映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2012.10.9「東京家族」丸の内ピカデリー

2012.10.9「東京家族」丸の内ピカデリー

 

小津の「東京物語」を山田洋次がリメイク、3.11のショックで製作を1年遅らせて、満を持して作り上げた。

あまりの名作、あまりのレスペクトゆえ、細部に至るまで小津を踏襲、その呪縛、というかそれを敢えて承知で踏襲して作った。脚本、カメラアングル、役者の演技、とくに橋爪功、それは間違いなく監督の指示だったのだろう。妻夫木と蒼井優に少しだけ違った印象がある。この二人は設定も違う。

テーマは家族。人間が生きていく上での最小単位である家族。「家」という単位は崩壊し、今は最期の砦として家族がある。でもこれすらも崩壊の危機に瀕している。小津の家族も決して堅固なものではなかった。戦死した次男の婚約者(原節子)の存在に救われた。そしてその直後の妻の死。郷里へ帰り、一人夕暮れの部屋に佇む父(笠智衆)、その背後に拡がる闇は漆黒の宇宙。その中にひとり放り出され佇む…。宇宙の中の絶対孤独。人間存在とはそういうもの。しかし妻と出会えた、子供たちとも出会えた(子供は作るものなんかではない、出会うものだ)。ほんの束の間の時間と空間の共有、それが家族。家族には始まりと終りがある。家族は役割を終えた。漆黒の宇宙の中にひとり放り出された父、ラストの笠智衆の姿はまさにそれだった。哀しいとか良くやったとかを通り越して、それが人間存在の現実なのだ。隣の叔母さん(高橋とよ)の挨拶の声が聞こえる。これが肉体を持つ人間として地上に繋ぎ止める。23億年の孤独を抱えながらクシャミをするということだ。

小津の背後には宇宙が拡がっていた。それはおそらく脚本に書かれたものではなく、撮った映像から背後に宇宙が立ち上がったのだ。だから世界の名作と成り得た。

山田洋次はどうか。全く同じ様に西日の中に佇む父、しかしその背後に宇宙は拡がっていない。家族の役割を終え、一人になった可哀想な父が、でもきっと頑張って近所にも助けられて生きていく。そこ止まりだ。

家族というものには始まりと終りがある。それは昭和28年も平成24年も同じだ。山田が描いた家族は小津の家族とほとんど同じ程度の強度である。もし本当に平成の家族を描こうとしたのなら、血を超えた家族を描くべきだった。擬似家族。今我々は血の家族からそれを超えたもので結ばれようとしている。人間の生きる単位はそこまで来ている。宇宙から見た時、血などというものは幻想でしかない。血を超えて、同じ時間空間を共有し信頼で結び付いた関係、絶対孤独で生まれた人間が生きている間にそんな関係を作り得た時、それがまさに家族なのではないか。妻夫木の婚約者は子連れだったとか、父は3.11で生き残った孤児を引き取って一緒に生活を始めるとか、血を超えた設定はいくらでも作れたはずだ。会話の端に少し出てくる3.11のエピソードは、これで1年遅らせたとは思えない程度のものである。

それなりに良い映画であり、我が身につまされ泣く人も一杯いるだろう。しかしそこにあるのは昭和28年と変わらない家族であり、80歳の山田洋次が見た今の家族である。今我々が現実のものとして感じている家族ではない。黒沢清の「トウキョウソナタ」の方が遥かに今の日本の家族の現実を描いている。

山田は、ほとんど起伏なくドラマを盛り上げるでもない、シーン変わりの運びに流れるような音楽、つまり「東京物語」(音楽.斎藤高順)と同じようなものを要求したらしい。久石には辛い仕事だったと思う。きっと久石は少しでもドラマを盛り上げようとしたことだろう。山田はそれをことごとく否定し逆の要求を出した。盛り上げずに薄い音楽。結果として音楽も小津を踏襲した。唯一最後の方で久石らしいピアノメロが違いを作った。厚みのある音楽は東京観光のハトパスのシーン位。あそこもホルンなんか必要なかったのに。でも少しでも久石色を出そうとしたのは作曲家としては当然ではある。

何箇所かで音楽の終りが中途半端で、なんでシーン一杯にしなかったのか、というところがあった。あれは多分山田が理屈で考えたのではないか。音楽を理屈で考えるのは必要ではあるが、最後はその理屈など透けてみえないように感情の流れとして自然にしなければならない。何箇所か不自然であった。

東京物語」の最後はシンセのパッドを流しても成立したかもしれない。しかし今回の山田からそんな宇宙的な音楽は聴こえてこなかった。

監督 山田洋次  音楽 久石譲