映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2015.9.10 DVD「野火」(市川崑版)

2015.9.10 DVD「野火」(市川崑版)

 

昭和34年 市川崑監督。モノクロ。観てなかった。

冒頭に芸術祭参加作品とクレジット。トップシーンは、小隊長が主人公に向かって、何故戻ってきた、お前のような役に立たない病人は置いとく訳にはいかないんだよ、病院へ戻れ、病院で受け入れてくれないなら手榴弾で死ね、と延々一人で話す。これは塚本版と同じ。但し塚本版のようにビンタをしながらではない。こちらは多少の情がある。ひとりで延々と話しそれをアップで撮る。その時の主人公・田村はただ頷くだけ。田村を船越英治、目鼻立ちがはっきりし過ぎて外国人の様。バタ臭い。仲代達也かと初めは思った。立派過ぎる顔で違和感がある。主人公の台詞は少なく、ただひたすら頷く。話はほぼ塚本版と同じ。ただモノクロであること、ロケ地を国内、御殿場だったり高原だったり山岳地だったりすること。熱帯のギラギラ、汗、ジャングルの原色、むせ返る熱気湿気、がない。それがないのでどこかサラッとしている。これは決定的な違いだ。そうするとどこか観念的哲学的になってくる。荒涼とした心象風景、極限状況に放り込まれた人間存在の比喩に思えてくる。市川崑はそれを意図したのかも知れない。「野火」の中の普遍性に重きがあった。

塚本は「野火」を描かれたそのまま即物的に描いた。戦争の現実の血と汗と飛び出す内臓と蛆虫と、観念でも比喩でも哲学でもなく、映像としてそのまま描いた。知的洗練と肉体的即物的グロ? 両監督はそれぞれ時代の要請に応えたのだ。今は即物的にグロに描く必要がある、塚本はそう考えた。

市川版の、遠くに立ち上る野火は、その下に人間の営みがある、と見えなくもない。もちろんそれは攻撃の狼煙かもしれない。塚本版の野火には人間の営みなどという牧歌的な要素は微塵もない。それは生存を脅かす紅蓮の炎である。

2015年、僕は塚本版を支持する。

音楽は芥川也寸志金管主体で要所に的確に付ける。どちらかというとサスペンスを強調する。クレジットタイトルでT-Saxがシンプル且つ明解な芥川らしい8小節のメロディを吹き、これを次々に転調して印象的。メロディ感あるこのワンテーマ、とっても残る。背後にスネア。市川版をとっても理解した音楽である。

監督 市川崑  音楽 芥川也寸志