中に入り透明な壁越しに異星人の未知なる言語の手探りの解明が始まる。それは幼児に言葉を教える様なものだ。遠回りの様だがそれしかない。白板にHUMANと書いて自分を指し示した時、反応があった。七本足の先端から吐き出された墨の様なものが円を描いた。円の淵は吹き付けた様に微妙に滲む。これが彼らの言葉だった。言葉には言い始めと言い終わりがある、という我々人間のものとは違って、瞬時に全てが語られている。異星人には時間の“流れ”が無いらしい。この円の吹き付け言語、一度目は何だと思った。二度目は何て美しいんだろう、と思った。少しずつそれを繰り返し、分析して言語の解析が行われる。世界の十二か所でそれぞれに対応しながら情報は共有される。

時々TV画面に、世界がパニックに陥っている状況が映し出される。あちこちで暴動が起きており、殻を攻撃せよ、という意見がネットに蔓延する。この一連を全てTV画面やPC画面で処理したのは上手い。かえってリアリティが出る。

各国の対応に差が出始める。中国が好戦的な方のリーダー、この辺、今の世界状況を上手く背景として取り込んで現実味を持たせる。

絵空事なのだが違和感を覚えることは一瞬もない。一気に映画の世界である。これぞ映画的表現だ。

時々、ルイーズと娘の回想 (?) がインサートされる。一度見でこれが解らなかった。”今” は娘を失った後なのか。

異星人はヘプタポッドと名付けられる。ルイーズたちが接する2つの個体は、彼女とイアンの間では、アボットとコステロと名付けられた。

ヘプタポッドが“武器”という言葉を発した。そこから世界の連携は一気に崩れ出す。中国が攻撃体制を敷く。12カ所の情報共有も遮断される。世界の団結は崩れようとしている。ルイーズが決死の覚悟で試みた最後のコンタクトで、ヘプタポッドのアボットとコステロのどちらかが、君には武器があるといった。言葉だ。

ここからが良く解らない。娘との回想が次々にインサートされる。娘の絵の中にパパとママの脇に鳥かごがあった。二人がコンタクトする時は安全確認の為必ず鳥かごが置かれていた。娘の絵にそれがある。円の吹き付け言語の絵もあった。娘の誕生はこの出来事の後のはずだ。それが何故“今”の回想に現れるのか。時間の流れが解らない。娘との回想と、「ヘプタポッド言語の研究」(不確か) という未来で書くことになる本を見て、ルイーズは解った!と叫ぶ。

各国が攻撃を開始しようとしていた。ギリギリで中国のシャン上将に携帯から電話を入れる。彼女が中国語を話せることは前にふってある。

突然クラシックの音楽が流れて何やらのパーティー。そこでシャン上将がルイーズに近づく。大統領よりも何よりも、あなたに会いたかった。何人からも翻意されない私を翻意させたあなたに会いたかった、と携帯を差し出す。あなたは私の妻の最期の言葉を言った。出来事から1~2年は経っているはずだ。

攻撃は中止され世界の連携は復活した。但し余計な説明の映像は無い。殻型宇宙船が去る(消える?) というスペクタクルでちょっとファンタジックな映像があるだけだ。

 

ルイーズはある時から未来が解るようになったということか。あるいは解ることに気が付いた。本当は人間はみんなそうなのかも知れない。イアンと結婚すること、娘を産むこと、離婚すること、そして娘が難病で幼くして死ぬこと…

異星人には時間の“流れ”はないという。全てが並立する。でも3000年後に危機が訪れるとは時間の“流れ”ではないのか。並行宇宙ということか。アボット (コステロ?) は死につつあるらしい。死はあるらしい。僕らの直線的な時間感覚で突き詰めると綻びは出てくる。僕らはどうしようもなくそこから離れられない。始まりがあり終わりがある、原因があって結果がある。イアンは同じ様な経験をしながらルイーズの様にはならなかった。最後は神秘体験での飛躍ということになるのか。雷に打たれるか、悟りを開くか、

この映画はSF映画の形を借りて神秘体験を映像化したのかも知れない。死ぬ存在である我々はそれを様々な形で納得し肯定する (しかない) 。哲学であったり、宗教であったり、芸術であったり。二度見の後、わけが解らないまま、不思議な感動があり、死ぬことが解りながら産んだ娘 HANNAH を送るルイーズの哀しみの深さと、それでも産まれて生きた娘の生を肯定する気持ちとで、言葉が無かった。

 

本日 (6/7) 朝日新聞朝刊一面「折々の言葉」(鷲田清一) に偶然こんな言葉が載っていた。

 

生きている時間の方が長い

どんなに短い人生だったとしても

生きていた時間のほうが長い

         (益田ミリ)

 

エンディングで再び冒頭の曲が流れる。ルイーズの心の物語であったことが解る。この曲、マックス・リヒターの「On the Nature of Daylight」という曲とのこと。この曲がオリジナルでなかった為、ヨハン・ヨハンソンはオスカーの音楽賞にノミネートされなかったそうである。てっきり彼のオリジナルを誰かがオーケストレーションしたものと思っていた。これがオリジナルでないと確かにノミネートは難しいかも知れない。

 

原題「Arrival」、到着、到達、出生、の意とのこと。「メッセージ」という邦題、悪くない。

 

こんな映画を作った監督の才能と、作れた幸運と、作らせたプロデューサーたちの志と、「スターウォーズ」も作るがこういう映画も作るというハリウッドの懐の深さに、ただただ恐れ入ってしまう。

異星人の様に瞬時ではないが、ドゥニ・ビルヌーブは人間存在を映画を使って2時間で示してくれた。

 

監督 ドゥニ・ビルヌーブ   音楽 ヨハン・ヨハンソン

2017.05.29 「美しい星」 シネリーブル池袋

2017.05.29「美しい星」シネリーブル池袋

 

三島由紀夫の原作。荒唐無稽なSF、それを吉田大八が監督するとのことで期待した。冷戦時代の原作を今に合うよう、相当手を入れたそう。

主人公の気象予報士リリー・フランキーが演じる。当たらないが売りの、ちょっと捻った予報士。だがどうしてもそう見えない。リリーは社会から承認されている感の全く無い人。それが初めて承認されている役をやった。違和感が漂う。

いくつかの不可解なことが起きて、突然火星人であることに目覚め、TVでそれを宣言する。ヘンテコなキメのポーズをする。元から胡散臭さを漂わす人がそんなキメのポーズを取っても悪ふざけにしか見えない。地球温暖化の対策を叫ぶ。もう時間がない。この荒唐無稽になかなか入っていけない。単純にドタバタ喜劇として笑っちゃって良いのか、思わず回りを見てしまう。 

息子 (亀梨和也) は自転車で宅配をやっている。ちょっとした事故をきっかけに政治家の下で働くことになる。そして水星人であることに目覚める。

大学生の美貌の娘 (橋本愛) はチャラチャラした学生生活に馴染めないでいる。路上で唄う男の歌に感動する。歌の題名は「金星」。自分が金星人であることに目覚める。

息子と娘の話になってようやく映画に入っていけた。亀梨も良いが、橋本愛が青春の不安定さと危うい一途さを全身で表わす。ミスコンの舞台でのキメのポーズも何やらオウム風の宗教臭を漂わせてそこだけ別世界を作る。

怪しげな水の商法にハマった母親 (中島朋子) が地球的生活感を醸す。母親は地球人。

 

火星人も水星人も金星人も、地球人より少し高いところから物を見ることが出来る。地球的利害を超えた見方、この視点で見ると地球温暖化問題も核の問題も自明のことである。太陽系連合は、こんな単純なことが地球人には何故解らないのか! と叫ぶ。全くその通りなのだが、これを素朴に叫ぶと漫画になってしまう。黒澤の「夢」もそうだったが、感動も説得力もなく、ハイその通りです、で終わってしまう。これに説得力を持たせるのが映画的表現のはずだ。すでにトランプが真逆の漫画を現実に演じている。トランプって存在自体がパロディだ。

この映画はそっちよりも家族の再生に重点があると感じた。水星人の息子と金星人の娘に母親は “間違いなくあたしが生んだのよ” と言う。これは可笑しかった。確かに生物学的にはその通り。しかし分子原子と遡り、宇宙的生命の循環というレベルで考えた時、DNAなんてすっ飛んで、血族なんて意味をなさなくなる。たまたま今、人間としてあることの奇跡。

 

死期の近づいた火星人の父親を囲んで、水星人の息子と金星人の娘と地球人の母の太陽系連合家族が地球という美しい星で偶然出会って家族となった、それが奇跡であることを理解する。火星人でも金星人でも何人でも良い。人間としてこの地球上で家族となった奇跡への感謝、そして地球という惑星の美しい奇跡への感謝、そういうことなのだろう。

この深い荒唐無稽、これが映画として如何に説得力を持つか、僕にはストンと落ちなかった。多分僕の感受性のチャンネルをリアルから別のものに切り替え損なった為だ。ノッケで躓いた。多分それはリリーに躓いたからだと思う。

リリー・フランキー、どんなつまらない映画でも彼だけは確実に映画の中の人として存在していた。「凶悪」や「そして父になる」や「お父さんと伊藤さん」や「SCOOP」、どれも成り切っていたし、「女が眠る時」や「シェルコレクター」でも、リリーだけは確実に映画の中でリアルに存在していた。

この映画でリリーは初めて映画の中の存在になれなかった。デッサン顔俳優リリーはどんな色にも染まると思っていた。染まらないこともあったのだ。

 

音楽は打楽器と人声中心の原始的で単純な繰り返しがトランス状態を作る。どこかインドネシアとかの宗教儀式っぽい。これがシーンを跨いでクレッシェンドしてバサッと無くなる。音楽が無かったらかなり辛いものになっていたかも知れない。

 

火星人リリーを乗せたチープなセットの宇宙船の窓から、地上で見送る家族が見える。この時の家族がはっきりしない。リリーも含めた四人だったか、リリーは居なかったか。しっかりヨリで家族を捉え、そこからゆっくりと宇宙へズームバックして宇宙船からの見た眼になるというカットが無かったような気がする。僕の見落としか、注意力の問題か、ちょっと自信がない。火星人リリーの後姿ナメで窓越しの家族を捉えれば、あんなセット作らずとも良かったのに。

佐々木蔵ノ介は瞬き一つせず、リアリティを感じさせてくれた。

 

 

監督 吉田大八    音楽 渡邊琢磨

2017.05.25 「夜空はいつでも最高密度の青色だ」 新宿ピカテデリー

2017.05.25「夜空はいつでも最高密度の青色だ」新宿ピカテデリー

 

東京の美しい夜景、その下で繰り広げられる小奇麗な恋愛、巷はそんな恋愛で満ち溢れている。映画だってそんな「恋愛もの」と「泣けますもの」ばかりだ。でも小奇麗からはじき出された者、どうしてもそんな風に生きられない者だっている。そんな者たちはイライラでパンパンだ。ふとしたことでそれに引火すると「怒り」(拙ブログ2016.9.21) になる。ほとんど紙一重

バスを待ちながら携帯に釘付けの人たち。美香 (石橋静河) だけが空を見上げる。飛行船が浮かんでいる。誰も気付かない。

看護士の美香が務める病院。今、幼い子供を残して母親が死んだ。手を合わせ見送る美香。病院の裏のゴミ捨て場のような喫煙場所、煙草の煙を吐く美香。その口元。同じように煙を吐く工事現場の慎二 (池松壮亮) 。煙草繋がり。どこだったかに日の丸のアップが1カット入った。(シーンの順番不確か)  “都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ” と詩が被る。秀逸な導入。

 

何にでもつっかかる美香には、母が自分を捨てて自殺したというトラウマがある。今は看護士として人の死に日常的に接する。誰だって死ぬ。でもこれを意識し続けたらまともに生きていけない。ノイローゼになるか、哲学者になるか、宗教に走るか。だから美香は呪文のように言う。 ”大丈夫、その内直ぐ忘れる”

過剰に理屈っぽく語る慎二 (池松壮亮) 。慎二は片目が見えない。これが彼の自意識の原点。俺が見ている世界は世界の半分だ。

工事現場の日雇い。年収200万弱。日雇いの仲間は兄貴分の智之 (松田龍平)、日雇いがきつくなっている中年の岩下 (田中哲司) 、フィリピンからの出稼ぎアンドレス(ポール・マグサリン)。きつい労働のあと、時々みんなでなけなしの金を叩いてガールズバーへ行く。美香は病院のあと、ここでバイトをしていた。

 

頑なな二人が行違う言葉を総動員して少しずつお互いの殻を壊していく。そのプロセスに原作の詩が被る。詩集が原作だとあとで知った。最果タヒ、この名前も初めて知った。詩の胆を掴んで、それを物語として甦えらせる、脚本家としての石井裕也が凄い。この二人のキャラクターを作り上げたところが凄い。あとは自動的に動いていく。そうすると、どの詩を持って来ても違和感無く乗るのだ、きっと。

テロ、シリア、大震災、格差 (これは無かったか?)、会いたい、世界と無関係ではない東京の底辺の生活、でも映画はあくまで美香と慎二の不器用なを純愛を描く。世界は背景としてぼんやりそびえ立つ。

 

死の匂いを漂わせていた岩下に希望が出来た。”俺、コンビニのお姉ちゃんに恋した、ザマア見ろ!”  思わず拍手。誰に向かって ”ザマア見ろ” か。世間だ、世間に向かってザマア見ろ! だ。良い台詞だ。世間の分析は学者がやれば良い。

フィリピン出稼ぎ労働者はみんな借金をして日本に来ている。タコ部屋の様な一室に集まって酒飲んで騒いでウサを晴らす。借金と仕送りで金を使えない彼らにはこんな方法しかない。時々智之も慎二も加わる。隣の部屋のPCオタクが騒ぎ声に怒ってドンドンと壁を叩く。包丁持って殴り込みさせれば「怒り」になる。もちろんそうはならない。

 

慎二の月54,000円のアパートの隣に独居老人が住む。慎二は時々顔を出し、ゴミを捨ててあげたり、柿の種を食べながら一緒に煙草を吸う。暑い日が続いて、その老人が熱中症で死んでいた。岩下を前に嗚咽する慎二。諸々の歪みが末端に噴出している。そこから東京が見える、日本が見える、アジアが、世界が見える。

 

智之が突然死する。岩下は日雇いを首になりコンビニのお姉ちゃんにもフラれる。心配する慎二に “大丈夫、死ぬまで生きるさ” と言って立ち去る。“岩下さん、今日もチャック (社会の窓) 開いてたね” とアンドレス。良いシーンだ。

そのアンドレスも妻と子供が待つフィリピンに帰る決意をする。もう東京で働くのはバカバカしい。

 

美香が郷里へ帰ると、優しいというより腑抜けたパチンコ狂いの父親が居て、美香に、仕送り無理するなよ、と言う。妹は東京の大学へ進学して小奇麗な生活を目指す様だ。

 

美香と慎二の元カレ元カノのエピソードが入る。小奇麗に生きている人たちだ。でもこの二人だって東京で決して幸せな訳ではない。このエピソード、無くても良かったか。でも二人の価値観を明確にすることと殻を破る踏ん切りとして、あって良かった、多分。

 

二人はよく空を見上げる。そこにあるのは、飛行船だったり、月だったり、夜空だったり。水平の視野しか持たない人々の中で垂直の視野を持つ。垂直とは宇宙と死だ。だからこそ、今の出会いは奇跡なのだ。人が人にドキドキするということは奇跡なのだ。飛行船は一人で見上げるより二人で見上げる方が楽しいに決まっている。二人はこれから一緒に、亀を飼い、夜空を見上げ、飛行船を見て、多分煙草を吸う。煙草がコミュニケーション・ツールとなっている最近では珍しい映画かも知れない。煙草バンザイ!

 

音楽はSynのパッド、時々オルガンの様な音色。もう一つはテーマともいえる優しいメロ、ギリギリでセンチメンタルにはなっていない。これがPfとAGで繰り返し出てくる。シーンによってはVCが裏に絡む。あとはフィリピン部屋のガンガン鳴るラジカセ(?) のリズムだったり、カラオケボックスの既成曲だったり。どれもずり上がりで付けられていて効果的である。

何より渋谷新宿、行く先々で現れる路上フォークの女 (野嵜好美)、リズムボックスとEGで“頑張れ頑張れ~”と唄う。ヘタな歌、直截な歌詞、コードは多分3つしか知らない。初めは何なんだと思った。ジョークにしては泥臭い。石井監督、センス無い。それが最後にメジャーデビューするのだ。彼女の顔と曲名を壁面一杯に描いたトレーラーが二人の前を通っていく。RYOKO 『TOKYO sky』 有り得ないことが起きたのだ。二人はこれを見て唖然とする。僕も唖然として直ぐに拍手喝采した。奇跡だ、これぞ映画だ。振り返れば、前のシーンに引っ掛けて付けられているこの歌のイントロのチープなリズムボックスの音はシーンの絶妙な接続詞の役割を果たしていたし、この“頑張れソング”は実質的主題歌だったのだ。音楽的洗練とは真逆を中心に据えて、最後に、”これぞ映画だ” をやってのけた。石井監督、大変なセンスだった。

音楽、渡邊崇。「舟を編む」(拙ブログ2013.5.14) 始めここの所の石井作品をほぼ手掛けている様。「湯を沸かすほどの熱い愛」(拙ブログ2016.12.20 監督.中野量太) もそうだ。全体として、画面ととってもコミュニケーションの取れた音楽である。

 

“頑張れ” という言葉、好きではなかった。どちらかと言えば ”頑張らない” が信条だった。しかしこの二人を前にして出てくる言葉は、やっぱり “頑張れ!” だ。たしか「ヒミズ」(拙ブログ2012.1.15) の最後も、頑張れ! だった。

 

役者がみんな良い。池松が上手いことは解っていた。ちょっと内省的な役の時は本当に良い。「セトウツミ」(拙ブログ2016.9.14) だって池松がしっかりと受け止めるから菅田ははじけられた。本作でも神経症的で優しくて一途で不器用を良く演じている。

田中哲司はこんな役出来るんだと目から鱗である。ザマア見ろ! はこの映画の台詞の白眉だ。松田も、初めて見るポー.ル・マグサリンも良い。

何といっても石橋静河だ。彼女にとっても映画にとっても幸運な出会いだった。芝居ズレしてないからこその良さ。きっと今しかやれない役だ。

最後に二人が恐る恐る笑顔を交わす。つっかかる美香が消えて素直な美香になっている。二人には幸せになってほしい。この映画、好きだ。

 

監督 石井裕也  音楽 渡邊崇  主題歌 The Mirraz 「NEW WORLD」

2017.05.18 「カフェ・ソサエティ」 みゆき座

2017.05.18「カフェ・ソサエティ」みゆき座

 

NY育ちの若者ボビー (ジェシー・アイゼンバーグ) が成功した叔父のフィル (スティーブ・カレル) を頼ってハリウッドへ行き、そこで出会ったヴォニ― (クリステン・スチュワート) に恋をするも、彼女はフィルの密かな愛人。積極的なボビーに心揺らぐも、遂に妻子と別れる決断をしたフィルのもとに彼女は走る。一途な恋は終わる。傷心のボビーはNYに戻り、兄のナイトクラブを引き継ぎ、これが大成功、店はNYのセレブが集まる社交場 (カフェ・ソサエティ) となる。ヴェロニカ (プレイス・ライブリー) という素敵な人とも出会い結婚、一児をもうける。

そこに欧州からの帰りと称してひょっこりフィル叔父と若き新妻ヴォニ―が現れた。人生とはそんなもの。お互いにあの頃の思いが甦る。今の生活に不満がある訳じゃない。今の相手にあきた訳じゃない。でも二人でマンハッタンの夕陽を見ているとあの頃の一途な思いが甦る。日々の生活の中で、二人は時々遠くを見つめるような眼をする様になる。そこで映画は終わる。

こんな話を、1930年代ハリウッド華やかなりし頃を背景に、ジャズをBGMとして軽妙にカマす。進行役ナレーションはウッディ自身。脱力芸は名人の域。

好きな美人女優を並べて、好きな音楽を流して、しつこくならない様にサラリと、深味など出ない様に軽く、細心の注意を払って描き出す。

思いが制御不能になり今の生活を破壊することになるかは解らない。おそらくそうはならないだろう。なんせ、人間は柔らかい心臓の持ち主であることを知り尽くしているウッディ、きっと日常の中に起きた心のカットバックを映画にしたかったのだ。あの感情、あの思い、だからこそ遠い眼をすることで終わらせたのだ。そこから先はどうでも良いこと。つまらぬ詮索は無粋。一瞬の永遠、至福の時、人生を振り返り、そんな忘れ得ぬ一瞬を映画にする。何て贅沢。こんなことをやれるなんて何と幸福な人か。

ジャズをBGMに映画による語り芸の極致。

音楽は全曲、ウッディお好みのジャズの既成曲 (多分?)。

 

監督  ウッディ・アレン  音楽家のクレジットは無かった( 確か? )