映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2018.10.01「 モリのいる場所」 シネリーブル池袋

2018.10.01「 モリのいる場所」 シネリーブル池袋

 

大分時間が経ってしまったが、良い映画だったのでメモと記憶を絞り出して記す。記憶違いあるやも。

 

30年間自宅とその庭から一歩も出なかった伝説の画家・熊谷守一をモデルにした沖田修一監督の作品。モリには山崎努、その妻には樹木希林、この二人には文句のつけようもない。山崎の存在感は神懸って超俗、樹木希林は日々の生活にしっかりと根ざした存在感、両極の存在感がバランス良く共存する。

モリは、今日は池を回ってドコドコに寄ってくる、と出かける。広大な庭を持つ屋敷なのかも知れない。鎌倉あたりか。予備知識無しに観たのでそう思った。見ている内に少しづつそれがそうではないことが解って来る。何か小じんまりとしている。這いつくばって蟻んこを見つめ、水溜りの様な池を覗き込む。書を頼みに来る人がいて、近所の人が顔を出し、カメラマンがその姿を撮り続ける。少しづつモリが高名な画家であり書家であり、30年間、家とその庭から一歩も出ていない人であることが解って来る。それでもそこが都会のど真ん中であることは最後まで解らなかった。建設反対の声があったにも関わらず、隣にマンションが建ち、最後にその屋上からモリの家と庭を俯瞰する画で初めて種明かしのように、ここが都会の真ん中 (池袋の近く) で、屋敷と庭も含めてせいぜい7~80坪であることが解る。そこが、見続けても尽きることのない、モリの大宇宙だった。

モリの軸足は人間社会にはない。人間の作為の猿知恵を超えて、汲めど尽きない大自然の中にある。都会のど真ん中にポッカリと空いたエアポケット、そこに吸い寄せられるように次から次に人が集まる。ご近所や御用聞き、画商やら写真家やら謎の男やら。懐かしき昭和の香りが漂う。その中心にモリがいる。

人間社会の汲々とした中で生きる人にとって、そんな空間があることだけでも救いだ。さしたる事件が起きるわけでもない。樹木希林が「寺内貫太郎一家」の時の様な格好で超俗と世間を行ったり来たりする。

天皇が美術展でモリの絵を見て、これは何歳の子が書いたのかと聞いたという。文化勲章は煩わしいからと断ったという。実話らしいそれらのエピソードが挟み込まれる。

 

知人から熊谷守一のことを少し聞いた。若い頃の絵をチラッと見た。暗く死の匂いに満ちていた。戦争、貧困、子供の死、地獄を見ている人だ。でも映画は画家・熊谷守一を描くというより、都会のど真ん中に超俗のエアポケットを作った人、という方に重点を置く。地獄を見ていることにはほとんど触れてない (僕が見落としたか ? ) 。映画としてはそれでとっても良くまとまっている。「モリのいる場所」を描くことで充分インパクトのある楽しい映画になっている。そこに沖田修一らしいちょっとした作為が加わる。みんなが集まってドリフターズの話をした時のオチは天井から落ちてくる金タライ。元ネタを知る世代としては懐かしかったがダメな人にはダメかも知れない。

 

モリが庭で植物を見つめる。カメラがどんどん進んで行き、植物の組織に入り、細胞に入り、DNAまで入っていく。小さな庭が宇宙であることを端的に解らせてくれる良いカットだ。

樹木希林は生まれ変ったら人間はイヤだという。モリはもう一度人間がイイという。見続けたいのだ。人間として生まれた事の奇跡を満喫したいのだ。もっともっと知りたい。だから一角のあれはオニなのか天使なのか死神なのか、この誘いをモリは断る。生きられる限り生きたいのだ。生そのものに還元されたモリに人間社会の雑念は入りようもない。世間との接点は妻が引き受ける。

でも若い頃の死に満ちた絵をチラ見した者としては、初めからこうではなかったこと、地獄を見ていること、をさり気なく匂わせてほしかったなんて、ちょっと思う。そんなシーンや台詞があって僕が見落としているのかもしれないが。

 

音楽、Pfを中心に、マリンバ、ヴァイオリン、アコーディオン、打ち込みSyn等の小編成。ガタゴトとSEの様な音も入る。テーマは同じ音が3つ並ぶ極めてシンプルなもの、それを繰り返す。どの楽器もみんな単純なリズムを作る。

メロディ感があるのはオニ? たちが列を作ってモリのところへやってくるところ、口笛がメロを取って鐘が鳴りマカロニウェスタンの様、この遊び心は面白かった。打ち込みをベースにして限りなく単純にした、あたかもモリの絵のような、でも細かいアイデアのたくさん詰まった劇伴である。

 

監督.沖田修一   音楽.牛尾憲輔