映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.9.12 「太陽のめざめ」 シネスイッチ銀座

2016.9.12「太陽のめざめ」シネスイッチ銀座

 

16歳のどうしようもない悪ガキ・マロニー(ロッド・バラド)。6歳の時、母親に捨てられた経験を持つ。その時担当した判事がカトリーヌ・ドヌーヴ。10年を経て今ドヌーヴと再会する。母親は相変わらず荒んだ生活をしているがマロニーとは一緒に暮らし肉親としての絆はある。弟もいる。

判事は何とか更生させようとする。刑務所行きを少年更生施設扱いにしたりして。それでもマロニーは結局ダメで、挙句は泣きながら母親に電話したりしている。人のせいにばっかりする。もっと酷い現実はいくらでもあるだろうに。こんな甘えた白人の悪ガキ描くより移民の悲惨はゴロゴロしているだろうに。

かつてはワルだった指導教官やら最後まで見捨てない判事やら、純情な彼女が出来て妊娠させて子供が出来て、それで更生するやら、俺には仲間が居るなんて最後に呟くやら、どう見てもこの映画、ズレてる。

ドヌーヴはさすがの貫禄演技、時に奈良岡朋子を彷彿させるような表情をする。悪ガキも新人にしては健闘だ。しかしこの映画、フランス不良少年更生事業はこんなにも本人に寄り添い忍耐強くきめ細やかにやってますよ、というアピール映画にしか見えない。エスタブリッシュと化したオールドリベラルがさも私たちはリアルな現実を解っていますよと頭の中だけで作り出した映画。そんな風にしか見えない。

ネットを見たらカンヌ映画祭のオープニング!ドヌーヴへの気遣い? それとも政治的何かでもあるのか? ブーイングは起きなかったのか。ドヌーヴだから起きないか。

 

音楽は多分みんな既成曲。カーラジオだったり現実音としての扱いがほとんど。クラシックだったりラップだったり。劇伴にあたるものは無い (と思う)。ラスト、子供を抱えてマロニーが警察の廊下を歩くシーン、ソプラノのクラシックっぽい曲が取って付けた様に流れて感動を無理矢理作る。そのままエンドロール、その曲が終わるとアニメ声の女声のラップ。ラップ流せば今風、というレベルの低い音楽センス。

 

原題 La Te”re haute  仏語解らず。直訳すると ”高い頭” らしい。多分判事のことを指して、「志の高い人」「高貴な人」くらいの意味なのだろう。それがなんで「太陽のめざめ」なんだ。

「太陽」という言葉は僕ら団塊にとっては、「太陽がいっぱい」だったり「太陽はひとりぼっち」だったり「太陽は知っている」だったり「太陽のかけら」だったり「太陽は傷だらけ」だったり、邦画では「太陽の季節」だったり「太陽の墓場」だったり、青春,反抗、欲望、のイメージだ。「太陽を盗んだ男」(これは原子力)とか「沈まぬ太陽」とか「下町の太陽」とか、これは”希望”の象徴、なんてのもあったが。

フランス映画で ”太陽” とくれば、つい ”青春、反抗、欲望” をイメージする。その思い込みを利用したか。

洋画の邦題は、直訳,意訳、オリジナル邦題、と色々あって自由だ。かつては「勝手にしやがれ」という名邦題があった。映画の持つ雰囲気をグワッと鷲掴みにして日本語として吐き出す、詩心があった。

内容と関係なくたって良い。騙される方が悪い。宣伝マンとしてはしてやったりだ。「太陽のめざめ」、この邦題、見事な詐欺心。

亡くなった筑紫哲也が洋画の邦題の賞をやっていた。この邦題を付けたおかげでヒットした、という賞。映画を愛し言葉に拘る、良い賞だった。ご存命だったらこの邦題を何と言っただろう。

 

監督.エマニュエル・ベルコ   音楽家クレジット、チェックし切れず 

2016.9.05  「アスファルト」  シネリーブル池袋

2016.9.05 「アスファルト」 シネリーブル池袋

 

フランスの郊外の吹き溜まりの様なアスファルトの団地。我々的にはコンクリートと総称してしまう方が通じるか。故障したエレベーターを修理すべきかどうかの住民集会から始まる。

車椅子の初老の男、夜中に病院に忍び込み自動販売機を蹴飛ばして出て来たスナック菓子をむさぼる。そこの喫煙場所で出会った訳あり風中年女の夜勤看護士との純愛。母がほとんど不在の高校生と、隣に引っ越してきた30年前には映画に主演したらしいプライドだけが残る女優。突然宇宙から降って来たNASAの宇宙飛行士とそれを息子の様に迎えるアラブ系のお婆ちゃん。3つのエピソードが並行して進み、どれにもちょっと希望の光が差し掛けた、というところで終わる。フランス下層階級の吹き溜まりの中のささやかなハートウォーミングな小噺。

ほとんど団地内、時々映る外は人影もないアスファルトの光景。そして重く淀んだ空。カラー映画なのに灰色のモノクロ映画の様だ。

ドアの開け閉めの音、蹴飛ばす音、エレベーターのガチャンという音、金属性の音がコンクリートに響いて痛い。この音がシーンを繋いで行く。時々、ヒューという風の様な、金属の淵を擦るような、子供の悲鳴の様な、音が聞こえる。団地に住むみんなに聴こえるのか、この映画の登場人物だけに聴こえるのか。アスファルトが発する虎落笛。掃き溜めが発する悲鳴。

フランスの団地は荒涼としている。ここからアサシンが生まれた。マシュー・カソヴィッツだ。郊外の貧民と移民の現実。でもこの監督は何とかそれをユーモアで乗り越えようとしている。触れ合う心はアスファルトの壁に勝てるのか。でも明日は今日より少しだけ明るくなっている、そんな映画だ。

日本の団地とフランスの団地では随分意味するところが違う様だ。かつて我々団塊の世代にとって団地は文化的生活の象徴だった。団地から新しい文化が生まれるのではと思っていた。「みなさん、さようなら」(2012中村義洋)は、夢の団地を守ろうとする少年 (濱田岳)の成長記であり、団地が時代の役割を終える物語だった。「海よりもまだ深く」の是枝裕和監督にとって団地は心のふるさとだ。「団地」(阪本順治)は見逃した。

今、日本の団地も老人や低所得者の場になりつつある。その内アジア系移民も増えるかもしれない。フランスの団地に近づいていくのだろうか。

やっぱりアスファルトの虎落笛はイヤなものだ。地の底からの声がアスファルトを通じて初めて音という波動になって助けを求めているようだ。

 

音楽はほんの数カ所。Pfソロで3拍子のエチュードのようなシンプルな曲。ローリングではバックにSyn弦が鳴っていた。音の主役はアスファルトに響く効果音。音楽はそれを立てるように控えめで正しい。

少年 (ジュール・ベンシェトリ、監督の息子、ジャン・ルイ・トランティニアンの孫だそうな) が美しい。イザベル・ユぺールが落ちぶれた女優を好演。宇宙飛行士のマイケル・ピットもアラブ系のお婆ちゃんも良い。足の悪い男も看護士も。良い役者揃い。

 

監督.サミュエル・ベンシェトリ          音楽.ラファエル

2016.8.30 「後妻業の女」 新宿ピカデリー

2016.8.30「後妻業の女」新宿ピカデリー

 

「後妻業の女」このタイトルが内容をすべて語ってしまっている。どんな映画だろう? と推測する余地がない。そこに大竹しのぶと来た。もう観る前から想像がつく。面白いに決まっている。

高齢で資産があり持病が有ればなお結構、津川雅彦の酸素マスクを外す画にそんな豊川悦司のナレーションが被った予告編。観る前にこれ程的確に内容が伝わり、”面白いに決まっている感” 漂うのは、シリーズ物を除いて最近では珍しいのではないか。だから期待と予想を超えなければならない。少しでも下回れば、ナ~ンだ、である。これは大変なプレッシャーだ。

結果は、良くやった!  脚本は手際よく纏まっており、くせ者役者をチョイ役にまで配して更にデフォルメ、出演者全員濃いキャラ (長谷川京子ミムラは違うか) の小悪党大競演、”面白いに決まっている” をクリアして大人向けエンタテイメントが出来上がった。

口が立ってジジイをそそる色気があって悪を全く悪と感じない根っからの悪女・小夜子、これを大竹しのぶがこれでもかとばかりにやる。あまりに憎たらしくて、ついに可愛い。その女を操りつつその悪党ぶりに一目も二目も置く柏木 (豊川悦司)。この二人のキャスティングでこの映画の成功は決まった。

善人面した永瀬正敏の私立探偵 (最近永瀬復活の兆し)、笑福亭鶴瓶スカイツリーを持つ竿師、小夜子の犠牲者・伊武雅刀森本レオ、鍵師の泉谷しげる、獣医の柄本明、小夜子と取っ組み合いをする尾野真千子水川あさみはこの作品でイメージチェンジを図った。そして津川雅彦、今やスケベ老人をやったら右に出る者はいない。安藤サクラが出た映画「0.5ミリ」(2014 監督.安藤桃子) でも見事なスケベ老人をやっていた。後妻業同業者・余貴美子のエピソードが一つあっても良かった。面食いでカスばっか掴む、小夜子と対照的なキャラとして。「えっ、1万円?」だけじゃ勿体無い。 

この映画、出てくる人間、みんな金に憑りつかれている、時間の無くなった老人だけが金から自由である。津川の遺言状にはこんな内容が記されていた。娘たちに家だけは残す。人生の最後、小夜子はイイ思いをさせてくれた。小夜子は面白い女だ。津川は全て承知の上だったのだ。

伊丹十三だったら、森田芳光だったら、なんてつい考えた。でもその内それも忘れた。TVでの実績を掲げ「愛の流刑地」「源氏物語 千年の謎」を撮るも残念な結果となっていた鶴橋監督、ようやく映画らしい映画を撮った。

このネタ、描きようによっては「復讐するは我にあり」(1979今村昌平) とか「凶悪」(2013白石和彌) の女版になる。何せ遺産目当てで公正証書を書かせた後は殺してしまっているのだ。殺さないで金だけ取ってりゃ比丘尼様だった

編集もテンポ良い。さりとて今時の、話が追えなくなるような目まぐるしさではない。そして音楽がとっても効果的だった。少しSynは入るものの、ほとんどギターのバンド音楽。ロックではない。ボトルネックだったりのブルースやジャズだ。これが要所要所に入り、コテコテで泥臭くなるところに洗練をもたらしている。ピッキングが画面にスピード感を与えている。こんな音楽よく思いついた。 

所々に既成曲、この選曲も的を得ている。この手の話、どうしても何でこの女がこうなってしまったのかという内面に触れたくなる。それをやるとジメついてくる。さりとて全く触れないのも不満が残る。それをこの映画、小夜子に「黄昏のビギン」をアカペラで唄わせてサラリとかわした。小夜子が内省的になる唯一のシーン。このアイデア、選曲、大竹の歌、どれも秀逸。

何か所かに「Do you wanna dance」(Bette Midler) が流れる。何でもない所にこんな外国曲使ってなんて余計な気を回していたら、小夜子が死ぬ (実は死んでないのだが) シーンでも流れた、柏木と息子を前にして。このシーン、「Do you wanna dance」によって何と怪しげでエロティックになったことか。息子は騒ぐ、柏木は直ぐに後始末を考える、観てる我々は小夜子がこんなに簡単に死んじゃっていいのかと半信半疑、それを小馬鹿にする様に超然と流れるのだ。こんな既成曲の掛け算効果を最近見たことが無い。狙ったのか偶然か。黒澤の言うコントラプンクトだ。

死体を詰め込んだスーツケースから髪がはみ出ている。それをハサミでカットする。何とオシャレ! その後のシーン、スーツケースから平然と生還した小夜子の、髪のカット跡がもっとハッキリ分かれば良かった。一瞬寄ったら説明的過ぎるか。さらに歩き出した小夜子のうしろ姿にもう一度、「Do you wanna dance」を被せたら…

この映画で劇伴も既成曲も含め、音楽が果たしている役割は大きい。

音楽・羽岡佳。「リアル」(2013 黒沢清) でトイピアノを使った人だ。あのアイデアも良かった。今回のギターサウンド、そして既成曲を見事に演出音楽として生かした作曲家を始めとする音楽スタッフへ拍手である。

 

中高年で当たっているよう。続編の匂いがする。続編は殺された男たちが小夜子にまとわりついてあの世とこの世を超えたホラーコメディーだ。

 

監督.鶴橋康夫  音楽.羽岡佳  

2016.7.22 「二重生活」 新宿ピカデリー

2016.7.22「二重生活」新宿ピカデリー

 

哲学科の大学院生 (門脇麦) が卒論のテーマに”尾行”を取り上げる。指導の教授(リリー・フランキー)のサゼスチョンによるものだ。尾行の相手は近所に住む出版社のやり手編集者 (長谷川博己)、美しい妻と可愛い娘と立派な家がありパーフェクト。

尾行する内に別の女の存在が解る。その女から、”奥さんから頼まれたんでしょ?”と疑られ、長谷川にもバレる。長谷川に、哲学科の卒論で云々、心が埋まらない云々、尾行してこの卒論を書けばもしかして埋まるのでは云々、と話す。陳腐だと一蹴される。

教授は余命幾ばくもない母を妻と見舞う。母は妻 (西田尚美) を見て安心し、程無く亡くなる。妻は母を安心させる為に派遣会社に依頼した売れない劇団の女優だった。全てが済んで卒論を採点した後、教授は自殺する。

一旦は浮気がバレた長谷川だが元の鞘に収まって何事もなかったように朝の見送りの風景が繰り広げられている。それを思わずみつめてしまう女、それに気ずいてか見返す長谷川の目。確か終わり方はこんなだったか。記憶不確か。

ところで、だから何なのだ。この映画、見る者に何を伝えたかったのか。女の埋まらない心って何なんだ。尾行して論文書いてそれは埋まったのか。あの教授は何なんだ。

音楽、岩代太郎、Pfの短いフレーズをボロンボロンと画面に合わせて入れる。多分予算的な事も含め、それしかやりようが無かったのだ。少しSynの木管が入る。

この映画を作った意図が解らない。

 

監督.岸善幸  音楽.岩代太郎

2016.8.18 「シング・ストリート 未来へのうた」 シネリーブル池袋

2016.8.18「シング・ストリート 未来へのうた」シネリーブル池袋

 

1985年、ダブリン。不況の風は吹き荒れている。50キロ程隔てたイギリス、ロンドンはその頃、世界のポピュラー音楽の中心だった。

高校生コナー(フェルディア・ウォルシュ)、頬っぺたは赤く少年の匂いを漂わす。オカマっぽくて冴えない。年上の大人の女の匂いを漂わすラフィーナ(ルーシー・ボーイント)、ロンドンに渡ってモデルになることが夢である。二人は出会う。思わずコナーは僕のバンドのMV(ミュージックビデオ)に出ない? と誘う。ただ気を引きたい為、モテたい為。MVはおろかバンドもない。バンドメンバーを集める。どちらかと言うと学校ではあまり目立たない、隅っこに居る連中に声を掛ける。コナー、音楽好きの引き籠り気味の兄の影響で受け売りの知識だけはある。どんな音楽やるの? 未来派

次々に加わっていくメンバー、これがみんな上手い。ちょっと都合が良いがその辺は大目に見ましょう。バンドは結成され、彼女をメインに手製のMVも出来る。ドタバタの手作り感がまぶしい。

デュラン・デュラン、ザ・キュア、ダリル・ホール、デヴィッド・ボウイ、海の向こうから流れる音楽に影響され、ファッションやメイクがその都度変わっていく。校内での存在感は増していく。

兄に言われてオリジナルを作り出す。このオリジナルがまた良いのだ。日々の生活の中での彼女への思い、それをストレートに歌にする。言葉とアイデアが浮かぶとPf担当の所へ行って、曲を作ろう! と二人で始める。こういうフレーズでは? ここはPfを入れよう。ここからはコーラスで。きっとジョンとポールもこうやって曲を作ったに違いない。二人の曲作りとバンドアレンジ、これがちょっと良すぎる。とてもバンド始めましたのレベルではない。そこは映画の嘘、音楽的リアルを追っても仕方ない。

ラフィーナジェネシスが好きだという年上男とロンドンへ旅立つも直ぐに挫折して帰ってくる。この辺から形勢逆転、二人の関係はコナーが主導権を握り始める。コナーはバンドを始めたことによって自信を付けて来た。自立してきた。

高校のダンスパーティー、イメージは「バックトゥザフューチャー」のマイケル・J・フォックスが段々消えかかっていくあのパーティー。そこで “ブラウン シュー” (校則違反の茶色い靴)を唄う。青春は単純でストレートで底が浅い。だからこそ他に見向きもしない直球のエネルギーが出る。ここまでの所、ご都合主義のお決まりの展開と侮ることなかれ。

パーティーが終わった夜明け、二人は兄を叩き起こす。これからロンドンへ行く。兄さん、うちの舟を出して! エンジン付きの小さな舟、目の前をロンドンへ向かう大きな定期船が横切る。その脇を、対岸ウェールズに向かって走り出す。バッグにはデモテープとMV。ウェールズの向こうはロンドンだ。嵐のアイリッシュ海を二人は突き進む。これが青春だ。これが映画だ。無謀な旅立ちをしそこなったジジイの目頭が熱くなる。

岸で見送る兄貴がバンザイを叫ぶ。「祭りの準備」(1975 監督.黒木和男、音楽.松村禎三、音楽良かった) の原田芳雄だ。あのバンザイ! だ。

ラストでこの映画、忘れ得ぬ一本になった。

劇伴にあたるものは多分無い。挿入歌のイントロや間奏を上手く充てて劇伴代わりにしている。それにしても歌はどれもカッコイイ。

 

監督.ジョン・カーニー      歌曲.ゲイリー・クラーク、ジョン・カーニー

音楽監修.ベッキーベンサム  主題歌.アダム・レビーン(マルーン5)

2016.8.24  トゥーツ・シールマンス逝く

2016.8.24 トゥーツ・シールマンス逝く

 

1985年「夜叉」( 監督.降旗康男、主演.高倉健 )の時、初めて映画音楽を外国人アーティストに依頼した。それがトゥーツだった。監督やプロデューサーと相談して、今度の映画はジャズっぽい音楽でやってみようということになった。健さん(なんて親し気に書くが、挨拶したことはあるが話したことはないし、僕の名前なんてもちろん知らない) もジャズは好きとのことだった。

トゥーツ・シールマンスはジャズハーモニカの世界的プレーヤー。マイルスともセッションしているし、映画では「真夜中のカウボーイ」のテーマ演奏 (主題歌「うわさの男」ではないインストのテーマ) や、ビリー・ジョエルのヒット曲 (失念!) のイントロや、クインシー・ジョーンズの映画の仕事にも数多く参加している。我々ビートルズ世代としてはジョン・レノンが尊敬していたと言うことで知られる。

話すように囁くように吹く。ハーモニカを通して優しく、自由自在に語りかけてくる。どんなメロも彼が吹くと彼の曲になってしまう。何とも言えない情感が漂う。健さん映画には合う。

外タレ(当時外国人アーティストをそんな風に呼んでいた)を使ってのトラブルをかなり聞いていたし、間に入る人物には怪しげな人も居る。名前だけで結局劇伴は日本人の作曲家がやったなんて話も聞いていた。

まだクランクイン前、時間はある。人を介さず直接コンタクト出来る人が良い。たまたま新聞の催物欄で「ジャック・ルーシェ・トリオwith トゥーツ・シールマンス」( J・ルーシェだったか自信がない) を見つけた。まもなく来日する。

サントラをリリースしてもらうことになっていたコロムビアのインターフェース・レーベル (日本発のJAZZを目指すレーベルだった) の英語の堪能なスタッフと品川プリンス (確か)を訪ねた。暖炉とパイプが似合う様な品のいいおじいさん、トゥーツはその時すでにおじいさんっぽかった。マネージャーも居ず一人で対応してくれた。手元にあった資料を全部持って、でもシナリオの英訳までは作ってなかった。僕が内容を言い、コロムビアスタッフが英語で通訳した。そこでどこまで伝わったかは解らない。これから撮影に入り、仕上げをし、音楽録りは大体この辺というようなラフなスケジュールも話した。彼はその頃ブラジル音楽にハマっていて、ブラジル、NY、ベルギーの3カ所を行ったり来たりしていた。その頃はブラジルにいる。ブラジルでの録音だと良いのだが。僕の頭の電卓が即座に動いて、こりゃダメだ!

函館だったか、国内ツァー中のトゥーツからカセットが届いた。”DRAGON” と書いてあった。メンバーに手伝ってもらってデモを録音したよ。

トゥーツは ”夜叉” がとうしても解らなかったようだ。”Most sad and most angry girl”なんて僕が言ったからかも知れない。刺青のコンテを持って行ったせいもある。彼の中では Syuji (健さんの役名)の刺青はDragon、Syuji=Dragon になってしまったようだ。

カセットを聴いた。合う、が、ちょっとウェットでマイナー過ぎないか。監督に聞かせると、合わないのばかりなのに合いすぎるなんて贅沢だよ、と言われた。

トゥーツは「真夜中のカウボーイ」にしても「ゲッタウェイ」にしてもプレーヤーとしての参加で劇伴のオーケストレーションはやっていない。曲も書くし演奏もするが、ここからここまで何分何秒という劇伴は書いていないのだ。選曲という方法もあるが、それは端から考えてなかった。トゥーツのメロを使った映画音楽の骨組みは佐藤允彦氏にお願いした。これまでにトゥーツとの仕事もしており事はすんなり運んだ。スケジュールもブラジルに行かないで何とかなった。

半年後、トゥーツはたった一人、スーツケースとギターを抱えて来日してくれた。それからの5日間は、昼前にキャピトル東急 (ビートルズが泊まった、今は無いか? ) へ迎えに行き、眼と鼻の赤坂コロムビアのスタジオで録音。骨組みは佐藤氏がしっかり作ってくれていたので、そこにトゥーツが加わってのセッションである。ハーモニカはこんなにも可能性のある楽器なんだ! と驚きの毎日だった。夕方になると彼はヘロヘロになり、ソファーにグニャリと潰れるように横たわった。そうするとその日の録音は終了した。

録音が全て終わり、最後の日にお疲れ様の宴を催した。トゥーツは菜食主義 (それ程うるさくはない) でお酒も飲まない。が宴席を盛り上げてくれた。マイルスにいじめられたなんて話、こんな伝説を僕如きが直接聴いて良いのかと思った。コロムビアのスタッフも佐藤允彦さんもみんな英語が解る。コロムビアの一番若いWと私だけがダメ。始めの内は通訳してくれていたものの、話が興に乗りお酒も回って、気が付くと僕とWは取り残されていた。絶対に英語を話せるようになる! とその時 (だけ )思った。

その後何年かしてバッタリWに会った。”俺、英語話せるようになりましたよ” レコード会社は変わっていたが、しっかりと活躍していた。

トゥーツの音楽は監督も健さんも気に入ってくれた。撮影所の年配のスタッフからは、”なんで日本海の漁村にジャズが流れるんだよ!” と言われた。完成した映画には、わざわざ田中裕子(ヒロイン、漁村の飲み屋の女将) が客に ”これトゥーツシールマンスなんよ” なんて言う台詞まであった。

コロムビアは試験的にCDも発売した。でもメインはまだアナログLPだった。

 

2011年、「あなたへ」の製作が発表された。音楽は林祐介さん。まだ映画の経験は少なかったが、良いスコアを書いた。

僕の中では、どこか「夜叉」と「あなたへ」の健さんがつながっていた。ちょっとでも良いからトゥーツに参加してもらえないか。1曲録音の為だけでベルギーへ行っても良い、予算が許せば。許す訳がない。またしても偶然、トゥーツが東京ブルーノートに出演するとのこと。この偶然には驚いた。直ぐにブルーノートから連絡してもらうも拉致あかず。25年以上前の話、覚えてないか。スケジュールは初日がすみだトリフォニー、2日間オフで、その後ブルーノートで3日間。ブルーノートスタッフからは、トリフォニーへ来て直接交渉して下さいということだった。

2011年10月8日、かつて「夜叉」でお世話になったこと、またお願い事があること等、英文に纏めて (勿論人に頼んだ)、それと「夜叉」のLPを持ってトリフォニーに向かった。

コンサートは満杯で素晴らしかった。でもそんなことを言っている場合ではない。終演後が勝負。休憩時間に浅岡君 (ペンネーム 賀来タクト) とバッタリ、彼は英語が出来る。事情を話す。演奏が終わるとサイン会で長蛇の列、コンタクトする余地無し。終わって楽屋へ引き上げた。ここだ。浅岡君と突撃する。トゥーツ89歳、疲れ切っていて私が差し出したLPにサインをして返してきた。ダメだ、僕はただのファンだ。マネージャーらしき人に趣旨を話し、英文を渡して引き上げた。浅岡君が居なかったら呆然と佇むだけだった。

翌日、ブルーノートのスタッフから連絡、明日13時から2時間だけなら空けられる。それからはスタジオ押さえて、林祐介さんにも連絡。この件、僕の思い入れの単独行動、けれど監督にだけは連絡を入れた。曲は宮沢賢治の「星めぐりの歌」、これはドラマの中で重要な役割を担う歌。インしたばかり、音楽の具体的打ち合わせなどやってない、思いつくものとしてはこれしかなかった。これをアカペラで拭いてもらう。映画の中に使えないようならそれも仕方がない。

2011年10月10日、体育の日、築地オンキョースタジオ、トゥーツ・シールマンス一行6名。「星めぐりの歌」のメロをほとんど口伝えで教え、吹くといつの間にかトゥーツの曲になっていた。2時間は3時間となり、次の約束ギリギリまでやってくれた。トゥーツのドキュメンタリーを作っているとかでベルギーの放送局スタッフが数名、VTRを回し続けていた。この模様はキネ旬のコラムに賀来タクト氏が詳しくレポートしてくれた。

ブルーノートの最後の日、差し入れを持って挨拶に行った。楽屋で「DRAGON」はどういうメロだった? と聞かれ鼻歌で唄った。あっ、分かった、思い出した、今夜はそれをやろう。

“次の曲は25年前にKEN TAKAKURA主演の映画の為に書いた曲、SYUJI=DRAGON!”

感激だった。

トゥーツ版「星めぐりの歌」は“天空の城 竹田城”で健さんが佇むシーンに使われ、万感迫る良いシーンとなった。

後日、撮影所へ行くと健さんが「あなたへ」の宣伝取材を受けていた。きっと誰かが僕を音楽Pだと言ってくれたのだろう。廊下へ出てくるなり、

トゥーツ・シールマンス、良かったよ、ブルーノートへ来たんだって、今度来た時は必ず連絡頂戴よ、家直ぐそばだから”

健さんから言葉を貰った最初で最後だった。翌年ブルーノートがまたトゥーツを呼ぶ予定だった。それを知っていた僕はどうやって案内したらいいんだろうなんて夢想した。

翌年のツァーは無しになった。海外ツァーはあれが最後となったようだ。

 

僕が住む保谷(西東京市)の駅の北口の住宅街にHoya Banka というアナログLPが何千枚もあるジャズ喫茶がある。そこのマスターが“ここに”Dragon“がありますよ”とCDを持ってきてくれた。

toots thielemans european quartet 90 yrs.」Ⓟ2012 CHALLENGE RECORDS Made in AUSTLIA

あの曲、ステージでも演奏してくれていたんだ。メロを忘れていた位だからてっきり映画の為だけと思っていた。紛れもなく「夜叉」のテーマだった。思わぬところで連絡の途絶えていた古い親友と再会したような気分だった。

 

2016年8月22日、台風の中、渋谷でドキュメンタリー「健さん」( 監督.日比遊一、音楽.岩代太郎 )を観た。トゥーツのハーモニカの様な音色が所々に聴こえた。ローリングに、ハーモニカ・八木のぶお、とあった。八木さんは面識はないが、トゥーツが好きらしいことは人づてに聞いている。成程である。

その夜、浅岡君からトゥーツ死去のメールが入った。健さんも逝きトゥーツも逝った。僕は英語も喋れないまま、「夜叉」当時のトゥーツの歳をとうに越えてしまった。

 

トゥーツ・シールマンス ( 1922.4.29-2016.8.22 )

2016.7.25 「シン・ゴジラ」 TOHOシネマズ新宿

2016.7.25「シン・ゴジラ」TOHOシネマズ新宿

 

シン・ゴジラ」を巡って賛否両論が喧しい。僕はそのどれを見ても頷いてしまう。その通りだ! その通りだ! どれも一面での真実を言い当てている。こんな見方があったんだ、こんな誤解をされるんだ、賛も否も誤解も勘違いも含めて、それらの総体が「シン・ゴジラ」なのである。ここでこの映画について今更とやかく言っても始まらない。久々に洗い落としたはずだったビジネス的な見方をしてみる。

この映画、どう見たって子供向きではない。女性向きでもない。ましてやデートムービーでもない。とってもポリティカルな映画、好きなのはオジサンだ。今の映画興行状況の中でオジサンはもっとも映画を観に来ない。結果としてそこを対象にした内容となってしまった。中規模、アート系ならいざ知らず、夏の超大作としてこれは苦しい。

しかしこれは初めから解っていたこと、脚本を読めば解る。その前に脚本・総監督として庵野秀明を迎えた時点で解っていた。諸々覚悟で庵野を起用したのだ。

庵野秀明、謂わずと知れた「エヴァンゲリオン」の作者、絶大な支持者を持つカリスマである。僕は「エヴァ」を全く知らないからそのカリスマ性は解らない。しかし庵野というだけで観る観客は相当いるとのこと。このメリットでデメリットを埋められるのか。

 

“シン”というタイトルには驚いた。色んな案が出た末に決めきれずにこうなったのかと思った。従来のこのシリーズからすると考えられないタイトルである。新であり神であり真でり、原罪としてのシンなのだろう。原罪というより、日本が背負う “業" と言った方が適切かも知れない。このタイトルからもターゲットを子供にしていないことが解る。

そして宣伝コピーである。「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)」、ゴジラ映画の本質を真正面から直球で表現した、これは文芸評論本のタイトルか。ここまでの徹底さに恐れ入ってしまった。

 

人間は物語を必要とする存在である。不可解なもの、得体の知れないもの、どうしようもないもの、に形を与え擬人化する。形のないものが形を得ると話が動き出す。これが物語だ。そうして物語に納得する。不可解なものと折り合いを付ける。「ゴジラ」(1954) はまさにそういう映画だった。核への恐怖と人間の理性の慢心への警鐘としてゴジラは生まれた。ゴジラはそびえ立つ。意志も感情も持たず、ただ破壊する。人間の理解を超えている。

ゴジラを生物として捉えてしまったのがエメリッヒ・ゴジラだ。物語は貧相になってしまった。エメリッヒ・ゴジラの日本でのプレミア上映の帰り、車の中で “不思議がなくなりましたね” とポツリと呟いた伊福部先生の言葉を思い出す。

哀しいかな、ゴジラはその造形の魅力ゆえキャラクターとして独り歩きを始め、背後の虚構性は忘れ去られて行った。

何回かのゴジラ復活の際、原点に還る、は必ずと言ってよい合言葉だった。しかしこの稀有なキャラクターはその魅力がかえって虚構性の原点に立ち還るという作業を妨げることとなった。キャラクターを如何に面白く見せるかという呪縛を超えることは出来なかった。

大方のビジネスは前例を踏襲する。リスクを伴う大きな方針転換はしない。少しずつジリ貧になって行き、終わりを迎える。ゴジラシリーズはこの繰り返しだった。しかしそれに耐え得るキャラクターであるということは物凄いことではある。 

今回、僕はこの原点回帰の徹底さに驚愕する。「 現実 対 虚構 」? そんな文言出したら商売にならない。東宝の社員監督がそんなこと言ったら、何青臭いこと言ってるんだ! と一蹴されたことだろう。それを今回やってしまったのだ。

このコピーを誰が考えたのかは知らない。何よりよく会社がこれを受け入れた。庵野起用の時点で東宝は覚悟を決めていたのだ、多分。庵野コンセプトで全面的に一貫させる。勿論戦いは到る所であったと思う。営業サイドがあのコピーをすんなりと受け入れるはずがない。これは芸術映画か!

結果は、映画の中身も、宣伝も、庵野コンセプトで一貫した。むろん庵野という実績とカリスマを備えた者だからこそ出来たことである。それより東宝という会社がそれを受け入れたことが凄いことなのだ。プロデューサーなのか製作の偉い人か、旗振り役はいるはずだ。その誰かが社内の守旧派 (多分初めは大半が守旧派だったのではないか) を押えて、説得して、庵野一貫路線を実現させた。これが凄いのだ。

試写会のパンフの監督コメントなんて、抱負でも何でもない。エヴァを終わった後云々、ノイローゼっぽくなって云々、東宝から依頼が来て云々、ただの繰り言である。こんな繰り言をパンフに載せるまでに庵野で一貫した。これは本当に凄い。主役は庵野だ。

裏を返すと、今日本でゴジラ映画を作るとしたらどうすれば良いか。「スターウォーズ」の様に子供から大人までをターゲットに大エンタメ大作として作る。これには膨大な製作費が掛かってハリウッド版には適わない。だとしたら… 

今、日本にとってゴジラとは何か。ゴジラという虚構を使って具象化すべきものとは何か。形にならない不安、どうしようもないもの、不可解なもの、それを突き詰めてゴジラという虚構を作る。それを今の日本のリアルな現実と対峙させる。それ以外にないと結論付けた。虚構が背負うものは、核であり、原発であり、何よりそれらを包括した3.11の想定外の大自然、あれは波の形をしたゴジラだった。そして背後に人間理性の慢心。まさに原点回帰である。

これしかない、こっちしかない。そして庵野となった。東宝ゴジラに関してそれだけ切羽詰まっていたのだ。これは大きな掛けだったと思う。大博打だったと思う。そんな博打を打つだけの、経営的余裕があったとも言えるが。

7月25日プレミア試写、観終わって、よくぞこんなゴジラ映画を作ったものだと感心した。随所にこれまでのゴジラ映画の名シーンへのオマージュをオタクらしく散りばめつつ、本筋は今そこにある危機に対処する政治映画である。そこの部分は徹底して現実的 (リアルなニッポン)だ。一気に観られた。そしてお客はどれくらい来るか心配になった。庵野ファンという人たちがいることを僕は知らない。普通に考えた時、これは男対象の、しかもオヤジだ。一番映画館に来ない層だ。その数日後、新聞の全面広告で「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)」が大きく出た。この広告、明らかに女子供を拒否している。あわよくばそんな層にもアピールを、なんてスケベった下心は微塵もない。庵野イズムの徹底である。その志や良し。ただお客はどの位来るのだろう。その疑念は拭えなかった。

大ヒット、本当に良かった。僕は面白かった。でも未だに興行収入何十億というヒットというのが信じられない。オタクがリピートしたってこんな数字にはならない。女子供も来ているのか。

 

音楽はこれまでの伊福部特撮音楽を、フリークの庵野、樋口両氏が思い入れを込めて選曲し当てている。思い入れに属する領域に他人が口を挟む余地はない。鷺巣詩郎のオリジナル (誰かがエヴァの音楽とか言っていたが) は印象に残らなかった。EGの安っぽい響きの曲があったのが気になった。僕に伊福部音楽しか聴こえないのは仕方のないことである。

 

脚本・編集・総監督.庵野秀明  監督・特技監督樋口真嗣  准監督・特技総括.尾上克郎     

音楽.鷺巣詩郎  挿入曲.伊福部昭特撮映画音楽