映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.08.12「砂の器 シネマコンサート」文化村オーチャードホール

2017.08.12「砂の器 シネマコンサート」文化村オーチャードホール

 

砂の器」シネマコンサートを見て来た聴いてきた。2014年7月13日「第4回 伊福部昭音楽祭」(オペラシティ―) で「ゴジラ」(1954) を全編上映・全曲生演奏した時は、まだこのスタイルの演奏上映を何と呼べばよいか的確な言葉が無かった。“映画全編上映全曲生演奏”と、呼び名より説明だった。シネマコンサートというと映画音楽を演奏するコンサートと受け取られた。その後このスタイルのコンサートが「ゴッドファーザー」や「ハリーポッター」を始めとしてアメリカから沢山やってきて、今や“シネマコンサート”と言うと“映画全編上映全曲生演奏”スタイルを指すようになった。ここ数年で一気になった。海外物の力は大きい。

ゴジラ」をやった時、邦画で他にやれるとしたら「砂の器」しきないと思っていた。これは誰でも思いつく。今日、それが実現した。改めて見て、この映画はまるでシネマコンサートの為に作られたようだ、と思った。映画は後半をほとんど映像と音楽に委ねている。これが見事にシネマコンサートのスタイルにハマった。ここまで見事にハマるとは思わなかった。

前半は丹波哲郎森田健作の刑事が追う殺人事件の謎解きである。音楽は少ない。あっても短い。

休憩を挟んで後半はほとんどが音楽である。事件の全容を説明する捜査会議と、それに合わせて父子の日本海沿いを行き場なく彷徨する映像と、今は新進作曲家となっている息子・和賀英良の「宿命」発表演奏会とが、同時並行する。「宿命」はそのまま彷徨する父子の映像のBGMとなり台詞も効果も無しに音楽に委ねられる。それを生演奏でやったのだ。シネマコンサートを想定した映画としか思えない。そんな訳ないのだが。

時々息継ぎのように捜査会議が入り、ここだけは丹波哲郎の台詞、音楽は無い。この間合いが実に絶妙。台詞と音楽がバッティングするところはほぼ無い。

一箇所だけ捜査会議が終わった後、逮捕状を持って丹波と森田、コンサート会場の舞台裏、演奏の音は聞こえている。森田が “父親に会いたくなかったんですかね” “この音楽の中で会っているんだ” (不確か、そんな意味)と丹波 、ここだけは音楽と聴かせたい台詞がバッティングした。台詞をかなり強引に上げていた。それでも良くは聞こえなかった。だからと言って、そこだけ急に演奏を弱めるのも不自然、音楽としても弱めるところではない。生演奏、ボリュームは付いていないのだ。映画は、ステージの裏だからボリュームを下げてオフで聴こえているようにしているはずだ。しかしそれを演奏会でやったら不自然極まりない。ここは難しいところ。

確かにこの台詞は聴かせたい。けれどここは音楽本位で考えるべきだと思う。映画をそのまま再現するということではないのだ。上映会であると同時に演奏会でもあるのだ。演奏会としての映画と違った嘘があっても良い。演奏会として心地よい方を選ぶべきだ。だから無理に台詞のレベルを上げる必要も無かった。きっと映画のスタッフは逆の意見だと思うが。

意味合いは違うが、「ゴジラ」の時、ダビングで外したと思われる音楽を、和田(薫)さんと相談して復活させた箇所がある。録音されテープに残っていてMナンバーも明らかにその箇所を指す。タイムもピッタリ。映画では音楽は無く、効果だけで行っている。音楽が続くより、映画はその方がメリハリが付く。でも演奏会では音楽があった方がみんな喜ぶはずだ。無暗に増やしたのではない。そのシーンの為に書かれた音楽なのだから。演奏会の為のそんな細かい嘘は必要だと思う。僕はシネマコンサートはまず音楽本位に考えるべきだと思う。

 

さて、公開当時も感じていたのだが、ピアノを弾く和賀英良の指先のアップ、もちろん加藤剛ではなくピアニストがやっているのだが、これがどう見ても女の手なのだ。ムチムチしている。男のピアニストを手配出来なかったのか、これだけは昔から気になっていて、今日も改めて気になった。

 

10月31日には東京国際映画祭のイヴェントとして「ゴジラ」のシネマコンサートがある。招聘物では「ラ・ラ・ランド」。シネマコンサートは花盛り。でもシネマコンサートに向いている作品とそうでないものがある。その辺は慎重に選ぶべきである。全く違うが「ゴジラ」と「砂の器」は邦画ではこのスタイルにピッタリの双璧である。

 

8/15 訂正とお詫び

映画「砂の器」のピアノを弾く指先のアップは長らく女性と思っていたのですが、作曲者でピアノも弾かれていた菅野光亮氏ご自身と、松竹の関係者より指摘を受けました。長きに渡る我が思い込みによる失礼の段、お許し下さい。

 

 

 

 

 

2017.08.04 「ブランカとギター弾き」 シネスイッチ銀座

2017.08.04「ブランカとギター弾き」シネスイッチ銀座

 

素朴が力になる、そんな久々の映画である。マニラのストリートチルドレンブランカ (サイデル・ガブテロ) と路上のギター弾きピーター (ピーター・ミラリ) の心通う物語。

母親に甘える子供を見るブランカ。母親がほしい。大人が子供を売買する。それなら逆があっても良い。いかにも子供らしい発想。必死に盗みやスリを働いてお金を貯める。そして”母親買います”のチラシをあちこちに貼る。広場で出会った盲目のギター弾きピーターは、お金で買えるものと買えないものがあると諭すも、理解出来ないブランカ

ビーターに勧められて、ギターに合わせて歌を唄う。これが評判となり、二人はクラブに住み込みで唄う職を得る。ブランカは初めて屋根の下のベッドで寝る。それだけでブランカは喜び、ピーターに感謝する。

ブランカは明るくて聰明で生命力に溢れている。周りの子供たちも生きる為に盗みやスリをするが、みんな明るい。子供の世界は生き生きとしている。悲惨はある。何年かしたらこの子たちの何人かは麻薬に関わるだろう。ドゥテルテに殺されるかも知れない。映画は今はそちら側を見ない。生命力の方だけを見る。

折角の職だったが、似たような境遇の小僧の悪企みでそれを失う。やり手ババアに売り飛ばされそうにもなる。ブランカは孤児院へ行くことを決意する。

孤児院にブランカは馴染めなかった。脱走して街へ戻り、広場でピーターと再会する。喜びと涙のブランカのアップ、映画はこの顔で終わる。泣いてしまった。

何の捻りもない一直線の話。それを大きな感動に高めたのは、ブランカを演じた、ほとんど素人の凜とした少女、本物の路上ギター弾きのピーター、そしてスラムの子供たちだ。現地の素人をオーディションで選んだらしい。本物が持つリアリティがそのまま映画に生かされ、彼らの明るさと生命力が、“悲惨”という紋切り型の見方を吹き飛ばす。

黒味になって“家とは誰かが待っていてくれる場所である”(不確か) というテロップが入る。普段なら、相田みつおみたいなこと言うんじゃねぇ! と興ざめするところが、その通りと肯いてしまった。そしてヴェネチア映画祭で上映された翌日、ピーターは死去したと、またテロップが入る。虚構と現実の壁は溶解して、ただ一つ映画の現実がある。

バンコクナイツ」も「ラサへの歩き方」も「草原の河」も、みんなそうだった。でもちゃんと台本はある。演出もある。

良いカットが沢山ある。スラムのロング、港のロング、夕陽、どれも秀逸だ。そこには必ず高層ビルがさりげなく入っている。こんな痛烈な批判は無い。

 

冒頭、マニラのスラムのロングからストリートチルドレンの日常にカメラが寄っていく。そこにアコーディオン(?)で3拍子の素朴な音楽が被る。映画の世界ととっても合ったスケールの音楽。続いて聴こえるギターの音、少し電気的歪みがのっている。アレっ? 写ったピーターのギターにはギターマイクが付いていた。脇にガラクタのアンブ。

僕はこの映画をフィリピンの土着の音楽と西洋音楽が混じりあって生まれたフィリピンのブルースの様な音楽がふんだんに出てくるものと勝手に思っていた。路上のギター弾きはアコースティックギターの超絶技巧。ところがこの映画、そういうものではなかった。アンプを通したショボイ音、演奏は素朴そのもの。でもそれを補って余りある、本物の超絶技巧の音楽はなかったけれど、本物の路上のギター弾きの存在があった。それで充分だ。

ギターの演奏シーンはほんの少しだけ。音楽のメインはブランカが唄う歌である。トラディショナルかと思ったら、詩の内容が映画とシンクロしている。監督が作詞をしたオリジナルらしい。これをピーターの簡単なギターをバックにブランカが唄う。綺麗な澄んだ声だ。彼女は歌が本職なのだそう。音楽はこの歌が全て。後は冒頭の3拍子のアコとサスペンスを煽るリズムだけの曲。これで充分。

ローリングに日本人らしき名前がチラホラ。KOHKI HASEI、何と監督は日本人だった。世界を放浪した写真家とのこと。短編で認められ、長編はこれが最初。イタリアの資本でフィリピンのスタッフを使ってオールマニラロケ、キャストはみんな素人とのこと。こういう人が出て来たのだ。驚いて嬉しくなって、時代は確実に動いているなあ、と我が老いを感じた。

 

ピーターのギターでブランカが唄って、弟分セバスチャンがお布施を集めて、三人で疑似家族を作れば良い。3万ペソで買う母親よりもよっぽど暖かいはずだ。

 

監督 長谷井宏紀   音楽 アスカ・マツヤマ、フランシス・デヴェラ

2017.07.28 「彼女の人生は間違いじゃない」 武蔵野館

2017.07.28「彼女の人生は間違いじゃない」武蔵野館、

 

大震災からもう6年が過ぎたのか。つい先日の様な、ずっと昔の様な。

みゆき (瀧内公美) は父親 (光石研) と仮設住宅に住む。母は津波で流された。遺体は上がっていない。毎日、出勤前に部屋の隅の急ごしらえの仏壇にご飯を供えて手を合わす。市役所に勤める。父親は保証金で毎日パチンコ生活、元は農業だった。

みゆきは週末になると夜行バスで東京・渋谷に出て、デリヘル嬢のアルバイトをしている。夜行バスの車窓から送電線の鉄塔をぼんやりと見つめる。6年前から時間が止まっている福島、そんなことあったなんて殆どの人が忘れてハシャぐ渋谷の街。みゆきは毎週この間を行き来する。

車窓からの鉄塔にPfの硬質な単音が被る。鉄塔にPfの単音は良く似合う。「そして父になる」(拙ブログ2013.10.11)でも鉄塔にPfの単音が宇宙の奥から鳴っているように付いていた。みゆきは鉄塔を見るともなく見ながら何を考えていたのか。出口の無い日常から解放されてホッとしたか、突然狂ってしまった人生、この先どうなるのか、自分って? みゆきが唯一ひとり内省する時間。宇宙の中で一人たたずむ時間。もしかしたらこの時間を持つためにみゆきは毎週渋谷へ行くのかも知れない。やがて微睡み、目を開けるとスカイツリーが視界に入って来る。良いシーンだ。このシーンがあるので僕はこの映画をとっても好きになった。

確かに鉄塔は福島を犠牲にして東京に電気を送る、そんな象徴だ。声高ではない原発への抗議だ。そして僕はどうしてもその先に、宇宙と対峙するみゆきの姿を見てしまう。

 

反省。僕はこのブログでやたらと安易に“宇宙”という言葉を使ってしまう。どういう意味で使っているのかと問いただされても的確には答えられない。きっと歳 (現在68歳) のせいだ。“死”を身近なものに感じ始めて、来し方行く末が前よりも見渡せる様になった。“宇宙空間に漂う絶対孤独な私”という想念が若い頃よりもずっと頻繁に浮かぶ。老人の繰り言、笑わば笑え。僕は全ての映画をここから見ているのかも知れない。

 

映画は手持ちカメラで、家から軽でいわき駅まで行き、夜行バスに乗って東京駅に着いて、洗面所で着替えて、地下鉄銀座線で渋谷に着き、デリヘルの事務所に顔を出すまでを、ドキュメンタリーの様に追う。密着取材の様。

父親は時々仮設の引き籠りの少年とキャッチボールをする。引き籠りが少し治ったと親から感謝される。

隣の夫婦は夫が原発関連。徹夜作業で家に帰らないことも多い。原発で持てはやされていた頃から一変、周りの視線に妻 (安藤玉恵) は自傷行為を繰り返す。

市の広報の新田 (柄本時生) は、家は流されなかったものの、母親と婆ちゃんが宗教にハマり家を出てしまい、歳の離れた弟と二人で暮らす。弟の面倒をよく見ている。新田が通うスナックに東京の女子大生がバイトで入った。復興の様子を卒論にするという。色々質問され、違うと感じつつ、つい店に通ってしまう。

3.11以前の生活は無しになった。復興といったところで元の生活に戻れる訳ではないし、原発の影響は何時まで続くか分からない。6年も経てば仮設は仮設でなくなる。でもこの生活は仮なんだというところにしがみ付く。一生を仮設状態で生きて行く? 仮でない本来の生活って?

 

みゆきが何故デリヘルのバイトをするようになったかの説明はない。生き残ってしまった自分、津波が来た時は恋人とホテルの一室だった。その罪悪感からの自分への罰なのか。

 

デリヘルのマネージャー (高良健吾) は演劇を志す人だった。その彼に子供が生まれる。彼はデリヘルマネージャーの仕事を辞め、次の段階に人生を進めることを決めた。みゆきは彼の芝居を初めて観る。もしかしたらみゆきもデリヘルを卒業して人生を少し進めるかも知れない。

父親は一時帰還で汚染地域の家に戻り、妻の衣類を持って帰り、漁船から海に放り投げる。“かあちゃん、寒か!” 父も人生を少し進めるかも知れない。良いシーンだ。

夜行バスで朝帰りしたみゆきは子犬を飼うことにする。父親に“ちょっと待って、朝ごはん作るから”(不確か) 映画はこの台詞で終わる。仕事を見つけようとしない父親に “いい加減にしてよ!” とヒステリックに叫んだみゆきではない。何かが少しだけ変わった。ほんの少しだけ朝日が射しこんだ (ような気がした) 。

 

福島にはきっとこんな話がゴロゴロしているのだ。こんな話だらけなのだ。映画はそれを拾い集め、それに出来る限り作為を加えることなく役者に演じさせた。演出臭は細心の注意を払って除去している。そういう冷静で優しい演出なのだ。役者もみんなよくそれに応えている。光石研など現地の人をそのまま使った様である。

一つだけ、これは言っても仕方ないことであり美点でもあるのだが、みゆきの瀧内公美、彼女が綺麗過ぎる。端正な横顔に見入ってしまう。この映画のヒロインとしては美人過ぎやしないか。スラリとした体躯も初めからシブヤである。彼女の美貌で引っ張るのは商業映画としては当然で、もし普通の容姿の女優がやったら商業映画ではなくなっていたかも知れない。だから仕方がない。矛盾するようだが何かの賞でこの熱演は評価されるべきだ。

「日本で一番悪い奴ら」(拙ブログ2016.7.15)に出ていたとのこと、全く気付かなかった。

 

音楽、Pfの硬質な音で2分音符の2音の単純なメロが繰り返される。そこに小編成の弦が入り、Pfに代わってメロを取る。あるいは弦がリズムを刻む。一直線の桜並木の奥から除染作業の車が現れる冒頭、あるいは夜行バスの中から見る鉄塔、東京の光景、福島の光景に付く。遠くからの視点の音楽。人間の営みを無感情に見つめる音楽。ほんの数カ所だけ。でも効果的。良い映画音楽である。

ローリングタイトルで音楽家のクレジットを読み取れなかった。ネットで調べても載っていない。主題歌・meg「時の雨」は載っているのに。エンドロールに流れる主題歌はそれまでの世界を壊すようなものではなく、良い範疇。それより劇伴の作曲家をネット資料でもきちんと表記すべきだ。ローリングのクレジットをそっくりそのまま資料として掲載してくれればといつも思う。既成曲も何を使ったかが分かる。そう出来ないものだろうか。

 

「彼女の人生は間違いじゃない」、優しさに溢れるタイトルだ。

廣木隆一、良い仕事をした。

 

監督 廣木隆一   音楽 半野喜弘      主題歌 「時の雨」meg

 

8/15   本ブログを読まれた方より、音楽は「半野喜弘」であると連絡を頂きました。ありがとうございます。

2017.07.27 「ボンジュール、アン」 日比谷シャンテ

2017.07.27「ボンジュール、アン日比谷シャンテ

 

映画プロデューサー・マイケル (アレック・ボールドウィン)  と美しき妻アン (ダイアン・レイン)。場所はカンヌ、ちょうど映画祭が終わったという設定か。売れっ子プロデューサー、マイケルの携帯は引っ切り無しに鳴る。

友人のフランス人プロデューサー・ジャック (アルノー・ビアール) と3人でブダベストへ行くはずが予定変更、アンはジャックの車でパリへ行くことになり、マイケルが後から合流することになった。大人のアメリカ女と大人のフランス男のカンヌからパリへのフランス縦断の旅。車を飛ばせば一日の所を、フランスの名所旧跡を訪ねつつ、心の寄り道旅となる。

アンは一人娘が大学生となり、子育てから解放された。夫に不満がある訳ではない。ジャックは美食家でワイン好きで煙草を吸い女性を愛するフランス男。独身。

間違いが起きてしまうのではないか。この期待と心配のバランスで引っ張って行く。時々心配になったマイケルから携帯に連絡が入る。フランス人は夫や子供がいようと関係ない。ジャックはフランス人だ。

その通り、ジャックはやんわりとその気を伝えてくる。手間暇お金を掛け、決して押しつけがましくならないよう、細心の注意を払って大人の迫り方をする。

随所に思わせぶりを散りばめる。ホテルのフロントで出された鍵が一つだったり、都合良く車が故障してルノワールの『草の上のピクニック』(?) をやったり。次々にアンの興味を引きそうな所を案内してパリへ行くことなんかそっちのけ。いつの間にかジャックのペースにハマっていく。

事情があるとかで頼まれて、支払いをアンのクレジットカードでする。金策らしきジャックの電話を立ち聞きもする。もしかしてお金に困っている、借金まみれの詐欺師か。映画のプロデューサーなんて当たれば大金持ち、外れると借金まみれ、詐欺師に近い人だっている。

一方で、お互い心の奥にしまっていた哀しい記憶を話したりもする。若干の疑念を残しつつ、気持ちは通っていく。

ようやくパリに着き、遂に愛の堤防決壊かと思われるギリギリのところで大人の抑制が働き、決壊はしなかった。翌朝、バラのチョコレートとカードで支払った分の現金が届く。

 

随所にフランス人とアメリカ人の違いが語られる。しかし文化の違いがテーマという程ではない。子育てを終えた大人の女がこれから自分の人生を生きて良いのだと思わせてくれた2日間の旅。決して夫と別れるとかというものではなく。自分の人生をまだまだこれからやれるんだ、と思わせてくれた旅。

ジャックがちゃんと中年っぽくて二枚目でないのが良い。二枚目だったら単なる不倫ものになってしまう。二枚目でない男が迫り、大人の抑制を効かせて爽やかに纏めた。ダイアン・レインが素敵だ。彼女の魅力で成立している所、大。「トランボ」(拙ブログ2016.7.28)の奥さん役も良かったなあ。

音楽、女声のスキャットが入ったボサノバ調、あれ「男と女」? でもその内ジャズ風になってメロはサティだったり、クラシックのよく聴くメロだったり。もしかしたら全部既成曲メロをアダプテーションしているのかも。僕には全部は解らなかった。

かなり多いが、この手の映画、音楽がムードを作るのは重要で、そこはとっても上手くいっている。

熟年の恋愛映画という訳ではない、不倫映画でもない、自分探しの映画という訳でもない。どれもが淡くブレンドされた映画。一緒にフランスの旅をしている様な気になる。

中高年の叔母様たちでかなり混んでいた。

 

監督 エレノア・コッポラ   音楽 ローラ・カープマン

 

PS. 監督がF・コッポラ夫人であることを後で知った。80歳、初監督作品。手練れの職業監督かと思っていた。流れは澱みなくベテランの風。

2017.06.19 「花戦さ」 丸の内TOEI

2017.06.19「花戦さ」丸の内TOEI

 

華道は僧侶の手によって始まったことを初めて知った。利休と親交した実在の人物らしい池坊専好、暴君と化した秀吉に花を活けて自戒を促したという話。本当なのか。

専好を野村萬斎が演じる。専好は花の中に仏さんがいるという。それはよい。けれど活けた花で秀吉が改心するというクライマックスにどうにも説得力が無い。桜と梅のどちらが好きか、それぞれにかけがえのない良さがある。赤には赤の、青には青の、黒には黒の、金には金の、そんなやり取りで解ったような気にさせられる。脚本がどうにも浅い。浅いところで辻褄を合わせてイージーな整合性を作る。

何とか映画になっているのはひとえに萬斎の形のある演技による。台詞も所作もリアリズムではない。伝統に裏打ちされた形である。萬斎は普通の映画に出たら間違いなく、浮く。「陰陽師」も「のぼうの城」も萬斎の持つ形の演技を上手く取り込んで成功した。この映画は取り込むのではなく助けてもらっている。萬斎でなければ映画が成立しなかった。彼の形が浅い脚本にも拘らず何かが有る様な感じを作り出した。秀吉役の市川猿之助も同じ。猿之助の持つ形が何とかクライマックスを成立させている。形を持たない役者でやっていたら悲惨、映画に成ってなかった。萬斎、猿之助がやったから、かろうじて映画になった。それでも辛うじて、である。

セットはチャチ、引いた画は無い。予算が無かっただろうことは解るが。せめて幾多の無念の血が沁みつく三条河原のロング、それがあればこそ一輪の花に手を合わせた後に刈り取る萬斎に深さが出るというもの。TVサイズの寄りばかりでは花に仏が宿るなんて言っても説得力が感じられない。

音楽、複雑なリズムを駆使したミニマルミュージック(?)。弦のピッチカートや木管がリズムを作って、そこに弦のメロがのる。琴の音も聴こえる。映像に付けるというより映像を引っ張っている。音楽の無いラッシュはさぞ辛かっただろう。音楽が積極的に演出してテンポを付けてメリハリを付ける。萬斎、猿之助とともに久石の音楽が無かったら映画に成っていなかった。

茶道華道の動員付映画であることは間違いない。それをしっかりと逆手に取って普段作れないような映画を作って欲しかった。

 

監督 篠原哲雄   音楽 久石譲

2017.06.09 「海辺のリア」 スバル座

2017.06.09「海辺のリア」スバル座

 

仲代達矢が、かつては大スター、今は80の坂を超え施設暮らしをする呆け老人・桑畑兆吉を演ずる。

娘・由紀子 (原田美枝子) とその夫・行雄 (阿部寛)。かつて桑畑を尊敬し弟子だった。今は由紀子と結婚し、プロダクションの社長に収まっている。そこの社員で由紀子と深い関係にある男 (小林薫)、由紀子とは腹違いの孫の様な歳の娘・伸子 (黒木華)、出演者はそれだけ。五人が織り成す舞台劇の様な話。

桑畑と仲代がWる。無名塾を主催して今も現役の仲代と施設に入っている桑畑では全く違う。だが老いてなお芝居に憑りつかれているという点ではどうしようもなくWって見えてしまう。作り手もそれを狙っている。ロケは北陸の海辺一箇所のみ、大仕掛けはなく、ひたすら台詞で語られる。あまりに台詞ばかりなのでちょっと食傷気味になる。これまでの人生、子供との関係、腹違いの娘がされた仕打ち、今の状況、全てが台詞だ。それが海辺の似たような景色をバックに延々と続く。

仲代の立派過ぎる声と見事な滑舌はどちらかと言うと僕は好みではない。あまりに演劇的だ。体もがっちりとして良く歩く。あんな老人もいるのだろうが、随分立派な呆け老人である。仲代でなかったら成立しない企画なので仕方ないのだが。

音楽は頭とお尻、中ほどに少し。多分これ、曲はクラシックの既成曲。エンディングの曲は良く耳にする曲 (題名失念) なので間違いない。

冒頭、VCのソロで入る。中低域のしっかりした音。それに合わせて中央タテにキャストのクレジットがゴシック体 (?) で一人づつ入る。黒地に白抜き、最もシンプル。しかしVCの中低域と合って、落ち着きを作る。格調すら感じる。このクレジットタイトルと音楽、良い。音楽、劇中には1~2カ所入るだけ。後はエンドロール。有り物音源か演奏し直したものか。音楽クレジットはプロデュースの意味合いか。

台詞で殆どを語る映画があったって良い。それが映画的表現になっていれば。

 

黒木華が良かった。阿部寛は体を使えない芝居なので辛いものがあった。

それでこの映画は何を伝えたかったのか。

周りの犠牲も顧みず、自由に生きた名優の、呆け乍らも未だ演じることに憑りつかれている、そんな役者とは、ということか。あまりにストレート。こちらの思いを差し挟む余地なく、あゝそうですか、で終わってしまった。

 

監督  山本政広    音楽  佐久間順平

2017.07.19 「甘き人生」 スバル座

2017.07.19「甘き人生」スバル座

 

僕らの世代は“甘い”に弱い。“甘い”と来れば“生活”だ。背徳の匂いだ。「甘き人生」、どうしても背徳の匂いを感じる。ヴィジュアルも中年男に覆いかぶさる美女、退廃の芳醇な香り。そんな先入観の下で観た。

1960年代、ツイストが流行っていた頃、カトリーヌ・スパークが太陽の下で18歳だった頃。イタリアはトリノ、少年 (ニコロ・カブラス) と美しい母 (バルバラ・ロンギ) の至福の時が色調を抑えた画面で描かれる。少年にとって黄金の日々。

母が突然居なくなる。寝ている少年に“良い夢を”という言葉を残して。母は自殺したらしい。葬儀で初めて父親が登場する。もしかしたらシングルマザーかと思っていた。この時代、ましてイタリア、それはないか。父親は渋い。これは間違いなく女が絡む。父親の女関係がもとで精神を病み自殺した。間違いない。少年を溺愛する母の姿に少し神経症的なところも感じた。

少年・マッシモは母の死を受け入れられない。周囲も死因は心筋梗塞と言い、自殺とは決して言わない。自殺を罪とするキリスト教の背景もある。

母と観たTVの、仮面を被ったダークヒーロー (?) ベルファ・ゴールを心の支えとして、周囲とはそれなりに接するものの決して心底から心を開かぬまま成長する。

宇宙の起源、物体落下の法則、教会を明るくしないと母が帰ってこられない(?)。成長するにつれ、理性は母の死を理解しつつも、心はそれを拒否し続ける。そんな心を持ち続けたまま、マッシモは大人になる。

ジャーナリストになったマッシモ (バレリオ・マスタンドレア) はセルビア紛争の取材に赴き、そこで撃たれた母とその脇で必死にゲームをやり続ける少年の姿を見る。必死に紛らわせているのか、心の許容範囲を越えたのか。その夜マッシモは初めてパニック障害を起こす。それを救ってくれた女医・エリーザ (ベレニス・ベジョ) との出会いがある。

199?年、マッシモ が30代後半になった頃、初めて父親は再婚を考えていると、女性を紹介する。残念ながら父親に背徳の匂いは無い。息子は素直に認める。父子並んで歩く姿がどうにも親子に見えない。端正な父親に比して無精ひげの息子の方が老けて見えたりする。

 

母の死の受容と1960代~1990代の欧州を重ねて描くのかと思った。しかし僅かに触れる社会ネタも重きを置かれている訳ではない。むしろサッカーの話がこの親子に深く絡んでいる。丁度、長嶋茂雄のデヴュー連続3三振後の初ヒットがホームランだったり、天覧試合のホームランだったり、“巨人軍は永遠不滅です”の引退だったり、その活躍が僕らの個人史と深く絡まっているのと同じ様に。

父が死に、アパートの片づけをして母との思い出を整理する中で、叔母の口から母の死が病気を苦にした飛び降り自殺だったと初めて聞く。精神を病んでいたというようなことは全く出てこない。ましてや父親の女性問題など皆無。僕の読みは次々に粉砕される。

マッシモは遂に母の死を受け入れエリーザと結ばれる。ラストカットがポスターのヴィジュアルだ。ここにも背徳は皆無だ。あのヴィジュアルに「甘き人生」というタイトルが付けられてマンマと騙された僕がバカだったということだ。ただ単に病気を苦に自殺した母の死を40年近く掛けてようやく受け入れた男の物語だったのだ。本当に? どこかに見落としている所があるんじゃない? だって本当にこれだけだとしたらTVで充分 (TVに失礼か) なんだもの。

新聞の投稿欄の担当として、母を憎んでしまうという投稿に、帰ったら黙って母を抱きしめなさい、と回答して世間から絶賛を浴びたりする。このストレートさは何なんだろう。

幼くして母を亡くした経験は筆舌に尽くし難い。トラウマとなったり人格形成に大きな影響を与える。一方で僕らはIS等の現実を日々のニュースで知っている。母親が目の前で乱暴され殺される。マッシモだってセルビアで現実を見てパニック障害を起こした。母の死を受け入れるのに40年って、ちょっと「甘き人生」じゃない? 背後に退廃の芳醇な香りなんか一切無い、それだけの話。ダマされた私がバカだった。

 

音楽はポイントに時代を表わす既成曲、所々で小編成の楽曲がお決まりで付く。最後に弦の入った大編成でウェットに纏める。当たり前だが過不足無し。ツイストから始まって、ストーズやキングクリムゾンのLPジャケットが出てきたりして世代的には僕とWり、既成曲は懐かしかった。

 

描写は的確。’60トリノ、’90ローマと場所時間共にランダムに飛ぶも流れはスムーズ、素直に観られる。安っぽい泣かせに持って行かなかったことは良い。男は永遠にマザコンだ。

 

原題「Fai bei sogni」(良き夢を)、母が残した最期の言葉。それを「甘き人生」とした。“甘き”で僕の様な世代を深読みさせ、一方でこの映画の“甘さ”を自ら皮肉る、上手い邦題。

 

監督 マルコ・ベロッキオ   音楽 カルロ・クリベッリ