映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2015.8.28「野火」ユーロスペース 

2015.8.28「野火」ユーロスペース 

 

将校・下士官・馬・兵士と言うのだそうてある。大岡昇平の原作、塚本晋也の監督主演製作脚本。兵士の物語である。太平洋戦争末期のフィリピン戦線。本隊も何もなくなって飢餓状態の中でひたすらジャングルを彷徨する兵士達。芋をめぐって仲間内の殺し合い。生きるというより只何とか死なない。ここからの出口は手榴弾での自決のみ。バロンポン海岸に集結の命令が出たらしい、内地に帰れる! 生き残っている兵士はゾンビのように夜の海岸に集まる。そこに突然明々とサーチライト、米軍の機銃掃射。腕がもげ内臓が飛び出し頭から脳は垂れ、人間は肉塊臓物と化す。塚本得意のグロい描写、しかしこれまでの塚本作品で時に違和感のあったグロさは全く感じられない。垂れて出る内臓、もげた腕が何の違和感もなく自然に受け入れられる。実際の戦場とはこうなんだと説得されてしまう。塚本グロとこの戦争地獄が合ってしまったのだ。

手持ちの揺れる画面もアップの多用も塚本の特徴だが、そんなこと関係なくこの戦場を描く方法として合っている。製作費が無いからアップや手持ちでごまかしたなんてことを言わせない説得力がある。

最後は人肉を喰う喰わないの話である。人間はそれが人肉と分からなければ生きるか死ぬかの極限状況では平気で喰ってしまうのだ。主人公はサルの肉を干したものと出され、喰らい付く。人間をサルと称して殺しあう。そして喰う。この兵士の戦争の極限状況を塚本は描きたかったのだ。象徴比喩などで逃げることなく。正々堂々蛆が溢れ出す屍を。

 

「日本の一番長い日」は歴史の表舞台を作った人々の話である。歴史として記述される事象の、そこに至る、表に出てきたり来なかったりの人間ドラマである。歴史の上部構造とでも言おうか。これは無類に面白い。特に時代が大きく変わる時のそこに蠢いた人々の話は興味が尽きない。それらは誰の目から見るかで様相が一変する。家康か秀吉か信長か、はたまた上杉謙信か。私にとってそんな歴史の見方の面白さを教えてくれたのはNHK大河ドラマだった。長きに渡る大河ウォッチャーとしては、歴史は誰を主人公にするかで全く別のドラマが生まれると言うことをここで学んだ。

親父達は特にこの手が好きである。年を取るとみんな司馬遼太郎のファンになることでも解る。歴史はエンタメのネタの宝庫なのだ。

「日本の~」を観た時、この大河ドラマに通じる面白さを感じてしまった。阿南の視点、鈴木の視点、天皇の視点、東條の視点、そして廣田弘毅等。ドラマはいくらでも作れる。しかし、しかしである。今と直接には繋がらない遠い戦国のドラマはそれでも良い。1945年はついこの間、その決定は直接的に今日の日本の現在を作っている。それを早くも大河ドラマのネタとして良いのかという思い。

戦国物大河ドラマに、関ヶ原で虫けらのように何の意味もなく死んだ百姓の話など出てこない。エンタメにはならない。70年前に同じように訳もなく脳味噌を吹っ飛ばして死んだ何万人という人間がいた。これらは歴史には出てこない。出てくるとしたらただ数字として。それでも戦争直後はこの原作の大岡昇平を始めとする人々が兵士としての自らの戦争体験を作品にした。それがどんどん風化していく。大河ドラマだけが残る。塚本はそれが我慢出来なかったのだ。

「日本の~」を否定している訳ではない。あれはエンタメとして面白いし良く出来ている。原田という監督のメジャー作品監督としての力量を示している。そういう映画はあって良い。しかしそれだけでは困るのだ。エンタメにはならない兵士の戦争映画を作ること、塚本晋也、よくぞこの「野火」を作ってくれたと思う。

最初、塚本が出て来た時、肉厚の顔に、もっと痩せなきゃダメだと思った。しかし後で、それでも大変なダイエットをしたとチラシで読み仕方ないかと思った。リリー・フランキーリリー・フランキーであることが分からない位、溶け込んでいた。この人は本当にカメレオンだ。

音楽・石川忠。塚本とは長くコンビとのこと。スティールドラム奏者。メロディーはなく、効果音的に響かせる音楽。楽音として整理されたどんな音楽を付けても嘘っ八になってしまう映像、この楽器の響きはとっても合っている。極限状況の恐怖感を醸し出して映画に奥行を持たせている。

監督 塚本晋也  音楽 石川忠