映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.7.1 「葛城事件」 Tジョイ大泉

2016.7.1「葛城事件」Tジョイ大泉

 

理詰めの生硬な台詞、それを滑舌良く輪郭のはっきりした台詞回しの三浦友和が朗々とやる。押しつけがましく息苦しい。夫斯くあるべき、家族斯くあるべき、父親斯くあるべき、男斯くあるべき、ゆるぎない信念を持ち、ぶれることのないオヤジ (三浦友和)、こんなオヤジ、とっくに消滅したのではなかったか。僕ら団塊の世代はこういうオヤジと闘った。その結果、家庭でオヤジの占める位置は急速に狭まり、その分を母親が占拠した。僕はてっきりそう認識していた。

圧倒的オヤジの前に、母親 (南果歩) はただ盲従、長男 (新井浩文) は良い子でちゃんとした会社に就職、次男 (若葉竜也) はオヤジの意に沿うことが出来ず30過ぎて未だ無職、そんな次男を母親は溺愛。オヤジの前に敗れ去った、或いは戦うことを放棄した無残な家庭。

そして長男は会社をリストラされそれを言い出せないまま自殺、母親は精神を病む。次男は ”いつか一発逆転してやる” とお題目のようにつぶやき続け、遂に無差別殺人事件を引き起こし、望み通り死刑となる。次男だけが責任転嫁のようなささやかな反抗をした。

こんなオヤジは絶滅したはずだ。でもシーラカンスが生きていた様に稀に現存しその結果がこういう事件となったということなのだろうか。

一見ドキュメンタリー的かと思うもそうではない。しっかりと本も練ってあるし演出もしてある。監督は舞台の人らしい。これも元は舞台とか。

次男と田中麗奈が獄中結婚をする。田中は死刑廃止論者でその一環として結婚し場違いの青臭いメッセージを放つ。勿論死刑廃止がテーマなんかではなく田中の存在は次男を詳述する為の設定である。

今何故これを映画にする必要があるのか。どの位の人がこの映画に共感するのか。

この映画を観ながら ”あ~解る、オヤジもああだった” とか”俺もあん時あんな気分だった”とかと感じる人は居ると思う。しかしどこかで戦った、あるいはオヤジが病気になっちゃった、家を出た、好きな女が出来て知らない土地で新しい生活をスタートさせた…、みんな無差別殺人を犯す直前で回避しているのだ。

理解し得ない無差別殺人事件が起きてしまった。何とか腑に落ちる様な説明がほしい。実際の事件を調べて最も納得しやすい物語としてこれが出来た。これで少しは納得して下さいよ。犯人だって追い詰められた末のことなんですよ。ちゃんとそうなった理由はあるんですよ。そういうことか。

オヤジは子供の成長に合わせて植えたという柿 (ミカン?) の木にコードを掛けて死のうとするも枝が折れた。廃墟となった家庭の残骸の中でひとり生き続けている。死刑が執行されたことを報告しに田中が廃墟を訪れる。その田中にオヤジは襲い掛かる。これでオヤジに同情するものは完全に居なくなった。同情する余地もないモンスターオヤジの完成。オヤジ、強すぎる。

 

音楽、弦カル+Pf 、バロックというか古典派というか、そんな3拍子(全部ではない)の響き。この映画で一番現実から離れたものである。弦カルとは思えない厚い響き、きっと書く力はある人だ。オヤジがチャリで住宅街を抜けて葛城金物店まで通うシーンなどに付ける。ドラマからは距離を置いた音楽。でもそれをドラマに沿う様な付け方でも使っている。

もっと感情に則したところは弦の白玉にPfの単音が間をおいてエフェクトのように入る。良く有る手。この2種類の音楽で、ドラマに寄り添って付けている。ドラマを遠くから俯瞰するという付け方ではないのだ。唯一、金物店で店番するオヤジが子供が小さかった頃の家族4人の写真を眺める、そこにバロック (?) が流れた。ここは良かった。つまりオヤジの理想とした家族の形のテーマとする。これなら納得出来る。その代わり付けられるところはずっと減る。この音楽なら、その方が良かった。

 

母親と次男が家出してアパートを借り、新しい生活をスタートさせる。そこに長男が訪ねてくる。この映画で唯一暖色のシーン。たわいなく最後の晩餐で何を食べるかと3人で話す。そこへオヤジが現れて包丁をかざす。戦え! オヤジを殺せ! と内心叫んだ。オヤジを殺して3人で新たなスタートを切ればよい。映画とはそういうものだ。結局この意気地のない3人はまたしてもオヤジの前にひれ伏したのだ。

きっと現実はそうなのだ。抵抗出来ず、ニートになり、引き籠り、ネットに依存して、第三者を巻き込んでの無差別殺人という形で表面化する。それを映画として丹念に描く。だから何なんだ。

色んな映画があっていい。スカッとして後に何にも残らないも良し、ネチネチと頭にこびり付いて不快この上無いも良し。この映画まさに後者。僕は製作者の術中にまんまとハマってしまったということか。

音楽の細かいところ、一度だけでは解らないので、批判する以上もう一度見て確認を、と本来はそうすべきところ。この映画、もう一度観るのは勘弁してほしい。「凶悪」にも「冷たい熱帯魚」にもいつの間にか日常から非日常への飛躍があった。それが映画の高揚を作っていた。この映画、絶対に非日常に飛躍しない。意地でも日常から離れない。それは立派。ただ、それ故、2度観る気になれない。

 

監督.赤堀雅秋   音楽.窪田ミナ