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映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.3.17 「シェル・コレクター」 テアトル新宿

2016.3.17「シェル・コレクター」テアトル新宿

 

原作はアメリカだそうな。それを沖縄に持ってきた。渡嘉敷島の孤島に一人暮らす盲目の貝類学者 (リリー・フランキー)。流れ着いた画家の女 (寺島しのぶ) の奇病をイモガイの毒で直してやる。それを聞きつけて人が押し寄せる。離れて暮らしていた息子 (池松壮亮) も来る。息子はその毒で死ぬ。島の有力者の娘 (橋本愛) は助かる。間に環境問題やら基地問題やらがチラっと入る。それらは本来のテーマではない。

冒頭の、貝の卑猥で神聖な映像が美しい。海、空、太陽、圧倒的自然が美しい。特にどんより曇った空は素晴らしい。

リリー・フランキーは海中を漂っている。陸上では瞬きをしない。モノローグは優しくて良い声だ。

視覚が無いということは人間の社会性の喪失ということ。人間の社会生活上の欲望の大半は視覚により形作られる。視覚には、聴覚、触覚、嗅覚が寄って集っても適わない。圧倒的で即物的で決定的。目に見えない背後に真実があるとは良く言ったもの。視覚的思考からの脱却、即ち悟りということか。

盲目という設定は社会生活を捨てた、俗世を捨てたことを意味する。悠久の時間の流れの中に漂う砂粒のような意識になっていたはずだ。そこに女やら病気やら息子やら、社会が押し寄せてきて、折角漂っていた心が乱された。“自分は何も解っていなかった”なんて台詞を吐く。所々に出てくる解ったような観念的台詞は軽い。

原作は哲学的エッセイに近い小説なのかも知れない。何かが切っ掛けで日常に裂け目が生じ、そこから別の世界が現れる、その時ドラマは生まれる。この映画、一番ドラマチックなところは既に過ぎて、別世界に生きている。そこに波風がたった。その波風にリアルがないのだ。そこに説得力がないと、到達した諦観は安っぽいものとなる。

貝類の姿を含む大自然の映像、ブクブク泡ひとつ立てずに水中を漂うリリー、どれも悠久の時を感じさせる。しかし取って付けたようなドラマと青硬な台詞が付けられた時、折角の詩情は消えてしまう。リリーと撮影 (芦澤明子、「さようなら」も素晴らしかった) は良かったのに…

音楽、ビリー・マーティン。ジャズ・ファンク・バンド“メデスキ、マーティン&ウッド”のドラマーだそうな。全く知らず。スティールDr、クロマチックゴング(多分)、等で観念的世界を作り出す。少し説明的で、付け過ぎ。この人が書いたのか分からないが、弦カルも入る。響きはとっても合っている。エンドロールで音楽の全貌が聴けるが映画よりレベルが高いのでは。この映画の目指した世界を映画以上に捉えている。

監督 坪田義史  音楽 ビリー・マーティン

 

「女が眠る時」「マジカル・ガール」そして「シェル・コレクター」、邦洋不可解三連チャン。

解りやすい映画ばかりの昨今、久々の体験である。

過剰に説明する必要はない。省略も良い。飛躍もよい。象徴も良い。時間軸の解体も良い。わざと解りにくくして考えさせたって良い。それによって詩情が生まれれば。