映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.3.29 「リリーのすべて」 みゆき座

2016.3.29「リリーのすべて」みゆき座

 

肉体は生まれた時から男女の違いを明白に示す。しかし意識は後付けの様な気がしてならない。肉体と同じ様に、男の意識、女の意識、と明確に違う構造になっているのだろうか。脳内に先天的に明確な違いがあるのか。男の肉体を持つ者はほっぽっといても男になる、女の肉体を持つ者はほっぽっといても女になる、という呑気で牧歌的な決定論の外側に居る人たち。一方で、フタナリの家系、思春期になると性が変わる家系、そんなドキュメントをTVで見た事がある。種としての人間も一律ではない。少数かもしれないが、いろんな人が居るのだ。

この映画の成功は、男の中に“リリー”という女の人格を置いたこと、性への違和感を二重人格ものとして表現したところにある。そして眠っていた“リリー”を目覚めさせ、“リリー”が本来の自己であることを応援し支え、ついには意識に合わせて肉体を変えるという決意にまで導くことを、何あろう、その妻が行ったというところにある。こう書くとまるで科学ミステリーの様である。それを第一次大戦後の欧州の格調高き文化の中で夫婦の性を超えた純愛の物語に昇華させたのだ。

アイナー(エディ・レッドメイン、「博士と彼女のセオリー」でホーキングをやった人) とゲルダ (アリシア・ビカンダ―) は画家の夫婦。肖像画書きの妻ゲルダは細身の旦那アイナーに、ストッキングと靴を履かせて、来なかったモデルの代わりをさせる。アイナーは嬉しそうに目を輝かせた。パーティーに余興としてアイナーを女装させて連れて行く。そこでアイナーは男に言い寄られた。“リリー”が目覚めた。それまではセックスもする普通の夫婦だった。もう一人の人格“リリー”は前から居たのか、その時突然目覚めたのか。恐らく前から居た。それを抑制していたか、忘れていたか。一番肝心な、“リリー”という名付けの瞬間を記憶してない。アイナーが言い出したのかゲルダが言ったのか。こんな重要な所を見落とした。何ということか。

それからの二人は辛い。“リリー”を否定しようと努めるアイナー、ゲルダもそうあってほしいと医者にも行く。二人は必死で元に戻ろうと努力する。しかし無駄だった。本当の自分は“リリー”の方なのだ。

ゲルダはアイナーの美しく怪しい女装をキャンバスに描く。それが皮肉にも彼女を画家として成功へと導く。アイナーも複雑だがゲルダはもっと複雑だ。それをアリシア・ビカンダ―が見事に演じている。ただの綺麗な女優かと思っていたらとんでもなかった。オスカーの助演女優賞は納得である。

ゲルダは性別適合手術を受けることをアイナーに決意させる。それはアイナーの死、夫婦の終わり、ということだ。そして命の危険が伴う。それでもその手術を受け、アイナーは“リリー”に生まれ変わる。夢の中に母が出てきて、“リリー”と呼んだ、と嬉しそうに語った (不確か?) “リリー”になった喜びを噛みしめながら、ゲルダの腕の中で息絶える。

世界で最初に性別適合手術を受けた人らしい。実話に基づくとのこと。黒味になって直ぐそんな文字が出る。これは蛇足だ。折角、出会えたことの奇跡、それは性をも超える、と気持ちが永遠に触れそうになった時、一気に下世話に戻されてしまった。何てことをしたのか。

音楽、途中からもしかしてと思ったら、やっぱりデスブラだった。木管を生かしたオケで、サスペンスで引っ張ったり、情緒に訴えたり、映画と距離を置く付け方ではなく、ピッタリと映画に即した劇伴。職人技。映画の展開を助け、補強し、格調を作る。これぞというメロディは残らないのだが。そういえばこの監督とは「英国王のスピーチ」でも組んでいた。劇伴らしい劇伴を必要な映画がみんなデスブラの所へ行くのが良く解る。

二人の役者が素晴らしい。脚本も良い。撮影も格調がある。もちろん演出も良い。けれど黒味のあの文字。最初に性別適合手術を受けた、これは事実に基づく、そういう歴史的事実を映画にしたかったのか。そんなことを超えた二人の出会ったことの奇跡を描きたかったのではなかったか。

最近、やたらと“事実に基づく”というやつが多い。それで少しでも映画の中身の信憑性を高めようとでも言うのか。映画はノンフィクションではない、フィクションだ。知恵を絞った虚構で観るものを納得させる。どうも納得させきれないという時、これは“事実に基づく”の手を借りて至らぬところを補おうとするとしたら、姑息である。

折角の良い映画、そこだけが残念である。

 

監督.トム・フーバー   音楽.アレキサンダー・デスブラ