映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.02.13 「キセキ あの日のソビト」 丸の内TOEI

2017.02.13 「キセキ あの日のソビト」丸の内TOEI

 

“命懸け”という言葉は死語になったのかもしれない。かつて若者は命を懸けて成りたい者に成ろうとした。演歌歌手を目指すものは命懸けで東北から上野へと上京した。シンガーソングライターを目指す者は親元を離れ命懸けで福岡から上京して四畳半で頑張った。そして成りたい者に成れた者、成れなかった者、明暗分かれつつ、やるだけやった、燃焼した、悔いはない、そんな姿を成功譚や青春の挫折の物語として映画は題材とした。必死だった、命を懸けた、それが人の心を打った。

この映画で言えば兄JIN (松坂桃李) の方、JINは“命懸け”の末裔だ。才能が有るかどうかなんて分からない。あると信じてやるっきゃない。兎に角音楽が好きだ。突っ走るしかないのだ。

才能の有る無しはイコール売れる売れないだ。売れなくても才能有りと評価されることが少し前まではあった。今は才能イコール売れる、言葉を挟む余地はない。

医者になってほしいという親の期待を裏切り、家を出てロックミュージシャンを目指すもメジャーデビューを果たせず。レコード会社のディレクター (野間口徹 いつでもどこでもイイ役でも悪い役でもしっかりと存在感をだしている) が言う。もうメタルなんか売れないよ。

弟HIDE (菅田将暉) は兄に代わって医者を目指す。途中医者は歯医者に軌道修正される。母の歯がガタガタという取って付けた様な理由付けがされる。浪人の末、歯科大学に合格。元々兄同様、音楽は好きだった。歯科大の仲間とバンド活動を始める。兄とは違いラップの楽しい曲だ。行き詰まっていた兄が弟のデモを聞いてそれをレコード会社に持ち込む。それが大ヒットしてしまう。それが顔出しを一切しないバンド、GReeeeNだ。

余裕でカマした方が売れて、命懸けた方は売れなかった。弟の方が才能があった。本当にそうだろうか。でも結果が全てだ。JINは元のバンド仲間に、人には役割ってものがあるんだよな、と自嘲気味に言って弟の裏方を引き受ける。この屈折は辛い。松坂桃李は良い役者になってきた。

売れたは良いがHIDEは学業との両立に悩む。一度はバンドを止めることも考える。JINは、自分が掴めなかったものを掴んだ弟がそれを捨てるなんて何事かと怒る。子供のお遊びじゃないんだ。でも歯医者を捨てて音楽で生きる、という選択肢はHIDEには無い。命は懸けてない。

父親 (小林薫) は今時居るのかと言う位の絶対的父権の人。JINは、弟が音楽をやることを許してやって下さい、と正座して頼む。医者は世の中に絶対に必要だ、音楽は医者ほど必要なものではない。解りました、心の医者になって見せます。時々父親が担当する重い心臓病の少女のエピソードが入る。この娘の応援歌となることはここで読めた。

この映画で“疾走するチンピラ”ではない、疾走しない菅田将暉の姿を初めて見た。こっちも充分イケる。女の子たちは、スダクン、カワイイ! と騒ぐだろう。

JINは、弟を見送ってバンザイと叫ぶ「シング・ストリート 未来へのうた」(拙ブログ2016.8.18) の兄貴とWる。HIDEはWらない。「シング・ストリート」の弟は命を懸けて荒れ狂う海峡をロンドン目指して旅立ったのだ。いつのまにか日本では“必死”は流行らなくなった。“退路を断つ”ところから今風の楽しいものは生まれないのかも知れない。

 

兄と弟の間には、音楽的音楽業界的に大きな隔たりがある。GReeeeN、がデビューしたのが2007年、プロツールス (音楽用PC) が一気に安くなり、誰もが手に入れられる様になった頃だ。その頃僕は、これ聞いてみてと知人から一枚のCDを渡された。全部宅録 (自宅録音のこと) とのこと。「相対性理論」というユニット、音楽的クオリティも高かったが、音のクオリティはプロ用の時間何万もするスタジオで何日も掛けて作ったものと何の遜色も無かった。この頃からCDは誰でも簡単に作れるものになった。プロと素人 (ソビト) の垣根が取っ払われた。もう一つ、ラップがJ-POPの中に自然に取り入れられるようになった。初期の頃、取って付けた様にインサートされたラップも、この頃になると違和感なく自然に組み込まれる様になった。

弟はこの流れの中に位置づけられる。音楽をやる、ということが命を懸けて退路を断って、ということから、何かでありつつ、という余裕で出来るようになったのだ。販売流通もインディーズメーカーが出来始めていた。メジャーデビューと気負わなくても、それと変わらないことがアマチュアレベルで可能になったのだ。GReeeeNユニバーサルミュージックというメジャーでのデビューである。けれど背景にはこれらのことがある。

レコード会社が介在しないということは、そこに売るための意向が入らないということだ。未熟かも知れないが稚拙かも知れないが、素人 (ソビト) の思いはそのままストレートに届く。売れなかったらそれまで。もう一つの何者かに戻れば良い。

これが良いのか悪いのかは解らない。ただ技術的にも社会のシステム的にも可能になったということだ。

兄は旧体制の最後のアーティスト、命懸けの末裔。しかもメタルだ。明るく楽しいという曲ではない。音楽性も、録音機材も、音作りも、考え方も、兄弟の間には大きな隔絶がある。強引に括ってしまえば、アナログとデジタルということだ。JINはアナログ命懸け、HIDEはデジタル素人 (ソビト) の良さ。時代はHIDEに味方した。

 

だからこそ最初の方、JINのバンドのライブシーン、綺麗な音ではなくライブの音にしてほしかった。松坂の低い声がしっかりと聴こえてしまう。ライブであんな低い声は聴こえない。きちんと聴こえなくても良いのだ。ライブのモアモアの中で叫びとして聴こえれば良いのだ。一方、サイドギターの絶叫が画にはあるも、音になっていない。ここは歌としてきちんと整えるよりもライブ感の音作りで行ってほしかった。松坂の声や歌唱力でこうせざるを得なかったという事情も透けて見えるのだが。

弟達のクローゼット・スタジオでの歌入れ、その4分割はアイデアである。

 

心臓病の少女がGReeeeNの歌を聴いていたことを期に父親もHIDEの音楽活動を認める。今GReeeeNのメンバーは歯医者をしながら音楽活動をしている。

 

話が深い訳ではない。何よりも松坂と菅田のカッコ良さと音楽のカッコ良さである。それはしっかりと担保している。言わずもがなの台詞はカットして話のテンポも良い。GReeeeNの歌は映画に上手く充てられているし、Pfを主体の劇伴は最小限にしか付けず、これも正しい。兼重監督、手堅く纏めた。

忽那汐里が「マイバックページ」以来の輝き。

どうでも良いことだが、初めの方、友人と横断歩道を渡りながら、結局ビートルズがみんなやってしまっている、今はフォークを聴いている、というHIDEの会話が出てくる。その後CD屋に入り、「海援隊」(間違いではないと思う) のCDを買う。何故「海援隊」なのか。音楽寄りの者としては気になってしまう。

 

監督.兼重淳   音楽.GReeeeN       音楽プロデューサー.JIN        劇伴.大野宏明