映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2015.12.29「母と暮らせば」丸の内ピカデリー

2015.12.29「母と暮らせば」丸の内ピカデリー

 

長崎に原爆が投下された。小倉が第一目標、長崎は二番目。必ず視認で投下せよという命令がされていた。小倉は天候不良、長崎も雲に覆われていた。しかし奇跡的に一瞬雲間から長崎が現れた。その偶然の一瞬によって原爆は長崎に投下された。

母(伸子・吉永小百合)と親一人子一人で暮らす医学生(浩二・二宮和也)、その時彼は長崎大学医学部で授業を受けていた。画面一瞬橙色に染まり歪む。長崎大学では900人が死んだ。

三年が経った。母はその間死んだ息子と対話し暮らしたに違いない。それが今日は現実の姿となって階段に座っている。母にだけ見える。母だけが話せる。そんな諦めきれない母とあまりに突然の死を受け入れられないでいる息子。

一方に生き続ける人として、息子の婚約者だった娘(町子・黒木華)、上海おじさん(加藤健一)。町子は伸子を気遣い支え、私は結婚しないとまで言う。上海おじさんは伸子の生活を気にかけ淡い思慕を持つ。どちらも善い人、そしてこれからを生きていく人。町子に新たな婚約者が出来たことによって、母も息子も気持ちの整理がつく。生き続ける人を受け入れた時、母は息子に手を引かれ旅立つ。この映画に文句を言える人なんて誰も居ない。

悪人はひとりも居ない。市井の善き人ばかりである。悪人は原爆、それを落とした人、戦争を引き起こした人。でも一方でアメリカは素晴らしい映画を作っている。

 

微かな違和感が付きまとうのは何故だろう。

まず言葉数が多い。浩ちゃんはおしゃべりと台詞にも出てくるが、二人の台詞劇のよう、長台詞での説明も多い。

例えば

浩二「これは運命」

伸子「違う、これは運命なんかじゃない。地震津波は防ぎようがない運命だけど、これは防げたことなの、人間が計画して行った大変な悲劇なの」(パンフで確認)

その通りである。しかしこの硬直した言い方は自然ではない。

伸子「違う、これは運命なんかじゃない、地震津波と違うの、人間が起こしたことなの」

で充分、あるいは「違う、これは運命なんかじゃない!」で事足りたのでは。「地震津波」は3.11が視野にあることは解るが。この言葉の過剰さが全編を覆う。吉永の台詞のトーンは落ち着いて重い。他の役者も台詞の一つもおろそかにしてはいけないとばかりに頑張る。これが息苦しさを作る。舞台の様である。もう一度映画的自然に戻す必要があるのではないか。台詞を切り詰め、映像に語らせ、頑張らない言い方にする。

これ吉永という役者の声のトーンに起因するところも大きいかも知れない。小津の映画は台詞の間合いだらけ、原節子も笠知衆も間合いだらけの台詞をポツリポツリと言う。吉永はそんな設定にした方が良かったのでは。オシャベリな浩ちゃんと対比させて。

音楽は坂本龍一。弦楽オーケストラ(東フィル)の動きの少ないメロディーの曲とPfソロ。Pfソロの曲、浩ちゃんが現れると入る。音数少なく間の空いた曲だが、レベルは結構大きく入れている。Pfのツブ立つ音だから台詞と喧嘩。台詞をしっかり聞かせたいならレベルをうんと下げるか無しで良い。冒頭お墓のシーンからそう思う。終わったかと思ったらまたひとフレーズ出てきたりして。付け方、あまりに説明的過ぎる。メロもいまいちしっくりとこない。弦の曲も違和感はないが特に何かを主張するというものではない。ひたすら山田洋次の世界に合わせる。

メンデルスゾーンのVLコンチェルトが重要な役割を果たしている。あまりに解りやすいこの選曲が良かったのかどうかは趣味の問題。そういえば「この国の空」でもこの曲が使われていた。

最後に天国の合唱団みたいな人々が出てきて合唱、これは原民喜の詩に曲を付けたそうな。特に歌詞が聞き取れるわけでもなくどこまで意味があったか。

坂本龍一、意欲的に取り組んだ訳ではないんだろうなぁ。山田監督の仰せのままに、である。坂本の音楽がこの映画に何かを加えたというところがどこにも見えない。

二宮がメンコンに合わせて指揮するイメージカットの安手なこと、二人天国へ行く後姿カットの安っぽいこと、家の前の坂道のセットのチマチマとしていること。山田監督がCGを本格的に使ったとうたうが、観る方には何の意味もない。家の内部のセットだけは細部に渡るまで良く出来ていた。

仏壇の前で町子の婚約を伝えようとして嗚咽して言葉が出なくなるシーン、あそこだけは素晴らしくてちょっと泣いてしまった。

野上(照代)さんの「天気待ち」に出てくる伊丹万作ファンの、東の野上、西の竹内、の竹内浩三(詩人『骨のうたう』等、戦死)を上手く浩ちゃんにWらせていた。

監督.山田洋次  音楽.坂本龍一