映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2017.06.19 「花戦さ」 丸の内TOEI

2017.06.19「花戦さ」丸の内TOEI

 

華道は僧侶の手によって始まったことを初めて知った。利休と親交した実在の人物らしい池坊専好、暴君と化した秀吉に花を活けて自戒を促したという話。本当なのか。

専好を野村萬斎が演じる。専好は花の中に仏さんがいるという。それはよい。けれど活けた花で秀吉が改心するというクライマックスにどうにも説得力が無い。桜と梅のどちらが好きか、それぞれにかけがえのない良さがある。赤には赤の、青には青の、黒には黒の、金には金の、そんなやり取りで解ったような気にさせられる。脚本がどうにも浅い。浅いところで辻褄を合わせてイージーな整合性を作る。

何とか映画になっているのはひとえに萬斎の形のある演技による。台詞も所作もリアリズムではない。伝統に裏打ちされた形である。萬斎は普通の映画に出たら間違いなく、浮く。「陰陽師」も「のぼうの城」も萬斎の持つ形の演技を上手く取り込んで成功した。この映画は取り込むのではなく助けてもらっている。萬斎でなければ映画が成立しなかった。彼の形が浅い脚本にも拘らず何かが有る様な感じを作り出した。秀吉役の市川猿之助も同じ。猿之助の持つ形が何とかクライマックスを成立させている。形を持たない役者でやっていたら悲惨、映画に成ってなかった。萬斎、猿之助がやったから、かろうじて映画になった。それでも辛うじて、である。

セットはチャチ、引いた画は無い。予算が無かっただろうことは解るが。せめて幾多の無念の血が沁みつく三条河原のロング、それがあればこそ一輪の花に手を合わせた後に刈り取る萬斎に深さが出るというもの。TVサイズの寄りばかりでは花に仏が宿るなんて言っても説得力が感じられない。

音楽、複雑なリズムを駆使したミニマルミュージック(?)。弦のピッチカートや木管がリズムを作って、そこに弦のメロがのる。琴の音も聴こえる。映像に付けるというより映像を引っ張っている。音楽の無いラッシュはさぞ辛かっただろう。音楽が積極的に演出してテンポを付けてメリハリを付ける。萬斎、猿之助とともに久石の音楽が無かったら映画に成っていなかった。

茶道華道の動員付映画であることは間違いない。それをしっかりと逆手に取って普段作れないような映画を作って欲しかった。

 

監督 篠原哲雄   音楽 久石譲

2017.06.09 「海辺のリア」 スバル座

2017.06.09「海辺のリア」スバル座

 

仲代達矢が、かつては大スター、今は80の坂を超え施設暮らしをする呆け老人・桑畑兆吉を演ずる。

娘・由紀子 (原田美枝子) とその夫・行雄 (阿部寛)。かつて桑畑を尊敬し弟子だった。今は由紀子と結婚し、プロダクションの社長に収まっている。そこの社員で由紀子と深い関係にある男 (小林薫)、由紀子とは腹違いの孫の様な歳の娘・伸子 (黒木華)、出演者はそれだけ。五人が織り成す舞台劇の様な話。

桑畑と仲代がWる。無名塾を主催して今も現役の仲代と施設に入っている桑畑では全く違う。だが老いてなお芝居に憑りつかれているという点ではどうしようもなくWって見えてしまう。作り手もそれを狙っている。ロケは北陸の海辺一箇所のみ、大仕掛けはなく、ひたすら台詞で語られる。あまりに台詞ばかりなのでちょっと食傷気味になる。これまでの人生、子供との関係、腹違いの娘がされた仕打ち、今の状況、全てが台詞だ。それが海辺の似たような景色をバックに延々と続く。

仲代の立派過ぎる声と見事な滑舌はどちらかと言うと僕は好みではない。あまりに演劇的だ。体もがっちりとして良く歩く。あんな老人もいるのだろうが、随分立派な呆け老人である。仲代でなかったら成立しない企画なので仕方ないのだが。

音楽は頭とお尻、中ほどに少し。多分これ、曲はクラシックの既成曲。エンディングの曲は良く耳にする曲 (題名失念) なので間違いない。

冒頭、VCのソロで入る。中低域のしっかりした音。それに合わせて中央タテにキャストのクレジットがゴシック体 (?) で一人づつ入る。黒地に白抜き、最もシンプル。しかしVCの中低域と合って、落ち着きを作る。格調すら感じる。このクレジットタイトルと音楽、良い。音楽、劇中には1~2カ所入るだけ。後はエンドロール。有り物音源か演奏し直したものか。音楽クレジットはプロデュースの意味合いか。

台詞で殆どを語る映画があったって良い。それが映画的表現になっていれば。

 

黒木華が良かった。阿部寛は体を使えない芝居なので辛いものがあった。

それでこの映画は何を伝えたかったのか。

周りの犠牲も顧みず、自由に生きた名優の、呆け乍らも未だ演じることに憑りつかれている、そんな役者とは、ということか。あまりにストレート。こちらの思いを差し挟む余地なく、あゝそうですか、で終わってしまった。

 

監督  山本政広    音楽  佐久間順平

2017.07.19 「甘き人生」 スバル座

2017.07.19「甘き人生」スバル座

 

僕らの世代は“甘い”に弱い。“甘い”と来れば“生活”だ。背徳の匂いだ。「甘き人生」、どうしても背徳の匂いを感じる。ヴィジュアルも中年男に覆いかぶさる美女、退廃の芳醇な香り。そんな先入観の下で観た。

1960年代、ツイストが流行っていた頃、カトリーヌ・スパークが太陽の下で18歳だった頃。イタリアはトリノ、少年 (ニコロ・カブラス) と美しい母 (バルバラ・ロンギ) の至福の時が色調を抑えた画面で描かれる。少年にとって黄金の日々。

母が突然居なくなる。寝ている少年に“良い夢を”という言葉を残して。母は自殺したらしい。葬儀で初めて父親が登場する。もしかしたらシングルマザーかと思っていた。この時代、ましてイタリア、それはないか。父親は渋い。これは間違いなく女が絡む。父親の女関係がもとで精神を病み自殺した。間違いない。少年を溺愛する母の姿に少し神経症的なところも感じた。

少年・マッシモは母の死を受け入れられない。周囲も死因は心筋梗塞と言い、自殺とは決して言わない。自殺を罪とするキリスト教の背景もある。

母と観たTVの、仮面を被ったダークヒーロー (?) ベルファ・ゴールを心の支えとして、周囲とはそれなりに接するものの決して心底から心を開かぬまま成長する。

宇宙の起源、物体落下の法則、教会を明るくしないと母が帰ってこられない(?)。成長するにつれ、理性は母の死を理解しつつも、心はそれを拒否し続ける。そんな心を持ち続けたまま、マッシモは大人になる。

ジャーナリストになったマッシモ (バレリオ・マスタンドレア) はセルビア紛争の取材に赴き、そこで撃たれた母とその脇で必死にゲームをやり続ける少年の姿を見る。必死に紛らわせているのか、心の許容範囲を越えたのか。その夜マッシモは初めてパニック障害を起こす。それを救ってくれた女医・エリーザ (ベレニス・ベジョ) との出会いがある。

199?年、マッシモ が30代後半になった頃、初めて父親は再婚を考えていると、女性を紹介する。残念ながら父親に背徳の匂いは無い。息子は素直に認める。父子並んで歩く姿がどうにも親子に見えない。端正な父親に比して無精ひげの息子の方が老けて見えたりする。

 

母の死の受容と1960代~1990代の欧州を重ねて描くのかと思った。しかし僅かに触れる社会ネタも重きを置かれている訳ではない。むしろサッカーの話がこの親子に深く絡んでいる。丁度、長嶋茂雄のデヴュー連続3三振後の初ヒットがホームランだったり、天覧試合のホームランだったり、“巨人軍は永遠不滅です”の引退だったり、その活躍が僕らの個人史と深く絡まっているのと同じ様に。

父が死に、アパートの片づけをして母との思い出を整理する中で、叔母の口から母の死が病気を苦にした飛び降り自殺だったと初めて聞く。精神を病んでいたというようなことは全く出てこない。ましてや父親の女性問題など皆無。僕の読みは次々に粉砕される。

マッシモは遂に母の死を受け入れエリーザと結ばれる。ラストカットがポスターのヴィジュアルだ。ここにも背徳は皆無だ。あのヴィジュアルに「甘き人生」というタイトルが付けられてマンマと騙された僕がバカだったということだ。ただ単に病気を苦に自殺した母の死を40年近く掛けてようやく受け入れた男の物語だったのだ。本当に? どこかに見落としている所があるんじゃない? だって本当にこれだけだとしたらTVで充分 (TVに失礼か) なんだもの。

新聞の投稿欄の担当として、母を憎んでしまうという投稿に、帰ったら黙って母を抱きしめなさい、と回答して世間から絶賛を浴びたりする。このストレートさは何なんだろう。

幼くして母を亡くした経験は筆舌に尽くし難い。トラウマとなったり人格形成に大きな影響を与える。一方で僕らはIS等の現実を日々のニュースで知っている。母親が目の前で乱暴され殺される。マッシモだってセルビアで現実を見てパニック障害を起こした。母の死を受け入れるのに40年って、ちょっと「甘き人生」じゃない? 背後に退廃の芳醇な香りなんか一切無い、それだけの話。ダマされた私がバカだった。

 

音楽はポイントに時代を表わす既成曲、所々で小編成の楽曲がお決まりで付く。最後に弦の入った大編成でウェットに纏める。当たり前だが過不足無し。ツイストから始まって、ストーズやキングクリムゾンのLPジャケットが出てきたりして世代的には僕とWり、既成曲は懐かしかった。

 

描写は的確。’60トリノ、’90ローマと場所時間共にランダムに飛ぶも流れはスムーズ、素直に観られる。安っぽい泣かせに持って行かなかったことは良い。男は永遠にマザコンだ。

 

原題「Fai bei sogni」(良き夢を)、母が残した最期の言葉。それを「甘き人生」とした。“甘き”で僕の様な世代を深読みさせ、一方でこの映画の“甘さ”を自ら皮肉る、上手い邦題。

 

監督 マルコ・ベロッキオ   音楽 カルロ・クリベッリ

2017.07.07 「22年目の告白 私が殺人犯です」 新宿ピカテデリー

 

(ネタバレご容赦)

予告編で想像していたよりずっと面白かった。

時効を迎えた事件の犯人が名乗り出る。「64」はギリで犯人を逮捕した。こちらはノウノウと犯人が名乗り出る、「私が殺人犯です」という告白本を出版するというかたちで。派手な出版記念記者会見、一躍マスコミの寵児となる。警察は手が出せない。五人も絞殺している。しかもわざと身近な人間の眼前で。この理不尽、そこに焦点をあてた映画と思っていた。ところがもう一捻りあった。これは予告では全く匂わせていなかった。この緘口令は大成功。これが社会的なサスペンスの先にもう一つ、サイコロジカルなサスペンスを作っている。

名乗り出た犯人・曾根崎 (藤原竜也)、かつて寸でのところで取り逃がした刑事・牧村 (伊藤英明)、その事件を取材した作品で認められて今はTVのキャスターとなっているジャーナリスト・仙堂 (仲村トオル)、この三人の22年間、そこに殺された五人の遺族が巧妙に組み込まれて物語を作っていく。遺族にはヤクザ (岩城滉一) がいたり、医者 (岩松了) がいたり、都合良すぎるといえばその通りだが、そこはエンタメ、巧みに取り込んで不自然さを感じさせない。かつての事件はその都度カットバックで手際よく語られて、良く出来た構成の脚本である。

曾根崎が牧村の耳元で口を覆って囁く映像、リップは分からない。そこに予告編では“あんたがドン臭かったからだよ”と載せている。本編では台詞は聴こえない。実際にはあとで“早く殴って”と言ったことが明かされる。予告の台詞は全く別の所から持ってきたものだった。本編予告連携の上手い小技である。

犯人の殺人の動機を黒沢清サイコパスに持って行かなかったのが良い。サイコパスを持ってくると確かに不条理今風リアルにはなるかもしれないが、理屈を超えてしまうのでサスペンスとしてはドン詰まりだ。どうするのか。かつて戦場取材でテロリストに拉致され、目の前で仲間が絞殺された。自分だけ助かった。それがトラウマとなった。成る程、しかしそれだけで殺人鬼となるものか。日本に戻った仙堂の壊れた心が殺人鬼へと化していく様子を納得させてくれる1カットがあれば。無理難題は重々承知の上で。IS等を考えると全く有り得ない話でもない。

 

何より音楽が面白い。音楽というよりSE。楽音はほんの少し。どれもモノトーン。あとは打ち込みのリズムだったり、通信音 (?) だったり、歪み音だったりで構成する。有りがちなSynのパッドはほとんど無い。つい雰囲気とサスペンス盛り上げの為に入れたくなるものだが、それをしていない。代わりにSEが無感情に入る。

現代音楽? ミュージックコンクレート? かつて前衛芸術映画でその様な試みはあった。それをエンタメで実に上手くやっている。現代音楽の様に理屈から入るのではない。映画を如何に面白くするか、そこから発想している。絵面や物語の展開に合わせているところはある。打ち込みリズムはサスペンスを煽る役割もしている。が、何より音楽に通底している考えは、感情移入をさせないということ。いくらでも泣きは作れる。それを一切排除する。その為に音楽が重要な役割を果たしているのだ。

牧村と曾根崎は感情で動く。仙堂は感情が壊れている。感情が壊れた奴に22年間、感情で挑み続けた。音楽は少し離れたところから感情の壊れた世界を担う。だから感情的なサスペンスドラマを超えることが出来た。

時々バサッと素を作る。台詞や息遣いだけになる。これが実に効果的だ。音楽、効果も含めた音付けのセンスの良さに感心する。

エンドでノイズの様なEG (主題歌のイントロ?) がCIして、クレジットタイトル、エンドロールが始まったと思いきやタイトル1枚 (?) だけで直ぐに音楽と共にCO。 白くハイコントラストで飛ばした病院の廊下、両脇を抱えられた仙堂、何回か出て来たピアスだらけのチンピラ (ヤクザの義理の息子) が背後から…、 映像バサッとCO、同時にノイズEGが再びCI 、今度は間違いなくローリングとなる。目の覚める様な流れだ。

最後の最後で消化不良だった感情は一応収まる。納得する。後味スッキリというようなものではないが、エンタメの枠だけはキチンと守った纏め方である。

 

横山克という作曲家、初めて聞く名前、相当センスの良い人だ。僕が教えられた映画音楽とは全く違う感性。パルスやノイズなんて発想、僕には思いもよらない。楽音以外の音を完全に音楽として使いこなしている。映画音楽は“音”なのだ。

海外に旅立つ曾根崎 (拓巳) を見送る空港ロビー、ここだけは音楽らしい楽音が流れていた。

 

音楽はどんな体制でやったのだろう。全て当て書きとも思えない。全て素材録りの選曲とも思えない。「サイタマノラッパー」で評価された監督 (評判は聞いていたが未見)、音楽への造詣は相当あるはずだ。センスの良い選曲スタッフが居たのかも知れない。どのように作っていったか知りたいものだ。

 

監督 入江悠   音楽 横山克   主題歌 感覚ピエロ

2017.06.28 「ジーサンズ  はじめての強盗」 新宿ピカデリー

2017.06.28「ジーサンズ はじめての強盗」新宿ピカデリー

 

歳をとってもカッコイイ。ジョー役のマイケル・ケインアルバート役のアラン・アーキン、増々渋いウィリー役のモーガン・フリーマン、みんな80越え、カッコイイ人はジジイになってもカッコイイのだ。

3人とも同じ鉄工所に40数年勤めて、しっかりと企業年金も積み立てた。老後はこれで何とかなる。ところが会社が買収されて年金はそれとともに消滅した。裏で銀行が糸を引く。3人それぞれの事情を抱えるも年金消滅が生活の基盤を奪うのは同じだ。考えた末に銀行強盗をやることになる。荒唐無稽。

口笛とコンガが全面に出たボサノバ調、昔のTV「ナポレオンソロ」のような雰囲気のタイトルバックが流れ、3人がそれぞれに映し出された時には、こちらの感度は老人ハイテンションにピタッとセットされて荒唐無稽に違和感無し。

スーパーでの強盗の練習、自転車の荷台にウィリーを乗せての「ET」 (1982) のパロディー、時々出てくる「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985) ドクのクリストファー・ロイドが映るだけで可笑しい。

もも肉もいいけど胸肉もいいわよとアルバートに迫るスーパーのおばさん、これが何と何とアン=マーグレット、後で解った。僕が知っているのはプレスリーの相手役の頃、解る訳がない。彼女が唄った「バイバイバーディー」(1963) の主題歌は子供の僕にはどうしても“バーイ バーイ バーヒ―”に聞こえた。

イデア満載ギャグ満載、セックスしちゃうしマリファナ吸っちゃうし、夜のベッド脇の電話での3人の会話には哀歓もある。何よりメールや携帯が出てこない、こんなの久々だ。

3人の役者が素晴らしいのは当然。それにも増して脚本 (セオドア・メルヒ) が良い。銀行強盗を決意するまでのプロセス、その後の準備と練習、決行とアリバイの証明、全てが何かの伏線になっていてそれが見事に回収される、小技のアイデアは山の様。

たけしの「権三と七人の子分たち」(拙ブログ2015.5.8) がよぎった。たけしという才能が次から次に溢れてくるアイデアを一気に纏めて演出した。才人たけしの瞬間パワー。一方こちらの脚本、クレジットは一人だがアイデアは多分多くの人が持ち寄っている。そして推敲に推敲を重ね、撮影現場では役者からのアイデアも相当出たはずだ。何せ演出もこなす3人である。それを最終的に監督が纏める。捨てられたアイデアは山の様にあるはずだ。それが映画の厚味になっている。「権三~」にはその厚味が無かった。

 

唯一不満だったのは音楽である。トーンはシンフォニックジャズ。弦も木管金管もラテンパーカッションも入る。前述のように「ナポレオンソロ」の様なレトロな響きもある。「What a Diff”rence a Day Made」(歌.ブレンダ・リー ?) の様な既成曲も上手く使っている。悲しめのところは哀しく、サスペンスのところはその様に、煽るところは煽って、映画音楽としてはきめ細かく丁寧に、洒落たジャジーさを保ちつつ、付けている。付け過ぎなのだ。後半、強盗のハラハラドキドキになってからはそれを煽るようにベタにつけるのはしょうがない。問題は前半だ。何であんなに絵面に合わせてベタに付ける必要があるのか。音楽による気持ちの先取り、感情の単純化と押し付け、前半は音楽を半分以上取れる。その方がもっと複雑な思いが滲み出る。老いの哀歓だって出る。音楽外して流れが悪くなるなんてことはない。編集はしっかりしていて音楽無しで充分持つ。少しシリアスになるかも知れないが後半とのコントラストが付く。見ながら、この音楽要らない、この音楽邪魔、とつぶやいてしまった。

 

ズラリ並んだジイさんたちの子供による面通しのハラハラドキドキ、誕生日プレゼントに貰った子供が喜びそうな腕時計のアップ、あゝバレたか。

強盗も成功して、締めはウィリーの腎臓移植。怖がりながらも提供するアルバート。並んで横たわる2人。次のカットはダークスーツのジョー、ネクタイは確か黒。あれ? まさかウィリー? それともアルバート? ここから先は目下公開中なのでネタバレ配慮。たっぷりと思わせぶりをしてコロッとかわすテクニックは見事。

銀行は徹底的に悪党として描かれる。庶民目線の資本批判はしっかりと通っている。ロンドンのダニエル・ブレイク(拙ブログ2017.3.28) を誘って行政批判のパート2なんてのは?

誰も死なない、安っぽい涙も流れない、懐かしい曲が沢山流れる、名画へのオマージュとパロディも満載、何よりスカっとして元気が出る、素敵な映画。

 

「ジーサンズ はじめての強盗」、この邦題、まあ良かったのではないか。「はじめてのおつかい」のパロディーとどれ位の人が気付くかは別として。

“三人のおじいさんが生まれて初めて銀行強盗をしました。それがなんと成功しちゃったのです”なんてコピーはいかが?

 

監督 ザック・ブラフ  音楽 ロブ・シモンセン

2017.06.26 「佐藤勝 音楽祭」、 7月30日に開催

2017.06.26「佐藤勝 音楽祭」、7月30日に開催

 

「佐藤勝音楽祭」が開催される。

佐藤勝(1928-1999)、今更言うまでもないが、日本の映画音楽の第一人者。黒澤明を始め、岡本喜八山田洋次山本薩夫等の作品を音楽で支え、組んだ監督100余人、作品数は300を超える。

佐藤先生は始めから映画音楽作曲家を目指した。純音楽(クラシック)の作曲家を目指した訳ではない。だからクラシックにコンプレックスが無い。当時、きちんとしたオケを書ける作曲家は大なり小なり、クラシックの作品を書こうと思っていた。それで楽壇から評価されたい。佐藤先生には全くそれが無かった。“俺は首根っこまでコマーシャリズムに浸かった作曲家だ”と平気で言っていた。

早坂文雄(1914-1955) の唯一の内弟子である。「七人の侍」の時は、早坂の下、外弟子(こんな言い方あるかな?) の武満徹(1930-1996)と机を並べてオーケストレーションを担った。外弟子の武満は何がしかのお小遣いを貰うも、俺には何にも無かったと言っていた。内弟子だから。

現代音楽の洗礼はしっかりと受けているのだ。ジャズの洗礼も。早坂は佐藤先生に、これからは映画に現代音楽を書きなさい、と言ったそうである。

現代音楽とジャズを消化しつつ明解なメロディーがあった。黒澤に鍛えられ、岡本とは様々な実験的試みをやった。マサル節と称される明解なメロディーを持ち、ひ弱な映像は負けてしまう。若手の監督がそれゆえに敬遠することもあった。しかしマサル節でどれくらいの映画が救われたことか。

一方、「若者たち」(作詞.藤田敏雄、歌.ザ・ブロードサイド・フォー) や「恋文」(作詞.吉田旺、歌.由紀さおり) などの歌も書いた。柔軟だった。

映画音楽の棒 (指揮) の名手でもあり、自分の書いたものは全て自分で振った。武満は映画音楽の録音の時、スケジュールが合う限り、佐藤先生に頼んでいた。この譜面のここからこっちの譜面のここに繋いで、それからこっちの譜面の…って、武満の時はいつもスコアが譜面台に載り切らないんだ、と言いながら見事に振っていた。前にも書いたが、武満徹映画音楽を一番理解していたのは佐藤先生だったのかも知れない。

7月30日、「幸せの黄色いハンカチ」(山田洋次作品)、「肉弾」「吶喊」「独立愚連隊」(岡本喜八作品)、「隠し砦の三悪人」「用心棒」「赤ひげ」(黒澤明作品)、「ゴジラの逆襲」「ゴジラの息子」「ゴジラ対メカゴジラ」等のオケものを演奏する。

マサル節が炸裂する。

 

詳細

「佐藤勝音楽祭」 指揮.松井慶太  演奏.オーケストラ・トリプティーク

7/30  13.30開場 14.00開演  渋谷区文化総合センター大和田さくらホール

チケット カンフェティチケットセンター 購入0120-240-640

問い合わせ 03-6228-1630   ¥7500~¥4000

2017.05.23 「メッセージ」 ヒューマックス渋谷

2017.05.23「メッセージ」ヒューマックス渋谷

 

初めに言葉有りき。

十二使徒が言葉を武器に世界に遣わされる。

 

言葉はコミュニケーションのツールであると同時に武器となる。言語で認識は異なってくるらしい。思考方法も違ってくるという。確かにそうかも知れない。言葉は自然と深く関わり、それが時間を経て歴史を作り文化を作る。地球上の多様な文化は言葉の違いに依拠する。言葉が滅ぶと文化も滅ぶ。

 

冒頭、ほとんどUPのみで母と娘が描かれる。誕生、成長、そして死。その後ろに弦カルで全音符のゆったりとした曲、やがてそこに八分音符の短くシンプルなメロが乗り、執拗に繰り返される。ミニマルミュージックというやつか。荘厳で古典的でさえある。厳かな気持ちになる。一体何が始まるのか。

あなたの物語は彼らに会わなかったら始まらなかった。(不確か)

 

言語学者ルイーズ (エイミー・アダムス) が大学で教鞭を取っている。ここからは「ボーダーライン」(拙ブログ2016.5.18) の監督らしく、クレーンや移動を駆使して実に上手い。学内、湖畔の屋敷、寝ている彼女ナメの窓に突然のサーチライト、ウェバー大佐 (フォレスト・ウィテカー)の来訪、レコーダーから流れる雑音の様な異星人の声、10分で支度せよ、空撮のヘリ、ヘリの中の科学者イアン(ジェレミー・レナー) との会話、そして現れる巨大なバカウケ (おせんべいのばかうけのこと。ネットの監督インタビューでそう言っていた) 型の殻・宇宙船、それを取り囲んで点在する軍のキャンプ、広い画とヨリ、轟音と静寂、息をも尽かせぬ。その間、ワンカットの無駄も無い、一言の無駄な台詞も無い。

実は二度見した。一度目はあまりの畳みかけに付いていけなかった。二度目でいかにそぎ落とされて無駄が無いかが解った。一気に引き込まれる。

音楽は弦カルから一転、Synの低音が通奏してSFサスペンスに突入する。時々ゴアーンという金属系の唸りの様な音が4音の動機を繰り返す。異星人のテーマか。それ以外は特にメロディー感はない。時々キャンプ内のルイーズのところで素を作る。それが効く。「ボーダーライン」と同じ。実に上手い付け方である。

 

異星人は何の目的でやって来たのか。それがチームに与えられたミッション。その為には言葉によるコミュニケーションが必要だ。8時間毎に開く殻、中に入り透明な壁越しに異星人の未知なる言語の手探りの解明が始まる。それは幼児に言葉を教える様なものだ。遠回りの様だがそれしかない。白板にHUMANと書いて自分を指し示した時、反応があった。七本足の先端から吐き出された墨の様なものが円を描いた。円の淵は吹き付けた様に微妙に滲む。これが彼らの言葉だった。言葉には言い始めと言い終わりがある、という我々人間のものとは違って、瞬時に全てが語られている。異星人には時間の“流れ”が無いらしい。この円の吹き付け言語、一度目は何だと思った。二度目は何て美しいんだろう、と思った。少しずつそれを繰り返し、分析して言語の解析が行われる。世界の十二か所でそれぞれに対応しながら情報は共有される。

時々TV画面に、世界がパニックに陥っている状況が映し出される。あちこちで暴動が起きており、殻を攻撃せよ、という意見がネットに蔓延する。この一連を全てTV画面やPC画面で処理したのは上手い。かえってリアリティが出る。

各国の対応に差が出始める。中国が好戦的な方のリーダー、この辺、今の世界状況を上手く背景として取り込んで現実味を持たせる。

絵空事なのだが違和感を覚えることは一瞬もない。一気に映画の世界である。これぞ映画的表現だ。

時々、ルイーズと娘の回想 (?) がインサートされる。一度見でこれが解らなかった。”今” は娘を失った後なのか。

異星人はヘプタポッドと名付けられる。ルイーズたちが接する2つの個体は、彼女とイアンの間では、アボットとコステロと名付けられた。

ヘプタポッドが“武器”という言葉を発した。そこから世界の連携は一気に崩れ出す。中国が攻撃体制を敷く。12カ所の情報共有も遮断される。世界の団結は崩れようとしている。ルイーズが決死の覚悟で試みた最後のコンタクトで、ヘプタポッドのアボットとコステロのどちらかが、君には武器があるといった。言葉だ。

ここからが良く解らない。娘との回想が次々にインサートされる。娘の絵の中にパパとママの脇に鳥かごがあった。二人がコンタクトする時は安全確認の為必ず鳥かごが置かれていた。娘の絵にそれがある。円の吹き付け言語の絵もあった。娘の誕生はこの出来事の後のはずだ。それが何故“今”の回想に現れるのか。時間の流れが解らない。娘との回想と、「ヘプタポッド言語の研究」(不確か) という未来で書くことになる本を見て、ルイーズは解った!と叫ぶ。

各国が攻撃を開始しようとしていた。ギリギリで中国のシャン上将に携帯から電話を入れる。彼女が中国語を話せることは前にふってある。

突然クラシックの音楽が流れて何やらのパーティー。そこでシャン上将がルイーズに近づく。大統領よりも何よりも、あなたに会いたかった。何人からも翻意されない私を翻意させたあなたに会いたかった、と携帯を差し出す。あなたは私の妻の最期の言葉を言った。出来事から1~2年は経っているはずだ。

攻撃は中止され世界の連携は復活した。但し余計な説明の映像は無い。殻型宇宙船が去る(消える?) というスペクタクルでちょっとファンタジックな映像があるだけだ。

 

ルイーズはある時から未来が解るようになったということか。あるいは解ることに気が付いた。本当は人間はみんなそうなのかも知れない。イアンと結婚すること、娘を産むこと、離婚すること、そして娘が難病で幼くして死ぬこと…

異星人には時間の“流れ”はないという。全てが並立する。でも3000年後に危機が訪れるとは時間の“流れ”ではないのか。並行宇宙ということか。アボット (コステロ?) は死につつあるらしい。死はあるらしい。僕らの直線的な時間感覚で突き詰めると綻びは出てくる。僕らはどうしようもなくそこから離れられない。始まりがあり終わりがある、原因があって結果がある。イアンは同じ様な経験をしながらルイーズの様にはならなかった。最後は神秘体験での飛躍ということになるのか。雷に打たれるか、悟りを開くか、

この映画はSF映画の形を借りて神秘体験を映像化したのかも知れない。死ぬ存在である我々はそれを様々な形で納得し肯定する (しかない) 。哲学であったり、宗教であったり、芸術であったり。二度見の後、わけが解らないまま、不思議な感動があり、死ぬことが解りながら産んだ娘 HANNAH を送るルイーズの哀しみの深さと、それでも産まれて生きた娘の生を肯定する気持ちとで、言葉が無かった。

 

本日 (6/7) 朝日新聞朝刊一面「折々の言葉」(鷲田清一) に偶然こんな言葉が載っていた。

 

生きている時間の方が長い

どんなに短い人生だったとしても

生きていた時間のほうが長い

         (益田ミリ)

 

エンディングで再び冒頭の曲が流れる。ルイーズの心の物語であったことが解る。この曲、マックス・リヒターの「On the Nature of Daylight」という曲とのこと。この曲がオリジナルでなかった為、ヨハン・ヨハンソンはオスカーの音楽賞にノミネートされなかったそうである。てっきり彼のオリジナルを誰かがオーケストレーションしたものと思っていた。これがオリジナルでないと確かにノミネートは難しいかも知れない。

 

原題「Arrival」、到着、到達、出生、の意とのこと。「メッセージ」という邦題、悪くない。

 

こんな映画を作った監督の才能と、作れた幸運と、作らせたプロデューサーたちの志と、「スターウォーズ」も作るがこういう映画も作るというハリウッドの懐の深さに、ただただ恐れ入ってしまう。

異星人の様に瞬時ではないが、ドゥニ・ビルヌーブは人間存在を映画を使って2時間で示してくれた。

 

監督 ドゥニ・ビルヌーブ   音楽 ヨハン・ヨハンソン