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映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2015.8.12「この国の空」シネリーブル池袋

2015.8.12「この国の空」シネリーブル池袋 

 

最後に二階堂ふみ茨木のり子の「私がいちばんきれいだったとき」を朗読する。ローリングで下絵はない。これまでの映画が吹っ飛ぶ。この詩にはかなわない。足元にも及ばない。荒井晴彦は当然解っている。高井有一の原作も荒井晴彦の脚本も、この詩を物語として膨らませる為の手段でしかない。この詩を、二階堂ふみを通して肉体化したかったのだ、きっと。

初め二階堂の、太宰「斜陽」の様な、山の手中流家庭の育ちの良い子女の言葉使い言い回しに違和感があった。どうしてもこれまでの女優二階堂のイメージを引き摺っての違和感である。途中から何とか気にならなくなったけど。

戦争末期の杉並、食糧不足の日常が丹念に描かれる。かなり恵まれた人々ではあるが。

若い男が居なくなって隣の38歳の男は身近な唯一の男、思春期の目覚めた感情がそこに集中する。色々理屈は付けるけど男にとっては棚ボタである。男には妻子がおり、戦争が終われば疎開先から帰ってくる。

映画は終戦の前日に終わる。「明日、戦争が終わる。明日から私の戦いが始まる」、戦いとは男を妻子から奪う戦い? そうは考えたくない。そう考えると話は貧弱になる。生き続ける女の戦い。この男、きっと妻子とは別れず、でも関係を続ける為、嘘や小細工を弄してその俗物性を露呈して女は嫌気がさすに違いない。与謝野晶子が鉄幹の俗物性に気づいていく様に。女は強くて正しい。

母が若くて綺麗過ぎると思った。姉妹にだって見える。ローリングで何と工藤夕貴。素敵な中年になっていた。”女は溺れることがある”なんて台詞言う訳だから、まだ”女”が残っている工藤のキャスティングで良かったのかも。伯母役の富田靖子、こちらも立派な脇役女優になった。二人共”女”である必要があったキャスティング。それに不細工な婆さんじゃ映画にならない。

舞台がほとんど隣近所のセット。これがどうにも新しい材木で作り立てという感じ、生活感が無い。TVのセットの様。黒澤なら”汚せ!”と怒鳴ったところ。リアリズムで見る必要はないのかも。仕方ないのかも。交した朝の井戸水で体を洗うシーン、脇に金盥。金属供出のあの時代、違和感あり。二階堂の肩の筋肉のしっかりしているのに驚く。後姿はレスリリング選手の様な逆三角形。

音楽、Vl,、VC, Pf, Perc &女声、こんな感じの小編成。木管も少し。一か所Saxを使ったところに違和感あり。Saxの音色は無いと思う。素朴な室内楽風、感情の起伏に合わせた音楽、邪魔になっていないしそれなりに効果を発揮している。しかしメロは残らない。オーケストレーションも上手くない。

観ているうちにこれ新藤兼人が撮ったらなぁと思い始めた。題材は新藤向きだ。きっとこれにユーモアとさらなるエロティシズムが加わる。裸は正面からしっかり撮る。文字も朗読も入れなかったろう。そして何より、音楽が林光だったらと思った。小編成ほどオーケストレーションの技量が問われる。林光は上手い。そしてきっと空からの視点で明快なテーマを通したことだろう。「この国の空」である。空からの視点。

神社の境内、初めて抱き着くところ、音楽無しでセミの声のみの演出、抱き着くと同時にCO、無音、不審がる通行人のフレームインに合わせて戻る現実音、この音の演出、上手い。よくぞ音楽を付けなかった。

音楽・下田逸郎、柴田奈穂。下田逸郎、かつてのシンガーソングライターか。懐かしい名前。

観終わって、今イチの感じがしていたが、後になって効いてきた。二階堂の「私がいちばんきれいだったとき」の生々しさが染み出てくる。

監督 荒井晴彦  音楽 下田逸郎、柴田菜穂