映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2019.7.17「旅のおわり世界のはじまり」テアトル新宿

2019.7.17「旅のおわり世界のはじまり」テアトル新宿

 

随分、壮大且つ大仰意味深なタイトルである。しかも監督は黒沢清、きっと人間存在の核に触れるような物語に違いない。

初めにウズベキスタンという僕らにとっては未知なる国がある。そこに前田敦子という女優を放り込んだらどんな化学反応を起こすか。その為の設定が作られる。

 

葉子 (前田敦子) は日本のバラエティー番組のレポーター、“私の居場所はここではないのでは?” 感一杯の自分探しに取りつかれた日本の女性。そんな女性にとってウズベキスタンという未知の国は打って付けだ。サマルカンドタシケントも彼女にとっては自分探しの迷宮、ラヴィリンスとなる。

冒頭、ロケバスに遅れた葉子が民泊宿から飛び出す。一斉に向けられる好機の目。ロケ地は琵琶湖の五倍はある水溜り。ここにいるらしい巨大な魚がロケ隊の目当てだ。渡された防水服、“これ穴空いてました” AD (柄本時生) がすかさず “修理しておきました” “準備出来たら本番!” の声、それを聞いて葉子、溜息一つ。これだけでこのTVクルーの状況が手に取るように解る。

クルーは、早く撮り終えて帰国したい風のディレクター(染谷将太)、寡黙なカメラマン(加瀬亮)、 従順で気遣いのAD、そしてレポーターの葉子。昔で言えば日テレの矢追番組やテレ朝の川口探検隊のようなもの、雪男発見!というやつである。(最近のその手のTVを見てないので、例えが古くてごめんなさい) 三人に特段の意欲は無い。葉子も本番のカメラが回る時だけは取って付けたような笑顔になる。アッちゃん、これ見事!

 

葉子はグルグル回る拷問の様な二人乗り観覧車に何回も乗る。火の通っていない現地の食べ物も美味しそうに食べる。“出来る? ”“ ハイ出来ます”、どんな無理も聞き入れる。でも食事もオフ時間もスタッフとは別行動、最小限の接触しかしない。空き時間はひたすら街をテクテクと彷徨う。すし詰めのバスに乗り、バザールを突き抜けて、怪しい男たちがたむろする地下通路を壁際に張り付きながら小走りで通過する。坂を駆け下り、クラクションのなる道路を横切る。どこでも好奇の目が向けられる。好奇の目をそのまま演出に転用して、カメラは手持ち、隠し撮り、望遠で、彷徨う「不思議のウズベキスタンのアッちゃん」を追う。アッちゃんに自由にやらせているのかも知れない。ほとんどドキュメンタリーだ。

ようやくホテルにたどり着くと携帯に飛びついて日本の彼氏にメールする。カーテンを揺らして怪しげな迷宮の風が吹く。

 

巨大な魚はみつからない。これじゃ番組が成立しないとディレクター。葉子が提案し、町外れで見つけた檻の中の山羊オクを草原に帰してやる絵を撮ったりする。

 

めずらしく朝食でカメラマンと同席する。アッちゃんは本当は歌手になりたいこと、帰国したらミュージカルのオーディションを受けて、そこで「愛の賛歌」を唄うことを話す。カメラマンは、自分も本当はドキュメンタリーを撮りたかったこと、でも今の仕事も君のドキュメンタリーを撮っているようで面白いと言う。レポーターの仕事も歌手に通じるんじゃない? “違います、レポーターは反射神経でやれるけど歌は心がないと唄えません”

 

彷徨う葉子はオペラハウスのようなところに迷い込む。劇場前の噴水の音がオフになり葉子は建物に吸い込まれていく。そこはナヴォイ劇場、戦後ソ連に抑留された日本人が壁画を描いたといういくつかの小部屋。そこを通過する主観移動の絵も編集も迷宮に迷い込むホラーのよう。その先ではオーケストラに合わせてオペラ歌手らしき女性が歌っていた。葉子はその歌手と同化し入れ替わり、いつのまにかそこで「愛の賛歌」を唄いだす。

 

自分で回してみたらとカメラマンに言われ、小型カメラを持って葉子が気の向くままに歩き出す。それをカメラが追う。いつのまにかはぐれて、軍事基地のようなところに迷い込む。そこは撮影禁止区域だ。警官が近づいてくる。葉子は逃げる。警官が追う。捕まった葉子に警察署長が、逃げたから追ったんだ、コミュニケーションを取らないと何にも始まらない、と言う。

その時警察のTVに東京湾大火災の映像が映し出される。葉子の彼氏は海上消防士なのだ。携帯が繋がらない。親切な警官はWi-Fiが繋がる部屋に案内してくれる。夜中ホテルで携帯が鳴り、彼氏が無事と分かった。私って何て幸運なんだろうとつぶやく。

翌朝、東京湾火災報道の応援でディレクターとADは一時帰国、カメラマンと葉子は残って撮影を続けることになった。葉子は少し積極的になっている。魚は相変わらず見つからない。山奥に別の巨大な生き物がいるという。二人はシルクロードの山々に囲まれた高地へ赴く。葉子はそこで自由にしてあげた山羊のオクを見る。そして「愛の賛歌」を大オーケストラの伴奏に合わせて唄いだす。そこで終わる。

 

話を詳述した。何故かというと僕には、どこが旅の終わりでどこが世界の始まりなのか解らなかったからである。レポーターとして頑張る葉子、自分探しで彷徨う葉子は、とっても等身大で自然。でもどこで「愛の賛歌」を唄える心になったのか?

拷問観覧車に乗っかって脳味噌がおかしくなったからか (冗談です)

自分を投影した山羊を自由にしてあげたから? そして山奥でその自由な姿を見たから? (僕はこのエピソード、あまりに薄っぺら取って付けたみたいで、驚いた)

食堂のおばさんが撮影のあと、ちゃんと焼き上げた料理を持たせてくれた、ウズベキスタンの人の優しさに触れたから?

少しだけ心を開いたカメラマンに、君のドキュメンタリーを撮っているようで面白いといわれたから? 歌手になりたい、歌は心がないと唄えないと気持ちを吐露したから?

警察署長が、コミュニケーションを取ろうとしないと何にも始まらないと言ったから? (こんなことを台詞で言うことに僕は鼻白んだけれど)

彼氏が無事で、自分は何て幸運なんだろう、と感じたから?

おそらくこれらの全てと、ウズベキスタン大自然と人々、これらがどこにあるかもしれない本当の自分を探すという旅が徒労であること、現状を見つめ受け入れ周りの人との関係を作っていくことで新しい世界が始まる、ということを教えてくれた? だからいつも着ていたオレンジのパーカーを脱ぎ捨て脱皮して、「愛の賛歌」を唄った? なるほど。

 

こんなことを文字で書くのは無粋なことだ。映画は映像と音を使ってこれらを丸ごと納得させてくれる、話も意味も良く解らないけど納得した、ストンと落ちた! というのが映画だ。僕にはストンと落ちなかった。突然 「愛の賛歌」 が唄いだされた時の違和感! これで大団円?

トウキョウソナタ」(拙ブログ2008.10.24) の家族それぞれが彷徨った末に迎えた朝は決定的な何かがあったわけではないが昨日とは違う新しい朝と納得出来た。

例えばジュリー・アンドリュースが圧倒的歌唱力という力技で強引に説き伏せてしまうのでも良い。まぼろしの巨大魚が突然飛び上がったでも良い。唐突な飛躍は映画の醍醐味だ。「町田君の世界」 (拙ブログ2019.6.25) のように風船にぶら下がって舞い上がったって良いのだ、納得さえ出来れば。

 

それまでのエピソードの積み重ねにそれだけの説得力がなかった。

そして何で「愛の賛歌」なのか? という選曲の問題。

「愛の賛歌」は壮大な愛を歌い上げるが、けっして人類愛とか博愛ではない究極のLOVEソング、そんなことはどうでもいい。この歌、ピアフであり、越路吹雪であり、大竹しのぶであり、いずれも声量あり、歌唱力あり、説得力あり、の人たちだ。(そういえばブレンダ・リーも歌っていたなぁ) アッちゃんの歌はアイドルの歌い方である。これは上手い下手の前にこの曲に向いていないのだ。いくら頑張ってもあの唄い方では、大自然の山々をバックにしての空間は埋まらない。オケと対等にはならない。あるいは大オーケストラの中でか細いアッちゃんの声、世界の中で一人という感じは監督の狙いだったのかも知れない。そうだとしたらそれは頭で考えたもの、音は音で考えなければ。

唐突感を和らげる為のナヴォイ劇場での前フリはある。それでも唐突感は変わらない。

もうひとつ技術的なこと。「愛の賛歌」でいくのなら、せめて唄いだしはアカペラで入って、少ししてオケがスーっと入ってくる、と考えなかったのか。初めから壮大なオケの前奏が入る。唄い出す前に、一体何が起こったのだ? である。突然別世界に飛躍する訳だから小手先を労する必要はないと考えたか。確かにそれも考え方ではあるが。

シルクロードの山々に囲まれ、積極的に生きようと歩き出した葉子の表情、カメラがしっかりとそれを捉え、そこに音楽が入り、それは「愛の賛歌」の前奏となってエンドロールの黒味から歌になるでも良い。すくなくとも今よりは納得出来るのでは。

今の形、僕には違和感しかなかった。

 

設定はとっても上手かった。四人の役者+通訳(アディズ・ラジャボフ)の人も自然で本当に良い。言外にそれまでの人生か語らずとも見える。撮影も色々と工夫している。構成はカットバックが一つもないシンプル一直線、これも良い。ただエピソードがあまりにありきたり薄っぺら。僕には旅が終わったことも、「愛の賛歌」によって新しい世界がはじまったことも、ストンとは落ちなかった。ちょっと気分が変わったので唄えるようになっちゃった、である。

初めから「愛の賛歌」は想定されていた。ウズベキスタンに始まり「愛の賛歌」に終わる。その間に前田敦子を置いて繋げる。残念ながら繋がらなかった。僕には久保田早紀の「異邦人」が聴こえて来た。

 

音楽・林祐介、「散歩する侵略者」(拙ブログ2017.09.11) では面白い曲を書いていた。今回の劇伴は葉子の心の動きのところ、例えば山羊のエピソードとかホテルにひとりになるところとか数箇所にトロンボーン(?)のアンサンブルでゆったりとした短い曲を付けている。付けている場所は良いしそれ以上音楽を付ける映画ではない。街ノイズが彷徨う葉子の背後に音楽の様に付けられているのは効果的だ。

音楽は「愛の賛歌」につきる。大編成の編曲自体はとっても良い。けれど映画音楽としての違和感は前述の如し。歌とオケは音質的にも混ざっていない。オケは後かぶせか。オケと歌との微妙なズレに苦労の痕が見て取れる。エンドロールは「愛の賛歌」のVLソロ・バージョン。安心して聴けた。

 

散歩する侵略者」、上手いタイトルだったなぁ。あれは「旅のはじまり世界のおわり」だった。こちらは「旅のおわり? 世界のはじまり? 」、立派なタイトルも時に考えものである。

 

監督. 黒沢清  音楽. 林祐介