映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2018.07.02 「万引き家族」 Tジョイ大泉

2018.07.02「万引き家族」Tジョイ大泉

 

この監督の手に掛ると何で子供たちはこんなに生き生きとするのだろう。お兄ちゃんは見事に演技をしているし、妹は演技を越えて役その物として存在している。書かれた台詞を言っているのではない。恐らく設定を与えてその中で自由にやらせ、それを拾っていく、ドキュメンタリーの手法なのだろう。それにしてもあまりに自然でリアル、言葉もない。

血の繋がりというのは人間が作り出したフィクションの最後の砦だ。これが崩壊したら人間は拠り所がなくなる。だからみんなで必死に血の繋がりを守ろうとする。是枝監督は“家族”というものをずっと追い続けている。「そして父になる」(拙ブログ2013.10.11)では血に依らない家族に言及した。この映画はそれに連なる。

 

前夫(と言ってもとっくに死んでいるおじいさん)の実家に金をせびり乍ら、この寄せ集め家族の精神的支柱となるお婆ちゃん(樹木希林)、お婆ちゃんの年金を充てにして転がり込んでいる治(リリー・フランキー)と信代(安藤サクラ)夫婦、二人が拾ってきた翔太(城桧吏)、お婆ちゃんが引き取った、実の親と上手くいかない血の繋がらない義理の孫(こんな言い方はあるか?)の亜紀(松岡茉優)。映画は治と翔太が真冬のアパートのベランダで一人遊びをしていたゆり(佐々木みゆ)を拾ってしまうところから始まる。大人はみんな日雇いや臨時雇いや風俗などで必死に働く。子供は治の指導の下、万引きで家計を助ける。昔ながらの木造のボロ屋で血の繋がらない寄せ集め家族は、食うや食わずながら楽しく暮らす。

おそらく終戦直後の東京のバラックにはこんな寄せ集め家族が一杯いたはずだ。家族を失くした復員兵、空襲で焼き出された人、戦争孤児、パンパン。僕は上野のガードの浮浪児を実際に見たギリギリの世代である。母親から、近くに寄ってはいけないよと言われた。徒党を組む奴も居ただろう。チンピラになった奴もいた。バラックだろうと公衆便所だろうと、雨露しのげて中心になる人が居た時、この映画の様に助け合って疑似家族を作った人は沢山いたはずだ。助け合わないと生きていけなかった。

それが少しずつ整理され、孤児は施設へ、大人は定職を持って、実の親と子による家族というものに整理されていった。怪しげな繋がりは淘汰され、血の繋がり至上主義で小奇麗に構築されていった。核家族、マイホーム主義、経済成長に連動して小奇麗な戦後社会が出来上がった。そんな社会の最先端に「そして父になる」の家族がある。是枝はここに鋭い匕首を突き付けた。血は水よりも濃いとは限らない。

これも経済に連動しているのだろうか。小奇麗な血の繋がり家族にほころびが見え始めている。ほころびは弱い所に現れる。経済の繁栄から取り残された人たちが、戦後のバラックよろしく血を越えて肩寄せ合って助け合う、小奇麗な側から見たら胡散くさい、そんな家族がこの映画の万引き家族なのだ。ここは法律の埒外、お婆ちゃんの年金以外国からの保護保障はない。整理される前のぬくもりだけはある。

 

ゆりはこの家族に馴染んだ。翔太から万引きの手解きも受けた。何かで役に立たないと居ずらいだろう、翔太はそう考えた。信代と風呂に入った時、二人とも同じような所に同じような火傷があった。ゆりは信代のその傷を愛おしそうに撫ぜた。この家族はみんな過去に哀しい思いを背負っている。だから肩寄せ合って生きて行く。

 

おばあちゃんが死ぬ。年金が無くなると生きていけないので治と信代が死体を必死になって床下に埋める。

“妹にはさせるなよ”という雑貨屋のオヤジ(柄本明)の言葉に翔太が躓く。思春期に差し掛かった翔太は自我と社会性を意識し出したのだ。この家族が未来永劫続くとは誰も思っていない。取り敢えず日々を助け合いながら楽しく生きて来た。万引き家族の家族としての役割の終焉が近づく。

万引きに疑問を持った翔太がワザとヘマをやり、それがきっかけで世間がこの家族を裁きズタズタに切り裂く。

刑務所の窓越しに信代が治に言う。“いいじゃない、この十年、お金には代えられない思いが出来たんだから”(不確か)。涙とはこういう時に流すもの。信代が翔太に、いつどこで拾ったか、実の親捜しの手掛かりになることを教える。

ゆりは実の親の元に帰る。失踪していた子が発見されたとマスコミが騒ぐ。実の親のゆりへの虐待が再び始まる。

 

音楽、細野晴臣、僕はちょっと不満である。高レベルの不満かも知れない。この映画は音楽無しで充分に成立している。物語と感情の流れは映像と音が完璧に表現している。それを補強したり増幅する様な音楽は無しで良い。

そして父になる」では送電線や鉄塔の大ロングに、ピアノの単音がボロンボロンと付いていた、まるで宇宙からの交信の様に。あの音楽が映画の背後に宇宙を拡げた。小さな家族の話は悠久の宇宙の中に位置づけられた。恐らく監督がピアノの脇で細かく指示し何度も何度も繰り返してあのフレーズを作ったのだろう。音楽も出来る限り監督自身のコントロール下に置いた。(あくまで推測)

今回、細野と監督との間にはどんなやり取りがあったのだろう。物語に則した音楽は必要ない映画音楽の依頼である。ピアノソロなら前回同様監督との共同作業も可能である。細野は打ち込みで作っている。だから楽器的にも前回の様にはいかない。

まずは映像を見るしかない。そこから聴こえてくる音楽を細心の注意を払って聞き取るしかない。

血を超えた絆、胡散臭さの中のピュア、人間として時間空間を共有した喜び、陳腐な言葉になってしまうが、それを音楽的表現として一貫させる… 難しいことだ。それを思うと物語に則した映画音楽なんて随分容易いと思えてしまう。

 

冒頭、治と翔太の万引きシーンでピアノとパーカッションとベースの効いたジャジーな曲が流れる。このテイストで行くのか。少しするとピアノの高音のトレモロで短いフレーズ、さらに少しするとアコースティックギターのソロが入る。どれもポロンポロンと二節くらい。短くて音楽というより効果音的だ。信代の働くクリーニング工場(?)のバックにはBGMの様にベースの効いた曲が這っていた。邪魔にはなっていない。映画の流れには合っている。けれどこれらは本当に必要だったか。音楽が無いと不安になって無理して付けてしまうことがある。ベテランがそんなことはないと思うが、映像から本当にあの音楽は聴こえたのか。

縁側を俯瞰で捉えた花火のシーン、花火は見えず音だけ。それを見上げる治、信代、ゆり、神様が優しく見守ってくれている、そんな視点の映像だ。花火の音を聴かせたかったのかも知れない。次のシーンは家族での海水浴。家族としての求心力が最も高まる一連。僕は当たり前かも知れないが、ここは音楽だと思った。花火の音が途中でFOして音楽にすり替わり、そのまま海水浴シーンに流れ込んだって良い。ここに音楽は無かった。

ラスト、治が一つ布団の中で“お父さんからオヤジに戻るよ”(不確か)と言った翌朝、翔太をバス停に見送る。バスに乗った翔太、外を走る治、振り向かない翔太、別れと旅立ち。予告編にも使われているカット。ここにも音楽がなかった。泣かせる音楽なんかではない。もっと遠くから見つめる音楽。次のシーンは冒頭と同じように冬のベランダで一人遊びをするゆり、そしてエンドロール。ここは音楽ではなかったか。バスからベランダに少しこぼして、一人遊びを素で見せた後、ローリングタイトル音楽。あるいはバス内からベランダ一杯を通して音楽を付け、一間あってからローリング音楽。

縁側とラスト、この二か所はどうしても音楽が聴こえる。あるいはここも音楽を付けないとしたら、他の短い音楽も全部無しにしてエンドロールの音楽だけにする。その方が良かったのでは? 

勝手なことを言って、ゴメンナサイ。本当にゴメンナサイ。

 

この映画は要二度見である。

捕まった後、取り調べ官(高良健吾池脇千鶴)に常識と世間を背負った質問をされる。いつもはどちらかと言えば調べられる側の二人があまりに常識面をするので(それだけしっかりと演技をしているということ)ちょっと引いて集中力が落ちた。二度見して、この取り調べのやり取りに家族の面々の説明がなされているのが解った。

治と信代夫婦は信代の前夫を殺している。多分DV、裁判では正当防衛と認められた。日暮里あたりで飲み屋をやっていた、多分。信代は子供が産めない。取手のパチンコ屋の駐車場から男の子を盗んだ。翔太と名付けだ。治の本名だ。治と婆ちゃんに血の繋がりがあるかどうかは解らない。足立区あたりの猫の額ほどの木造バラックに住む婆ちゃんの所へ転がり込む。治と信代夫婦は婆ちゃんの年金を充てにしている。婆ちゃんは通帳を治に預けている。

婆ちゃんは夫と別れる時、この家を貰ったのだろう。別れた夫は再婚して息子も生まれ、山の手に立派な家を建て、随分前に他界した。息子(緒方直人)には娘が二人、山の手に馴染めなかったのが亜紀、婆ちゃんが“おいで”と引き取った。だから血の繋がりはない。お金をせびりに行き、息子が上の娘はオーストラリアへ留学中と言った時、高校生の頃の写真がインサートされ、それが松岡茉優だった。二度見で解った。

お婆ちゃんは時々信代や亜紀に、鼻筋が通っていていいね(不確か)という。樹木希林のアドレリブかと思っていた。これは血が繋がらないということへのお婆ちゃんのコンプレックスだったのだ。

治はアッチがダメだったようだ。夕立の日、ソウメンを食べながら信代が発情して治に襲い掛かる。ヤレた。事の後、嬉しそうにタバコを吸って余韻に浸る治、そこにビショビショに濡れた翔太とゆりが帰って来る。慌てて取り繕う治と信代。翔太は親のそれを見て初めて目覚めた。昔はザラにあったこと。

翔太は信代をお母さんと呼べなかった。呼ぼうかというと信代がテレた。取り調べ官が“何と呼ばれていたの?”(不確か)と聞く。正面フィックスの長回しワンカット、安藤が髪を書き上げ、顔を覆い、中々表情を見せない。表情が見えた時、そこには涙が滲んでいた。涙がこぼれたのではない、滲んでいたのだ。凄いワンカット、安藤サクラはこんなに凄い女優なったのだ。

安藤サクラは肉まで役に成り切っていた。

 

松岡茉優はコメディもやれる、シリアスもやれる、貴重な女優だ。松岡のお客の“4番さん”を演じた池松壮亮は数カットながら存在感を残す。役者が是枝作品に出たがる訳が解る。

 

樹木希林は増々神懸って来ている。台詞なのかアドリブなのか、虚実皮膜。こんな芸当やれる人、嘗ての森繁久彌くらいしか思いつかない。

 

リリー・フランキー、この人が居なかったら近年のかなりの邦画の名作は存在しなかっただろう。それ位どの作品でも存在感を示している。どの作品でも風貌は相変わらずあのマンマ、だのにしっかりと役に染まり切る。良い声良い滑舌、その底には限りない優しさが秘められている。だから「凶悪」(拙ブログ2013.10.22)の先生は怖いのかも…

 

僕は一度見の後、何故か「禁じられた遊び」を思い出した。ギターのソロがあったからかも知れない。群衆の中に取り残された少女が叫ぶ。ゆりはひとり冬のベランダで遊ぶ。叫んだりしない。この荒涼感は「禁じられた遊び」の比ではない。

どうしようもなく目黒の“ごめんなさい、ごめんなさい”に繋がってしまう。

現実が映画の続きをやってしまった。

 

監督.是枝裕和    音楽.細野晴臣