映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2022.01.25 「あのこは貴族」(2021.03.16 池袋シネリーブル)

3.16 あのこは貴族

上流階級のお嬢様を門脇麦、頑張ってK大に合格した地方の頭のよい娘を水原希子、ミスキャストではと思いながら見る内にどんどん引き込まれた。水原が故郷へ帰るとジャージに着替える。よく見りゃカッコイイのだが、それなりに田舎の子に見える。

モデルの水原は知っていたが「ノルウェーの森」で役者に進出、そのあまりの大根ぶりに呆然、続いてNHK大河ドラマ「八重の桜」で明治時代の女の役、こちらも唖然。役者は無理、諦めたと思っていたところにこの映画。イや驚いた。見事に役者となっていた。この映画、水原で映画になった。

頑張ってK大に入ったものの、附属から上がってきた純粋K大の内部生と大学で入ってきた者との間には歴然と格差がある。これは「愚行録」(拙ブログ2017.03.10) でも描かれていた。憧れのK大生になれたものの、内部生からは一段低く見られる。

話はそれるが、高校には日吉と志木があり、“あの人は志木なんでしょ?“ という差別があるらしい。さらには “久々に天現寺が入社してきた” という言葉を聞いたことがある。天現寺とは幼稚舎があるところ、純粋K大生は天現寺な訳である。福沢諭吉もとんだものを作ったものだ。

話を戻す。主人公は上流階級のお嬢様・門脇麦、お見合いで代々政治家を輩出する名家の息子・高良健吾と結婚する。高良の彼女が水原。高良には、好き嫌い抜きで結婚は名家のお嬢様、がインプットされている。水原には当然の様に別れを告げる。

話のディテールは忘れた。結婚生活に疑問を持っていた門脇は離婚する。これは上流ましてや政治家の家柄にとっては大変なことらしい。ご両家を敵に回すも門脇は揺るがなかった。

水原は上に貴族の壁があることを知り、大学に居る意味と経済的問題で中退、水商売のバイトの時、高良と知り合う。中版以降、門脇と水原に接点が出来る。この辺から俄然面白くなった。二人して高良に復讐するなんてそんなチャチな話ではない。二人はとっくに高良を乗り越えているのだ。

水原は同郷の親友 (山下リオ、良かった) と、故郷をベースにした会社を立ち上げる。水原と親友が言う “東京は女たちを搾取する” (不確か)

門脇は自立し (何の仕事だったか?) 、用意された地盤看板鞄で政治家をスタートさせた高良と、地方の講演会で遭遇する。凛とした門脇、生気のない高良。

 

「愚行録」の中に “日本は格差社会なんかじゃない、階級社会なんですよ” (不確か) という台詞があった。確かに政治家を見れば一目瞭然、社会の至る所で既得権階層は固定化している。ガラガラポン無く75年、それは自然の流れなのかも知れない。もちろんガラガラポンを期待している訳ではない。ただ自分の人生を切り開くエネルギーの無くなった既得権層の男が増えているのは確かだ。彼らは必至で既得権を守る。高良健吾は、生まれながらに道筋を決められそれを受け入れてしまう生気無き男を上手に演じていた。

女は違う。上流階級から飛び出す者、田舎から成り上がり都会の既得権にぶつかって自分の道を切り開く者、生き生きとしている。

門脇的女と水原的女と「茜色に焼かれる」の尾野真千子的女が手を結んだら日本は変わるかも知れない、夢の様な話だが。

何より、水原希子が良かったことを記す。

音楽、覚えてない、すいません。

 

監督. 岨手由貴子  音楽. 渡邊琢磨