映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.1.5「黄金のアデーレ 名画の帰還」池袋シネリーブル

2016.1.5「黄金のアデーレ 名画の帰還」池袋シネリーブル

 

かつてベトナム戦争が無かったらアメリカ映画は成立しなかったと言われた時期がある。「タクシードライバー」や「ディアハンター」の頃。同じようにナチのホロコーストが無かったら欧州映画は成立しなかった。いや訂正! ナチへの反省が今の欧州自体を作っている。それが映画という形で現れるのは当然のことだ。

ウィーンの名家の美女アデーレをモデルにクリムトが描いた“オーストリアモナリザ”と言われる名画、その絵はナチに収奪され今はオーストリア政府の下にある。それをアデーレの姪にあたる、今はアメリカに住む80を過ぎた老女が返還要求し、オーストリア政府を相手取り訴訟を起こし、見事勝ち取るという、実話に基づいた話である。

老女マリア・アルトマン (ヘレン・ミレン) と新米弁護士ランディ・シェーンベルク (ライアン・レイノルズ) 、片や今はアメリカでひっそりと暮らすも欧州名家の伝統を受け継ぎ知的洗練の極み、一方は同じく親はウィーンの名家の出ながらアメリカンに成り切っている若造、この水と油の二人が長き訴訟を通じてかけがえのない戦友となる。新米の祖父はあのシェーンベルク、それを聞いただけで圧倒される。

話は返還訴訟の過程で、マリアの生い立ち半生が語られ、ランディがアメリカ的成功よりも大切なものに目覚めて成長していく物語として描かれる。この二つが実に上手い具合にブレンドされてドラマを厚くする。

当時のウィーンが如何に文化的レベルが高かったか。それを支えた多くがユダヤ人だった為に如何に理不尽に全てを奪われ収容所に送られたか。マリアは父母を残し夫と二人でアメリカへ逃げた、これが今でも深い傷となっている。祖国オーストリアへの愛憎半ばする複雑な思い。オーストリア人の多くはナチと共にユダヤ人をホロコーストへ送ったのだ。その光景がマリアの原点にある。

ウィーンを脱出する日、父母とマリア夫婦4人が抱き合う。父が言う、アメリカで生き延びよ。DVDで「ハンナ・アーレント」を見た。学生の、あなたにとってアメリカは? という質問に“Paradise”と答えるシーンがあった(不確か)。 あの頃のアメリカはそうだったのだ。

ランディの家の集まりで確かマリアがこんな挨拶をする。誰々(?) が嫌いなもの、一番がナチ、次がカリフォルニアとその太陽、確かこう言ったような。決してアメリカに同化はしなかった。祖国とは、ナチが来る前のオーストリア、アデーレ叔母さんも含めた家族、空港まで危険を侵して送ってくれた運転手、それらの象徴があの一幅の絵だったのだ。

アメリカンでしかなかったランディはオーストリアに行き、初めてお金を超えた価値、つまりはアメリカンではない自らのオーストリア人としてのアイデンティティに目覚める。ウィーンの法廷での演説がそれ。

映画はこれらの理屈を解凍して実に上質なエンタメに仕上げている。ヘレン・ミレンの台詞は知性と寛容と皮肉とウィットに富んでいる。一つ一つに欧州の戦中戦後が込められている。

ファッションは全くダメな私だが、きっと見識ある人が見たら、それも洗練されているのだろう。最初のオーストリア行の時、大きな荷物には衣装が沢山入っていた。出る所に出る時はそれなりの恰好をしなくちゃ(不確か)。

音楽はサスペンスに徹している。心情に付けるウェットなものはない。弦の上にPfが乗る曲はひたすら裁判の進捗状況に合わせる。印象に残るメロはないが効果的な劇伴である。ローリングでハンス・ジマーとあるのに驚いた。エンドロールの音楽を聴くと打ち込みに弦を被せているよう。ジマーより先にクレジットされている人が弦を書いたのか。

一か所、最初のオーストリア行の空港へ向かう道路、ここに既成のロックが流れた。違和感あったのだが、ここはこの時点でまだアメリカンでしかなかったランディに付けたと了解した。

ランディが最初に勤めた弁護士事務所のトップも裁判所の女性判事も高等裁判所の裁判官も、要所で出てくる人はみんな教養のある人ばかり。綺麗事というよりこれは救いになった。

ヘレン・ミレン、素敵な女優だ。ジュディ・デンチ(007)も良い。エレン・バーンスティン(「アデライン」の皺くちゃ娘)も良かった。婆さんたち頑張っている。この三人、最近私が観た映画の「三婆」である。

監督 サイモン・カーティス  音楽 マーティン・フィッブス、ハンス・ジマー