映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2020.7.02「コリーニ事件」新宿武蔵野館

2020. 7.02 「コリーニ事件」新宿武蔵野館

 

未読だが多分膨大な原作(フェルディナント・フォン・シーラッハ)なのだろう。それをよく纏めた脚本である。要点を残し、削りに削り、テンポ良い編集で、重いテーマを踏まえた良質なエンタメ映画に仕上げている。ここまで削らずTVのミニシリーズにしたら良かったかも知れない。

全編、サスペンスと謎解きでグイグイ引っ張る、寝る暇は無い。

途中からナチが絡むことは想像がついた。ドイツいやヨーロッパは辿っていくと全てそこに行き着く。ただ、この映画にユダヤ人は出てこない。これは珍しい。それだけ普遍性は高くなる。

 

冒頭、高級ホテルの廊下を突き進む老人、カメラはそれを背後から追う。一人リングでボクシングの練習をする若い男のシーンが乱暴にカットイン。何やら思わせぶりな導入。老人は最上階に居る巨大企業の老経営者ハンス・マイヤーを殺害する。旧式のワルサーP38を使った犯行。老人はコリーニ(フランコ・ネロ)、逃げることなくその場で逮捕、そして完全黙秘。

国選弁護人として新米の弁護士ガスパー・ライネン(エリアス・ムバレク)が登場する。冒頭、ボクシングをしていた若者だ。ここでようやく役者が揃う。

 

殺されたマイヤーはライネンの大恩人であり、彼のお陰で弁護士になれた。その恩人を殺害した犯人の弁護を引き受けてしまったことは後で解った。私情を挟まずにやれるものか。

ライネンはトルコ系ドイツ人。戦後のドイツがトルコ移民を労働力として発展したことは「おじいちゃんの里帰り」(2011) を見れば解る。「おじいちゃん~」は上手くドイツに溶け込み成功した家族の話、でも必ずしもそうばかりではなかったはず、差別もあっただろう。主人公がけっしてエリートではないこの設定がドラマを一つ深くしている。

 

コリーニの岩のように達観した完全黙秘、それを回りから少しづつ切り崩していく謎解きのプロセス。まずは凶器のワルサーP38、そこから遂に戦争中にイタリアで起きた村人の見せしめ虐殺を突き止めるに至る展開は息をも尽かせない(ちょっと目まぐるし過ぎる感もあるが)。

 

見せしめに虐殺された村人の一人がコリーニの父だった。それを指示したのは親衛隊長、若き日のマイヤーだった。子供だったコリーニは親衛隊長に抱きかかえられ無理矢理虐殺される父を見せられた。止めはワルサーP38だった。

 

戦後、ナチ残党の一部は善良な市民としてドイツ経済の復興を支え、アデナウアーの時代には戦争中の行為は不問のまま社会の要職に付く者も多く、篤志家として人々から尊敬さえされる者もいた。マイヤーもその一人、彼は孫の友達だったライネンを可愛がり、弁護士への道を歩ませた。

 

マイヤーの孫が突然の交通事故で若くして亡くなったことを、映画は特に説明をしていない。これには何か意味があるのだろうか。孫に注ぐ愛情をライネンにむけたということ以上の意味は?

その姉ヨハナ・マイヤーとライネンは一時恋人同志だった。

 

国選弁護士を降りようか迷った時、引き受けるべきと勧めたのは大学の恩師リヒャルト・マッティンガ―教授(ハイナー・ラウタ―バッハ)、彼はマイヤーの会社の顧問弁護士でもあり、法廷でライネンの追及に鉄のように立ちはだかる。

膨らませようと思えば膨らませられる仕掛けがいくらでもある。いや逆か。それらの膨大なエピソードを削りに削り、この脚本に仕上げた訳だ。ちょっと勿体無い気がする。

 

戦争という異常時の犯行を平常時の判断で裁いて良いのだろうか。あるいは、異常時の犯行ゆえ酌量され今は善良なる市民として生きる者をどこまで許して良いのだろうか。戦争犯罪を裁く裁判は東京裁判でもニュールンべルグ裁判でも戦後社会の復興とその利害を念頭に、極めて政治的だ。善悪での判断ではない。日本でもA級戦犯が、岸信介をはじめとして多く戦後社会の中枢を担った。一方で「私は貝になりたい」(1958 テレビ黎明期の名作ドラマ、脚本.橋本忍。1959 橋本自ら監督して映画にもなっている) に見られるように、命令に従っただけであるにもかかわらず罪を問われ処刑されたBC級戦犯が多数いる。裁判は“法の名の下に平等である”というが、法が時々の政治の都合で変えられる例は昨今の日本の出来事を見ても良く解る。人間は都合が良いのだ。都合が良いようにコロコロ変わり、その理由付けとして“法”が都合良く使われる。

 

この映画はナチズム自体への批判には向かわない。戦時の犯罪を不問にすること、その理由付けとしての“法”というものにフォーカスする。

 

イタリア・モンテカティー二、1944.6.19(コリーニがワルサーP38で殺される父を見た日)、ライネンがこの日付を言った時、それまで勧めても触れさえしなかったコリーニが差し出された煙草を旨そうに吸う。この若造、良く突き止めてくれた、けれど法律じゃ時効でダメだったんだよ(コリーニは姉と共にかつて訴訟を起こしたが突っ返されている)、でも突き止めてくれただけでもありがう… きっとそう思った、僕の勝手な想像。

フランコ・ネロが圧巻である。良い年の取り方をした役者の存在感、なんて凄いんだろう。

 

ハンバーガーショップで出会うイタリア語を勉強中の今風ぶっ飛び女、長らく音信不通だった速読の名手で今は本屋を営むライネンの父親、どれも都合が良いといえばそれまでだが、そんな小技がこの映画をエンタメ一級品とすべく生きている。原作も良いのだろうがシナリオも良いのだ。

コリーニは判決を待たずに自殺する。そののちナチ犯罪の時効の条文が撤回された。

 

松本清張山崎豊子の原作をかつては橋本忍山田信夫がシナリオ化して野村芳太郎山本薩夫が監督した骨太な社会派娯楽映画、邦画に例えればその系列に属する作品。しかし語り口は今風、たたみ掛ける演出、早い展開、謎解きももったいぶらない。昨今のハリウッド・サスペンス物の作り方、それが成功している。

 

音楽は当然、ハンスジマー・スタイル。Synパッドがベタに付いていて、その上に映像に合わせてメロディーが載る。メロディーというよりも3連音符の反復のリズム音型、けれどサスペンスと謎解きを煽って効果的。映像に合わせ上に載る楽器をCOしてSynパッドだけになったり、合わせ方は細かい。メロディーが残る劇伴ではないが、上手くいっている。

 

一つ気になったこと、マイヤーの子供の存在の欠落。一気に孫である。コリーニに相当する子供世代がいるはずだ。この映画で子供世代に該当するのはコリーニとマッティンガー教授。何故マイヤーの子供が出てこないのか。終戦で価値観が逆転した世代。マイヤ―の子供は親を徹底的に批判し離反したか、それとも親に従い戦後社会に合わせて上手く変貌して会社の重役にでもなっているか。

マッティンガー教授が夜一人でライネンを訪ねて来るシーンがある。あれは暗に、長い物には巻かれろ と言いに来たのか。若き日のマッティンガー教授はナチ犯罪の時効の条文成立に加担している。悪い者は悪いと言うのは孫の世代まで待たねばならなかったということか。しかもトルコ系というアウトサイダーの手で…

 

何ヶ月ぶりかで映画を劇場で見た。武蔵野館だったので大して大きなスクリーンではなかったが、それでも映像が映し出され、低い音がズンッと鳴った時はドキドキした。映画は劇場で見るものである。

 

監督.マルコ・クロイツパイントナー  音楽.ベン・ルーカス・ボイセン