映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2015.10.28 「アデライン、100年目の恋」シネリーブル池袋

2015.10.28 「アデライン、100年目の恋」シネリーブル池袋

 

嵐が丘」の様な時間を超えた恋の物語を想像していた。お墓や骸骨が出てきたりの。ところがドロドロは一切無い中々洗練されたファンタジー、後味は良かった。

舞台はサンフランシスコ、100年前に生まれた女性、結婚し子供にも恵まれる。しかし夫は事故死。そんな彼女の人生が20世紀前半のSFのニュースフイルム(地震やら)を上手く使って手際よく紹介される。そして交通事故、落雷、それによって老いることのない肉体となったことが、解ったような解らないような科学的裏付けらしきものと共に説明される。その信憑性はどうでもよい。そんな主人公は言わばお化け、どこかにこの世ならざるところがある、という風にするとホラー。しかしこの女性、知的で洗練されていて美しい。その美しさに妖気はない。不審に思った国家の手が伸びるのを察知して娘と別れ名前を変え、孤高の人生を送る。娘とだけは連絡を取り合っている。久々に二人が再会するシーンは喜劇であると同時に胸に迫るものがある。皺くちゃの娘と若くて美貌の母、美貌が皺くちゃを母として気遣うのだ。

肉体が老いない、但し「死」の匂いはしない。「老いない」ということに焦点は絞られている。それをブレイク・ライブリーという本当に知的で洗練された美人女優が演じている。役柄からかもしれないが、所謂ハリウッドスター的押しの強さは無い。そこがさらに魅力的である。日本でいえば吉田羊といったところか。彼女が演じることによって、ある意味、女性にとっては身近でリアリティを感じられる、夢のような話となった。だって老いないんだもの。その上知的で美人。どこかで確か皺くちゃ娘がポロリと言った。”ママのように美貌に恵まれていればね”

言い寄られることは山ほどあったろう。そこをすり抜けて何十年も生きて来た。一度だけ本名を言った恋があった。この伏線。

大晦日のパーティーで出会った男と恋に落ちる。この男との出会いの会話は当意即妙洗練知的、もちろんダイアローグライターによるものだろうが、そんな会話が似合っている女。こんな女そばに居たら人生狂うなぁ。娘からはもう逃げずに幸せを掴めと言われる。

彼の両親と会う為に車を飛ばす。ありきたりだけどここで事故かな、それで普通の肉体に戻ってハッピーエンドかな、あるいは玉手箱を開けた浦島太郎みたいに一気にお婆さんになっちゃうのかな、なんて先読みしながらハラハラドキドキ。ところがここからがこの本の上手いアイデア。男の父親はハリソン・フォード、渋い。彼女を見るなり、”アデライン!”と叫んで絶句。一度だけ本名を告げるも自ら姿を消した恋の相手、その人だった。”それは私の母です、何て偶然” とごまかした。この展開は予想しなかった。伏線はこれだった。

父親は彼女がアデラインその人であると解る。そして息子と結ばれることを望む。やっぱりまた交通事故が起きる。死の淵から蘇生したアデラインは息子と結ばれる。駆けつけた娘が、機転良く自らを祖母ですというところは可笑しいやら哀しいやら。

ふと髪に白髪、白髪は読めていた。オチはそれだと思っていた。老いる肉体に戻り、ハッピーエンド、PERFECT!

音楽はほとんど二分音符全音符のゆったりした弦、時々グロッケンなど。それが満遍なく鳴っている。サスペンスに寄るでもなく、でも普通の恋愛ドラマではないことを感じさせつつ、ファンタジーを強調する訳でもない。後半車の走りやらでは八分音符でサスペンス風、でも感情の盛り上げ的な付け方はしていない。明解なメロがあるわけでもない。実に抑制の効いた音楽でしかもちゃんと雰囲気づくりをしている。この音楽の果たした役割は大きい。何カ所かポップスの歌物既成曲。回想をくくる役割ながらちょっと唐突な感あり。

皺くちゃ娘役のエレン・バースティンの存在が大きい。真俯瞰のカットを時々入れて、演出も撮影も良い。

それでハリソン・フォードの気持ちは本当に収まったのか、なんて無粋な突っ込みはやめよう。息子の嫁に手を出すジジイ。ファンタジーではなくなる。

監督.リ―・トランド・クリーガー 音楽.ロブ・シモンセン