2019.3.02「THE GUILTY ギルティ」ヒューマントラスト渋谷
2019.3.02「THE GUILTY ギルティ」ヒューマントラスト渋谷
耳にインカムを付けた緊急通報室オペレーター・アスガー (ヤコブ・セ―ダ―グレン) のみを映し続けるカメラ。舞台も緊急通報室のみ。しかも焦点はアスガーだけに絞られている。
一本の通報が入る。女は名前も場所も言わない。息づかいの様子から、ただならぬ様子を察知する。誘拐かも知れない。傍の、人の気配は犯人か。気付かれないようにこちらの質問にイエスかノーだけで答えよ。車の色は、赤? 青? 白? イエス、セダン? ノー、ワゴン? イエス。大よその位置は掛けて来た携帯電話で自動的に解るようだ。別の回線でパトカーを手配する。
普通はここで画面は誘拐された女に切り替わる。通報室のアスガーと疾走する車中の女が交互に映し出され、サスペンスはイヤが上にも盛り上がる。通報室の静と走る車のなかの動。
ところがこの映画は普通じゃなかった。画面はひたすらアスガーをUPで映し、女の様子は電話の音声でしかわからない。アスガーと我々は全く同じ状態だ。女の背後に聴こえるノイズで状況を推測するしかない。こんな映画ってあるのか。嫌でも聴覚は集中する。その内こちらの想像力が働きだす。ヒントとなる音を聴き逃してはならない。真剣勝負だ、疲れる。
カメラを止めるな! ではない。電話を切るな! でも時々電話がバサッと切れる。犯人が電話に気付いたか。このカットアウトは怖い。
少しずつ状況が解り、女の自宅を突き止め、そこに残されていた子供と話す。犯人は女の夫らしい。おぼろげながら全体像が見えてくる。それはアスガーの想像であり我々の想像でもある。画面は相変わらずアスガーの表情と、状況に合わせてパトカーの指令室に連絡するアスガーの電話交換手の様な動きだけ。もう我々の緊張と想像力はパンパンである。広い画や動きのある画なんて一つも無い。通報室のみを映すだけでこれだけのことが出来るのだ。映像ではなく、音が語る映画ってあり得るのだ。
アスガーと我々の想像は後半見事に裏切られる。我々の想像力は先入観の範囲でしかなかった。映画は先入観を越えて鮮やか、脚本の勝利である。
僕はネタバレを全く気にせずこのブログを書いている。しかしこの作品に限り、これ以上の詳述は控える。まだ公開して間もない。おそらく「カメ止め」ほどではないにしても公開館数は拡がるだろう。この展開と結末は劇場で直接体験してほしい。
ポップコーン食べながら一時現実を忘れることが出来るのも映画、社会の歪みを映し出してそれを考え怒るのも映画、色んな映画があって良い。しかしリラックスする為に映画を見る人には勧めない。ポップコーンを音立てて食べる人は入場を拒否すべきである。途中入場もNGだ。ガサガサした足音が集中する聴力の邪魔になった。
ここまで、台詞というよりも音というものを中心に据えた映画を他にみたことがない。音にこんな可能性があることを知ったのは目からウロコである。
ツブ立ちの車の音とか銃声とか、そういうあざといものではない。バックノイズ、息づかい、人間の動きが発する些細な音が、こんなに映画の中心になるとは。
音楽はエンドロールだけである。教会のオルガンの様な音、それがゆったりと長い音符を奏でる。宗教がかっている。そういえば最後のアスガーの後姿のシルエットはちょっと神性を感じなくも無かった。この辺を詳述するとネタバレになるので止める。
前半で女の声の背後に薄っすらと音楽が聴こえていたような気もするが不確か。
意識しなかったが映画の時間と現実の時間は同じだっただろうか。
監督. グスタフ・モーラー 音楽. オスカー・スクライバーン
脚本. グスタフ・モーラー、エミール・ナイガード・アルベルトセン