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映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.9.27 「オーバーフェンス」 シネリーブル池袋

2016.9.27「オーバーフェンス」シネリーブル池袋

 

人生思い通りに行く奴なんていない。函館の職業訓練校の建築コース(大工コース)には思い通りにいかなかった連中が集まっている。みんな若くない。一人大学を中退して早くもそこに通う奴(満島真之介)もいるが。そこに通っていると失業保険が延長されるというのが本音。本気で大工になろうなんて奴はいない。みんなそれなりに何かを抱えている。今更、夢も無い。でも何十年ぶりかの学校だ。教官がいて時間割があって、もたもたすると怒られて、夏休みがあって、体育の時間があってソフトボール大会があって、この歳になって再び学校を経験するヘンなウキウキ感はある。授業が終わって、クラス仲間(?) と飲みに行って、“ナンパしましょうか、僕たち学生だけど”って。一度社会でイヤな思いをした者に突然訪れたモラトリアムな時間。

そんな連中の日常を淡々と描く。大した事件も起こらない。役者の醸し出す存在感で映画を成立させる。主役のオダギリジョ-の存在感が大きい。

別れた妻と子供に未練を残しつつ、元に戻れないことはちゃんと解っている。かつて自分は気が付かずに他人に何かを強いていた。ノイローゼになった妻が生まれたての子供を手に掛けようとしていた。そんな自らを全否定する様な経験を経て、何となく解って来た。流れに任せる、ただ受け入れる、積極的に人生に関わらない、そこから生じる優しさ、鷹揚さ、きっとこれが人に安心感を与える。教室では一番信頼されているようだ。

そんな男の前に鳥の羽ばたきを真似るキャバクラの女(蒼井優)が現れる。オダギリは関わるつもりはなかったが女の方が積極的だった。女は多分オダギリに一歩踏み出す希望を感じた。避けていたオダギリだが少しずつこの女を受け入れる気になっていく。この女に付き合ってみる気になっていく。最後は学校のソフトボール大会で、女の前でフェンス越えのホームランを打つ。ヒョロヒョロと上がったボールが、アレ?アレ?と本人もみんなも見守る中でフェンスを超える。カットアウト、久々にすっきりとした終わり方。ダラダラとした終わり方の映画が多すぎる。

オダギリの声や喋り方は、若さの自己主張が抜け、少し諦めはしているものの生きてはいこうとするこの主人公にピッタリの声だ。落ち着いて優しくソフトなあの声がなかったらこの主人公のリアリティはなかった。いい声いい喋り方だ。「FUJITA」の時もそうだったが、どこか絶望しつつ人に対して心を閉ざさない、そんな鷹揚さがある。絶叫とは真逆。この声で映画は成立した。

それにしても中年モラトリアムを映画にするのは難しい。どこかをデフォルメして映画的強調を作らなければ引っ張っていけない。山下敦弘は解った上でそれをしない。淡々としたドラマの微妙な変化で映画を引っ張っていく。これは中々大変なことだ。明解で解り易いが好まれるご時世、ターゲットは狭くなる。私もちょっとだけ退屈した。

飲み屋でヘラヘラ笑う若い女に向かって、“お前たち、今の内にそうやって笑っていろ、その内直ぐに笑えなくなるんだから”(不確か)と言って座をシラケさせる。

いっそのこと暗い映画にする方が簡単で一般性が出たかもしれない。絶望はしつつ明るくはないが暗くもない、難しい所を狙ったものだ。やっぱり山下は「天然コケッコー」や「リンダリンダリンダ」や「モラトリアムたまこ」の方が淡々さが生きていて好きだ。

中年モラトリアムの新たな第一歩ならぬ、なんとなく半歩踏み出す映画、さわやかにすると嘘になる。リアルにやると暗くなる。その間でちょっと嬉しくなるような映画、淡々でも退屈することなく引っ張っていける映画、これは難しい。でも山下はその一番近い所にいるのは確かだ。

音楽はAgがブルースっぽい弾き方で効果音の様に入る。音楽という流れでは入らない。それとかつての幽霊登場音楽のミュージカルソー。ヒューッと入るのでSynかと思ったらクレジットに、のこぎり楽器とあった。不安と曖昧さを現すのか、所々に入る。これが演出音楽として効果的だったかどうかは僕には解らない。監督の思い入れの範疇だ。

呉美保の作品をやっている音楽家だ。センスで勝負するタイプか。

蒼井優松田翔太北村有起哉満島真之介も役者は自然で良い。演じる度合が難しかったと思う。

 

監督 山下敦弘  音楽 田中拓人