映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2018.10.15 「止められるか、俺たちを」 テアトル新宿

2018.10.15「止められるか、俺たちをテアトル新宿

 

1970.11.25 三島由紀夫が割腹自決をした。それを若松孝二 (井浦新) が ”本気だったんだ”という。

あの頃の新宿ゴールデン街、行った事がある店が出てくる。若松、足立正生荒井晴彦大和屋竺、高間賢治、大島渚葛井欣士郎赤塚不二夫、クマさん・篠原勝之 (これは本人?) などが、役者が演じているのだが、みんな実名で出てくる。名前くらい知っている人、写真や映像で見たことある人、遠目で実物を見ている人。佐々木守が「ウルトラマン」の脚本を書いたとか、大和屋竺がTVアニメ「ルパン三世」の脚本を書くらしいとか、当時聞いていた話である。「女学生ゲリラ」(1969若松プロ 監督.足立正生) は大学キャンパスの中で見た。その頃、僕は二十歳の若造、これらの人たちは僕には輝いて見えた。

 

事務所にズカズカっと入ってきて一番奥の大きなデスクにデカい態度で座る。下唇をめくれさせて新が演じているそれが若松孝二であると解るのには30秒くらいかかった。カッコ良すぎる! 少しずつ新-若松に慣れてきてからは自分もあの時代に戻った様に一気に入り込んでいった。

十代の頃はヤクザ、臭い飯を喰ったこともある。警官に復習する為に映画を撮っていると前田のママ (寺島しのぶ) の台詞で手短に説明する。事務所で足立らが脚本を巡って喧々諤々やっているのを見て、“お前らは理屈ばっかしなんだ!”と怒やしつける。若いインテリ組は“若松さん、映画も見てないし本も読んでない”と陰口を叩く。でも映画を見ると作るじゃ大違いなのだ。エロと反権力を掲げて若松プロはピンク映画を量産する。製作・監督から営業、金の工面まで含めて若松孝二が引っ張る。清濁併せ呑む若松のデスクの後ろには若松だけが開けられる大きな金庫がある。

この梁山泊にフーテンの様な一人の女が入って来る。あの頃の新宿には日本中から野心と不満と自分が何者か解らない若者が集まっていた。新宿に行けば何かがある、そんな街だった。多分、吉積めぐみ (門脇麦) もそんな中の一人。助監督となり男たちと一緒に突っ走ることになる。撮影現場で一番大変なのが助監督だ。スケジュール・撮影の段取り等全ての責任を負う。インしたら自分の時間なんて無い。労働基準法違反は当たり前。大手は別として大半は今でもそれに近いのでは。まして50年前、しかもピンク映画、言わずもがな。それを引っ張るのがエネルギーの塊、若松孝二。みんな若松に引っ張られて突っ走る。めぐみも男たちと一緒に突っ走る。止ってしまったらダメなのだ。

めぐみは2年間突っ走った。監督として撮らせるという話も出ていた。めぐみは妊娠していた。それがきっかけか、政治色を強める若松らに溝を感じたか。ふと止ってしまった。何を撮りたいか解らないと仲間のオバケ(タモト清嵐) に話していた。突然、めぐみは、睡眠薬で、自殺する。

 

強烈なエネルギーを持つ者の周りには必ず犠牲者が出る。着いて行けなくなった者、自分の道を探そうと袂を分かつ者、足を洗った者もいればメジャーの仕事をするようになった者もいる。めぐみが何で死んだか、映画は余計な説明はしない。見ているこちらが考えるしかない。

それでも男たちは走り続ける。若松と足立がパレスチナで撮って来た「世界戦争宣言」のフィルムを持って自主上映のバスが出発するところで映画は終わる。

 

この映画、めぐみを真ん中に据えたことで、若松孝二とその仲間たちを描くと同時に、青春映画の顔も獲得した。しかも一級品だ。みんなが夢中になって突っ走るあの熱は今でも通じるはずだ。みんな何を撮っていいのか解らないのだ。したり顔でいえば、それが青春なのだ。

あんな熱い日々を持てたことを羨ましくも思う。あんな熱い日々が僕にはあったのだろうかとブーメランが還る。

オッパイは丸出し、当時のピンク映画の映像 (模して取り直しているものもあるか?) も挿入される。こんなに裸が氾濫しながら何と清々しいことか。多分現実はもっとドロドロしていた。その現実から実に上手くエピソードを抽出して、エネルギッシュでしかも清々しい話に纏め上げた脚本 (井上淳一) が良い。いつもながら余計な説明を省いてテンポ良く繋ぐ白石監督の演出が良い。

そして門脇麦。彼女の顔はどこかメランコリックだ。それが時に役との間で違和感をつくる。これまで門脇を良いと思ったことが一度も無かった。この映画で彼女が持つメランコリックが初めて生きた。どう頑張っても明るく振舞っても孤独が漂うめぐみは、ハマった。こういう役に巡り合えた、これは役者冥利だ。

若松が海外に行っている間にめぐみや若手が金庫から金を出して飲み食いし、夜どこかのプールに忍び込んで裸になって大騒ぎする、キラキラした良いシーンだ。

 

僕はめぐみだけはフィクションかと思っていた。このブログを書く為に「女学生ゲリラ」がいつの製作か、あまり使ったことのないネット検索というのをやってみた。そこに助監督として、「吉積めぐみ」のクレジットがあった。モデルはいたんだ。なぜか胸が熱くなった。

 

映画に没入したこと、見てから大分時間がたってしまった等で、音楽の記憶が曖昧である。ただタイトルバックでEGがガツンと入ったのは、その通り! と思った。こういう映画にはEGが良く似合う。

時々聴こえる女声のハミング (門脇麦か?) というよりつぶやくような鼻歌、めぐみの孤独感がひしひしと伝わってきて効果的。よく聴くとジャズのフレーズなのだが、どこかカルメン・マキが唄った「時には母のない子のように」に似ている。「時には~」を使う手もあったかも知れない。

 

監督.白石和彌   音楽.曾我部恵一

2018.09.13「検察側の罪人」新宿ピカデリー

2018.09.13「検察側の罪人新宿ピカデリー

 

キムタク、ニノ、夢の競演が売り。人気者二人、スケジュールはピンポイントだったのだろう。脚本を詰め切れてないのは明らか。原田監督自身の強い思いの企画ならいざ知らず、そうでなければ脚本に第三者を入れるべきだった。三人寄れば文殊の知恵、客観性が出る。この多層で複雑な話、一回見ただけで一体どれ位の人が解るものか。早いカットでの展開、台詞による説明、必死に追ったが僕の理解力では着いていけなかった。

 

実の妹の様に可愛がり、また慕われもしていた少女がレイプの末、無残に殺される。犯人は逮捕されるが検察は物証を固めきれず、無罪釈放、そして時効。これをトラウマとして抱えるエリート検事・最上 (木村拓哉)。その部下として配属される将来を嘱望されている若手検事・沖野 (二宮和也)。

ファーストカットは失念、ただ最初の音楽は、女声のヴォーカリーズの様なSynのVoiceの様な、これから始まるこの映画の事件を予兆させて良い。メロディーもそうだが音色、あとでこれは二胡 (中国の弦楽器) であることが分かる。何故か最上が帰宅すると妻が二胡を弾いているシーンが出てくる。この妻役・土屋玲子、バイオリニストであり二胡奏者でもあり、映画の音楽を富貴晴美と共同で担当している人である。二胡がメロを取る劇伴はこの人の手になる曲なのだろう。珍しい楽器だから何か意味があるのかも知れない。僕には解らなかった。ただこの音色で全編を通すならと期待が膨らむ。

 

最上の深い拘りがもう一つ。祖父はインパール作戦に参加し白骨街道を生き延び、戦後その時死んでいった戦友の思いを書いて作家となった。その作戦がいかに理不尽なものだったか。社会の不正国家の不正、それに対する強い憤りがある。

日常の中で個人としての人間が起こす悪に対する正義、国や社会が犯す悪事に対する正義、最上はこの二つの正義への思いを抱えて検事となる。

 

今、目の前で金目当ての夫婦殺人事件が起きる。その被疑者の中に嘗て少女レイプ殺人で検察が詰め切れず釈放となった男の名前があった。松倉 (酒向芳)、いかにも悪党、というより少し異常性を漂わす。取調室の彼を見て、こいつが犯人に違いないと誰しも思うだろう。この役者、知らなかった。最上の憎悪が蘇る。

一方、代議士の娘と結婚し、法曹から政治の世界に転身し、今は代議士となっている学生時代の刎頚の友・丹野 (平岳大) が、金絡みのスキャンダルで窮地に立たされている。妻の父親は黒い噂が付きまとう政界の大物。丹野は義理の父の疑獄の証拠となる資料を持ち出そうとしてハメられたらしい。こちらは大きな正義を通そうと命懸けで戦う。検察も動き出している。大きな正義は時の政治に左右される。最上は検察の動きを密かに漏らしている。

最上が丹野に言う“君は好きだから結婚したのか、それとも政治的野望の為か”(不確か)

大物政治家は極右勢力と繋がりを持つ。

これだけの状況を端的に解らせるには、小説ならいざ知らず、限られた時間の映画では大変なことである。メインの話はあくまで日常の正義、時効をむかえてしまった少女殺しの犯人を目の前にして、正義の鉄槌を打ち下ろすという話だ。

 

後半からは荒唐無稽な現代版「必殺仕置人」へと飛躍する。沖野が強引な取調べで松倉に時効になった少女殺しを自白させる。しかし時効、裁きは下せない。夫婦殺しも松倉に違いない。最上の正義感と思い込みが松倉をぐいぐいと犯人に仕立て上げていく。酒向芳の怪演が、さもありなんと思わせる。最上は沖野が研修生の頃、思い込みが冷静な捜査の目を曇らせると教えていた。沖野に最上への疑念がわく。そんな時、唐突に真犯人として弓岡 (大倉孝二) が浮上する。飲み屋で夫婦殺しを自慢げに話していたというのだ。随分と都合の良い話だ。弓岡が真犯人となるとまたしても松倉を法の下で裁けないと考えた最上は、弓岡を殺害する。こうなると検事などではない、必殺仕置人、あるいはただの復讐鬼。ピストルやら何やらの手配段取りは裏社会の便利屋・諏訪部 (松重豊) が引き受ける。諏訪部の父親は白骨街道で戦死、最上と諏訪部はインパールへの思いで繋がっている。ギャング映画に必ず出てくる裏社会の便利屋、松重がいい味を出す。ここのところの松重は一時の大杉漣の様。引っ張りダコで外れがない。

この突然の荒唐無稽の展開、そのアリバイ工作の為、細かい説明シーンが次々に出てくる。別件逮捕、ガサ入れ、不都合な領収書をポケットにねじ込む最上、途中でどうでもよくなる。とても追い切れない。要は、少女殺しの犯人を別件でもいいから法で裁こうと、弓岡を殺して松倉を夫婦殺しの犯人として仕立て上げるという最上のストーリーだ。弓岡の死体を埋める為に必死で穴を掘る最上はどう見ても尋常ではない。

最上に疑念を抱いた沖野が反旗を翻し、松倉は犯人ではないことが証明される。どんな証明だったかは忘れた、解らなかった。

松倉の無罪獲得を祝うパーティーが開かれる。そこで白川 (山崎努) が挨拶に立つ。この人てっきり右翼の大物だと思った。この男が丹野の義父の代議士と繋がり、インパールへと繋がる。松倉はその末端、そうして大きな悪と小さな悪が一つの流れとなる。そんなストーリーを勝手に作って見ていた。ところが何と白川は冤罪阻止の人権派の大物弁護士だった。山崎努の出番はここだけ。物語の中心には関わらない。

松倉は怪しげな交通事故で死ぬ。諏訪部の段取りである。

これだけのことをやりながら最上は相変わらず検察官である。沖野はどこまで把握しているのか。訪ねてきた沖野に最上は自殺した丹野が残したメモを示す。命と引き換えに丹野が残した義父の代議士の悪事の記録である。この件を一緒に命がけでやらないか? なのか。俺はもうじき逮捕されるからこれを頼む、なのか。大悪小悪、大小問わず法律を犯してでも正義を通す為には誰かがやらなければならない、なのか。

沖野が不条理な叫びを上げて映画は終る。ユーモアの欠片もなくホッとする所もないまま方的にまくし立てられて終ってしまった感じ。

実はここまで書くのに初めてネットで数多ある映画のブログを見てしまった。基本的に人のブログは見ないことにしている。PCを使いこなせていないということもある。初めて映画のブログを検索してあまりの多さに驚愕。そして粗筋なるものが細かく書かれているブログがあることに驚いた。こういう人は一回見ただけでこんなにも細部までストーリーを把握するのか。僕の何十倍も話を理解している。幾つか参考にした。そうでなかったらこんなに話をきちんとは書けなかった。一度見ただけでよくここまで話を理解するもの…

 

例えば、松本清張 (原作)、橋本忍 (脚本)、野村芳太郎 (監督) の作品には、罪は罪としながらも、どうしようもなく殺人犯への同情がわく。犯人に感情移入が出来る。殺すことになってしまった理由が見ている側が納得するように丁寧に描かれる。法の裁きが理不尽とさえ思える。

最上が執拗に松倉を追い詰める、ついには法の手を経ずに殺す、これにどの位の人が納得して、解るよなぁ、その気持ち、となれるか。その為には少女と最上の関係がしっかりと描かれていなければならない。事件がいかに酷いものだったかが伝わってこなければならない。時効という制度の是非も。この大元が希薄なのだ。

インパールやら丹野の政治的不正の追求やら、こちらはさりげなく挟んで物語に深みを作る程度で抑えて、まずは本筋をしっかり描かなくては。このメリハリが脚本で詰め切れてない。未読だが膨大な原作なのだろう。その中から核となる物語をしっかり押さえ、後は捨てるか匂わせる。百戦錬磨のプロに釈迦に説法とは思うが、それが原作物映画化の基本。本作りに第三者が入っていればこんなに満遍なく焦点絞らずエピソードを並べ、話の辻褄合わせに振り回され、ただ尺だけを喰ってしまう、こんな脚本にはならなかっただろう。時間がなかったのかも知れないが…

 

音楽は冒頭の二胡の曲は時々出てくるものの、全体のトーンはラテン、オケの上にボンゴやコンガ、マリンバ等のラテンパーカッションが載る。ラテンムードミュージックと言った感じ。オープニングとエンディングに流れるメインテーマはマイナーの古臭いメロの曲だが映画には合っている。イイ感じで朗々と流れるが、途中のシーン替わりでバサッとカットアウト (CO) する。COの衝撃が演出効果を作っていると言うわけではない。ダビング (音付け作業) は素人がやっている訳ではないから監督指示の確信犯的COなのだろう。一体どういう効果を狙ったのか。

「タブー」「グリーン・アイズ」「パーフィディア」というラテンの名曲が、BGMとかカーラジオとか劇中音楽ということではなく、劇伴扱いで、かなりオンで流れる。突然「タブー」が流れて、確か丹野と最上が高級ホテルの一室で密会するシーンではなかったか (不確か)。一瞬二人はホモかと思った。

既成曲はすでにそれ自体が色を持っている。はっきりとした狙いがあって使うと大変な演出効果を生むが、単なる音源として劇伴扱いで使うと無様なだけだ。既成曲の力が心地よい流れを作り絞り難く、ついつい長く付けてしまう。その間の映像が持つドラマはノッペリと平坦になり、極端に言えば音楽ビデオの背景映像の様になってしまったりする。全体を見ずそのシーンに合うということだけで音楽を付けてしまうとダメなのだ。

既成音源ではなく新録しているよう。メロを譜面通りにきちんと演奏してフェイクするようなところはなく、古臭いラテンムード音楽のスタイル。これもわざわざ狙ったのだろうか。

 

編集が思ったように行かず、最後の手として強引に既成曲の力を借りて流れを作ったとしか思えない。デビッド・フィンチャー、日本では中島哲也などが、オリジナルや既成曲をゴチャマゼにして強引な音付けをして、上手くいってない映像を何とか力技で見せてしまうということをする。でもこれは音楽に精通していることと、充て方が神業的に上手いことと、全体がそのトーンで音付けされている、ということが揃って成立する。原田監督は音付けの悪あがきを「関ケ原」でもやっていた。音楽の少ない原田作品は「わが母の記」(2012)も「駆け出し男と駆け込み女」(2015)も「日本の一番長い日」(2015)も良い出来だった…

 

少女にまつわる回想で、子供たちが歌を唄うシーンが出てくる。綺麗な合唱ではなく自然に思い思いに。その曲が「Cry me a River」(ジュリー・ロンドンが唄って1950年代にヒットしたスタンダードの名曲)、この選曲は何なのか。川に向かって立ちすくむ少女の後姿のカットがある。それに合わせたとでもいうのか。こんなスタンダードナンバーを子供が唄うわけない。時代的にも1950年代の曲、最上が学生の頃ではない。時代が合わなくても子供が唄う歌でなくても、シーンに合っていて演出効果があれば良い。全く合わない。違和感だけだ。監督の思い入れなのだろうか…

 

キムタクもニノも吉高由里子 (冤罪の父を持つという役) も、熱演なのだろうが、結果として良かったとは思えない。好きな俳優だが大倉孝二はミスキャスト。

 

丹野の葬式ともう一箇所 (?) に大駱駝艦の舞踏の人たちが映っていた。あれは何なのだろう。日本の暗部の象徴とでもいうのだろうか。

 

監督・脚本. 原田眞人  音楽.富貴晴美土屋玲子

2018.08.27 「カメラを止めるな ! 」 TOHOシネマズ新宿

2018.08.27「カメラを止めるな ! 」TOHOシネマズ新宿

 

ユーロスペースに行ったら満席、次の回も立ち見です、この歳で立ち見はキツイ。拡大公開になってTOHOシネマズ新宿に行ったらまた満員、次回も満員です。先日ようやく観ることが出来た。左端、前から3列目。これは映画を正しく見る環境ではない。取り敢えず見る。端から見るスクリーンは歪で音も抜けが悪い。しかし始まるとそんなの気にならなくなった。もともと全編手持ちカメラでブレまくり、音はモコモコで台詞も良く聴きとれない。でも映画にはそんなことを忘れさせる力があった。

 

廃墟と化した化学工場跡の様なところ、ゾンビ映画の撮影中。ヒロイン逢花 (アイドル・秋山ゆずき) の恐怖の顔が気に入らなくて何度もやり直してTake40、堪らなくなって助監が “休憩にします!” 監督 (濱津隆之) の入れ込みようは半端ではない。神谷 (売り出し中のイケメン・長尾和彰) が逢花を慰める。さりげなく “今夜行っていい?” あっ、「ラジオの時間」(1997 三谷幸喜監督作品) だ。パニックするプロデューサー西村雅彦がAD (奥貫薫) にそれとなく同じ台詞を言っていた (正確ではない) 。

ここ、戦時中人体実験が行われたところなんですって、と記録のオバサン晴美 (監督の妻・しゅはまはるみ) が言う。そこに突然ゾンビが現れ、スタッフの一人を襲う。それからはグチャグチャだ。画面に編集の痕跡がない。手持ちカメラのワンカット回しだ。逢花は悲鳴を上げ、監督は “それだよ、その表情だよ、出来るじゃないか” と喜ぶ。噛まれてゾンビ化したスタッフがドアから出たまま襲ってこない。何か間が抜けている。すると晴美が突然TVで見たという護身術 “ポン” を披露する。何だ、これは? 手持ちカメラだけが慌しく動く。ようやくゾンビ登場。カメラは繋がりもヘッタクレも無く強引にドアから入って来るゾンビにパンする。

ゾンビが外に飛び出す。カメラも後姿を追って一緒に飛び出す。走り回った末、草むらで画はローアングルのフィックスとなり、走り去るゾンビがフレームアウトした後もそのままローアングルでカラ舞台を映し続ける。初めてのフィックス、目まぐるしい画面の連続だったので、落ち着いた画面にホッとした。暫くそのまま、画面からゾンビが消えてかなり経つ。走り去ったゾンビが再びフレームインしてくるのか。ちょっと長すぎる。突然カメラが起き上がって見失ったゾンビの後を追う。

ハラハラドキドキというよりシッチャカメッチャカ。最後は屋上、ゾンビ化した神谷の首を切り落として血しぶき浴びたヒロイン逢花のクレーンカット。そこにローリングタイトルが被る。何が何だか分からない目まぐるしさ、草むらローアングル以外、動き回りブレまくるカメラ。美男美女とは言い難い無名の俳優、いかにも自主映画スタッフといった感じの、スタッフ役の役者達 (役者なのかスタッフがそのまま演じているのか?) 、何なんだこれは!

 

ローリング終了と同時に『一か月前』というテロップが入る。そこから前半30分の訳分からない映画の製作に至る種明かしが始まる。伏線の回収なんて知的なものではない。種明かしだ。

監督は、早い安いソコソコが売りの、再現ドラマやカラオケ映像で食いつなぐ、若い頃の情熱を失ってしまった人。妻は元売れない女優、思い込みが強すぎて敬遠され仕事は自然になくなった。今でも夫の仕事の脚本は100回読み込む。カエルの子はカエル、娘も映像制作に携わるが、母親譲りの思い込み、周りと折り合いを付けられず、スタッフから疎まれている。

そこに新たに開局するゾンビチャンネルの開局記念企画、30分生放送全編ワンカットのゾンビ映画という企画が持ち込まれる。それが前半のシッチャカメッチャカ映画だったわけである。

この状況説明の一連、ほとんどTVの再現ドラマレベル、ノッペリと平坦、演出以前。しかし前半と後半のブリッジとして、意図的なのか偶然か、このノッペリ感は案外効果的だったかもしれない。

後半は前半の映画をバックステージから捉える種明かし篇。

 

映画は通常細かいカットで構成される。どのようなカットの積み重ねでシーンを作るかは映像作家の文体のようなものだ。その中に最もシンプルかつ困難なワンシーン・ワンカットという方法がある。一つのシーンをカメラを止めずにワンカットだけで撮り切る方法。

例えば二人だけの会話のシーンでもカメラを止めずに撮るから、話す二人の表情を撮るにはカメラが行ったり来たりしなければならない。それに伴い照明も変わる。録音のマイクは写り込まないようフレームの外を逃げ回る。隅にチラっと写ろうものならカメラマンに怒鳴り付けられる。役者もワンシーンの台詞や動きを全部覚え込んで、止まることなく演じなければならない。スタッフキャストは大騒ぎだ。

まして動きの大きいゾンビもの、その上ワンシーンではなく、全篇をワンカットで撮るというのだ。想像を絶する困難さである。

 

例えば、腕を切られたゾンビ、右手が吹っ飛ぶ。カメラが床に落ちた腕を映す。その間に肩から先の無い作り物を付けて血のりを頭からかける。カットが割れれば床に落ちた腕を写したところでカット、ゆっくりと肩から先のない作り物を付け血のりを被って、そこから、ハイスタート! となる。ワンカットだとそうは行かない。しかも同時生放送。いつまでも床の腕を写す訳にはいかない。悲鳴入れて時間稼ごう。脇の女優が悲鳴を上げる。まだ準備出来ない。カンペにもう一回の指示、不自然な悲鳴が何回も繰り返されたとしたら裏にそんな事情があるのだ。

事ほど左様にワンシーン・ワンカットはスタッフキャスト共に、秒単位の打ち合わせが必要なのだ。それが全編しかも同時放送、前半の30分映画はそんな最上級の困難の縛りの中で作られていたのだ。そんな事情が分かると見方も変わって来る。

どんなに綿密に打ち合わせをしても必ずアクシデントは起こる。スクリプター役の女優が渋滞にはまって間に合いそうもない。生放送、開始を遅らせる訳にはいかない。脚本が頭に入っていて元女優、監督の妻晴美が急遽スクリプター役になる。

撮影開始! カメラ回り出す。もう止められない。出てくるはずのゾンビが出てこない。何でもいいから引き延ばして! のカンペ。そこでスクリプター・晴美がやったのが最近ハマっていた護身術 “ポン” である。この頃になると笑いが止まらなくなっていた。声上げて笑っているのは私だけ。撮影現場を多少知っている人の方が笑えるのかも知れない。

“私はいいんですけど事務所が…” のアイドル逢花、“ここは変えて下さい、理屈に合わない” と理詰めでゴネるイケメン神谷、"でもそこは…、分かりました、そうしましょう!” のソコソコ監督。居る居るアルアルの連続、その都度笑いながら頷く。

 

ローアングルのフィックスはカメラマンが転んで、カメラが草むらに放り出された為だった。暫くして撮影助手の女の子がカメラを拾い上げてゾンビを追う。

プロデューサーは「ただ今事故により放送が中断しております」(不確か) という非常事態用テロップを用意していた。ドタバタで話も繋がらなくなり非常事態、プロデューサーからテロップの指示が出た。“待って!” 娘が台本をめくり乍ら、ここをカットしてこのシーンへ飛べば話は繋がる! 直ぐに現場に指示が飛ぶ。テロップは使わないで済んだ。

最後は屋上、ゾンビになってしまった愛する神谷の首を切り落として空を見上げる逢花のクレーンカット (クレーンを使って高いところから撮るカット)。ところがクレーン機材が落下して使えない。プロデューサーがクレーン無しで行こう!  この時ばかりはソコソコ監督が意地を見せた。どうしてもクレーンで撮りたい。そんな父を見直す娘。さりげなく家族の話にもなっているのだ。なんと我が目頭が熱くなってしまった。お父さんは娘を育てる為にソコソコと言われながら頑張ったのだ。

“手の空いているスタッフキャストは屋上に集まってください” 屋上に築かれた人間ピラミッド、そのテッペンから、血のり滴る逢花の、クレーンカットならぬ人間ピラミッドカット、放送終了まであと5秒、崩れずに持つか、4, 3, 2, 1 無事放送は終了した。ピラミッドを作るみんなの目はゾンビだった。映画作りという毒に感染してしまったゾンビたち。映画に憑りつかれてしまったゾンビたち。

 

観終わって爽やかさが残った。「ラジオの時間」(こちらはラジオの深夜放送が舞台) の、喧嘩や言い争いが散々あった後、放送が何とか終了して、夜の明け始めた街へみんなそれぞれに “お疲れ様、また仕事しようね” と散って行く。あの性懲りもないラジオマンの爽やかさに似ている。

「ラジオの時間」を意識しているのは確かだろう。しかしあちらは潤沢な製作費とズラリ揃えたスター、技術も一流スタッフを揃えて、画面はクリア音もスッキリ、とっても面白く洗練されていた。

こちらは自主映画、お金は無くノンスター、技術的にも至らない所多々。しかしそれを逆手に取って、30分生放送全編ワンカットという設定にした。これで諸々の不備や技術的稚拙さは設定の中に吸収されて、逆にそれがリアルとなる。何と頭の良い設定なことか。撮影現場で日々行われていることが、傍から見るとドタバタの抱腹絶倒喜劇であること、それを夢中になってやっている大の大人はみんな映画に憑りつかれたゾンビであること、何と映画愛に満ちたことか。

 

音楽、EGがガンガン飛ばしてノリを作る。ドラマに付ける云々ではない。ノリが大事だ。それ以上の細かいことを覚えていない。映画に圧倒されてしまい、音楽の細かいところに気が回らなかった。上手くいっていることだけは確かだ。

 

監督.上田慎一郎  音楽.永井カイル  メインテーマ.鈴木伸宏、伊藤翔

2018.08.28「銀魂2 掟は破るためにこそある」丸の内ピカデリー

2018.08.28「銀魂2 掟は破るためにこそある丸の内ピカデリー

 

パチンコのプロの話だと思っていた。前作は観てない。原作が漫画らしいことは想像がついた。パチプロの話ではなかった。

テレ東深夜で福田雄一の名前は知っていた。福田のドラマはペラッペラで有ること無いことをその場の勢いで話して、でもそれが視聴者との地続き感を作り出していて、深夜TVというワクに合っていて、笑えたし面白かった。言葉の面白さだと思った。面白い言葉のアイデアが湯水の如く湧く人なのだろう。時空を越えて出来る限り突拍子もない話にする。それをリアルとは真逆の安手の作り物感を前面に出して表現する。その上に気の利いた言葉が躍る。ストーリー性を持たせたバラエティー、こんな人が出て来たんだ、と思った。同じテレ東深夜から登場した大根仁とは真逆だ。

この面白さは映画で可能だろうか。福田の映画、僕は初めてである。

 

冒頭、ナレーションで、昨年の日本アカデミーの主演男優賞は菅田将暉だった、去年の邦画の興行成績は「銀魂」が第一位で、でも主演の小栗旬は賞にカスリもしなかった、そんなやり取りが小栗と菅田の掛け合いで捲し立てられる。ワーナーのスタジオのロゴ画が何度も出てくる。これがアバンだ。バックステージばらしの自虐ネタ漫才だ。少し笑えた。TVだったらもっと笑えた、きっと。

本筋の冒頭は大家のババアお登勢 (キムラ緑子) のドUPで、家賃払え! 金稼ぎの為に開くことになるキャバクラ、そこに登場するのが、福田組のレギュラー佐藤二郎。例の調子で矢継ぎ早にアドリブの乱れ撃ち。TVで初めて見た時、何て面白い奴だと思った。それから何年経ったか。相変わらずのワンパターン。ワンパターンが悪いとは思わない。TVで見れば今でも可笑しい。ただ、これは映画だ。真っ暗な中でこちらの感度は上がっている。口から出まかせペラペラ言葉は頭の上をちょいとカスっただけで通り過ぎてしまう。少しも笑えない。しかも長いクドイ。映画館で僕が期待するものとは異質だ。それはこの映画全体に言える。TV的ノリをお金をかけて盛大にやってもただただ上っつべりをするだけ、頭にも心にも沁みない。

 

話は一応、真選組の内紛。近藤勲 (中村勘九郎) が出てきて土方十四郎 (柳楽優弥) が出てきて沖田総悟 (吉沢亮 ) が出てきて桂小太郎(岡田将生) が出てきて、高杉晋助 (堂本剛)、徳川茂茂 (勝地涼)、平賀源外(ムロツヨシ) まで出てくる幕末人気者オンパレード。そこに小栗旬菅田将暉と橋本環奈が絡む。裏切り裏切られ、でも最後は友情の熱い絆である。絆はCGの発光する線で視覚的に現わされる。マッドマックスもどきあり、西部劇の列車のアクションあり、未来都市を背景にしたスターウォーズもどきの一騎打ちあり。時代考証何てなんのその、ポップで破天荒、何でもありのギャグだらけ。

役者にはそれぞれ見せ場もあり、みんな楽しそうに演じている。一人、異質の歌舞伎芝居をする勘九郎 (それを狙ったキャスティングか) が、いつもは浮くのが、妙にこの軽~い映画の重しになっている。

 

言葉や瞬間芸や思いつきなどの小技、TVはこれが命だ。リアルタイムのメディア、TVにはしっかりとしたドラマは向いていない。あっても良いがメディアの本来の特性には合っていない。

逆に小技は映画では弾き飛ばされる。大枠がしっかりしたところにチョコっと出る小技は効く。が小技を集めただけでは映画は成立しない。TVと映画では見る側の感度が違うのだ。

暗闇、大きなスクリーン、大きな音、片や明るい茶の間でお煎餅バリバリ食べながら。前者は感度が上がり、より繊細な表現が可能となる。後者は日常のゆるい集中力の中で、より単純に分かり易く、刺激的で短い表現となる。バラエティーの5秒トークである (バラエティーのトークは5秒以内、10秒しゃべると流れが止まる)。

そこだけ切り取れば笑える所は一杯ある。いわばコント集。それを一応はある筋に則して置いていく。でもそれを映画としてひとつに纏める腕力がない。

数日前、「カメラを止めるな!」を観た。こちらもドタバタ、けれど身体を張ったドタバタ、言葉の小技ではない。背後に溢れる映画愛がある。

 

この映画、フカフカの安物のお煎餅を食べている様、味に芯がない。それでも劇場にはフカフカ煎餅食べて喜んでいる女の子たちが沢山いた…

 

ドタバタ映画は好きである。「モンティパイソン」は大好きだった。歳をとって僕の感性が保守的になったのかも知れない。何度もそう疑った。でも掟破りのギャグを、掟破りということだけで喜んでいたのだ、あの頃は。ガツンと来る映画は、いくら人気者を揃えても、いくら思いつきアイデアを並べても、いくらお金をかけても、気の利いた言葉を並べても、それだけでは成立しないのだ。

 

役者は総じて生きいきとしている。同世代が集まって、現場は楽しかったのかも知れない。

小栗旬はちょっと良いなと感じた。少し風格が出て来た。

 

音楽、時々大きい編成が聴こえた。全部Synかと思ったら生オケも使っているよう。この映画に生は贅沢! ドタバタの背後で鳴らすだけの音楽は作曲家にとって、楽しい仕事ではないはずだ。

 

監督. 福田雄一   音楽.瀬川英史

2018.08.20 「オーシャンズ8」丸の内ピカデリー

2018.08.20「オーシャンズ8丸の内ピカデリー

 

暫く映画から遠ざかっていた。久々の復帰。まずは軽めの作品で。

これ予告編を観て、絶対観ようと思っていた。予告編の音楽が「旅立てジャック」だったから。’60のオリジナルではなく今風カバーだったが、こんな曲を使うなんて見逃せないと思った。

僕はこの曲をデューク・エイセスの歌で最初に聴いている。TVでだ。聞く音楽は歌謡曲&少し洋楽の日本語カバーという頃だった。「ダイアナ」も「カレンダーガール」も「バケーション」も「悲しき街角」もみんな最初は日本語カバーで聴いた。邦楽も洋楽も僕の中では未分化だった。そんな時の「旅立てジャック」である。デューク・エイセス (お若い人の為に。日本の男声ジャズコーラスグループの草分け) は確か英語で唄っていた。AメロBメロがありサビで盛り上げる、というパターンの曲しか聞いてなかった僕には衝撃だった。シンプルな短いメロを転調して半音づつ上げて行くのも衝撃だった (デューク・エイセスはそういうアレンジで唄っていた)。レイ・チャールズのオリジナルを聞くのはずっと後である。あまりに違う、あまりにファンキーなのに驚いた。確か尾藤イサオも日本語で唄っていたのではないか。僕にとっては、ゴスペルやR&Bやブルース、さらにはジャズにつながっていく入口となったのがこの曲である。

でも映画本編には無かった。映画は既成曲だらけ、一所懸命捜すも「旅立てジャック」は見つけられなかった。聞き逃したか。本編には使われなかったか。

 

お話は見る前から分かっている。それぞれ特技を持つ、若くはない女たちがハリウッドセレブの首から何億円だかのダイヤの首飾りを盗む話である。前半はデビー・オーシャン (サンドラ・ブロック) が「七人の侍」よろしく仲間のスペシャリストを集める話、後半はデビーが刑務所で5年8か月と12日をかけて練り上げた計画を実行に移し、不測の事態もクリアして見事盗みに成功する、という話である。それをいかに見せるかだ。

仲間集めは一人一人にしっかりとエピソードを作って描いていくという程ではない。かなりサラッと尺を取らない様に描く。自分の能力を発揮出来ないでいるというのはみんなに共通。だから犯罪であることも意に介さず、この話に飛びつく。生活の為という匂いは無い。随分簡単に集まってしまったので仲間意識は大丈夫かと心配になる。男は裏切るが女同士は裏切らないということをしっかりとこの映画のテーマにして、それを示すエピソードがひとつぐらいあっても良かったか。

畳み掛けるような早い展開、余計な説明は省いて、小気味よく進む。様々なハイテク小道具が出てきて良く解らない所もあるが、解る必要はない。

 

音楽は’60 ’70のヒット曲を散りばめた、いわば懐メロ映画音楽である。日本で言えば大根仁あたりがやる方法である。オリジナルをそのまま使っているものもあれば今風カバーもある。その合間を劇伴が埋める。劇伴は「オーシャンズ11」をレスペクトし踏襲する。ネットで「~11」のプロローグを観たが、カット割りカメラアングル等、画面はほとんど同じように作っている。音楽もスネアのリズムを一貫させて「~11」のイメージを踏襲している。詳しいマニアが見比べれば音楽を継承している部分はもっと解るはずだ。何よりリズムが打ち込みでないのが良い。打ち込みなんかでやったらシナトラ (初代オーシャン) に失礼だ。どことなくレトロなのはその辺にある。作り手はしっかりとシナトラ版への敬意と、「~11」からの流れの継承を第一に考えている。

 

描く時代に合わせて当時の楽曲を散りばめる、これは従来のグラフィティ―物の考え方、でもこの作品は今の物語、懐メロ使って時代の色合いを出す必要はない。しいて言えば8人が青春だった頃の曲かと思いきや、ちょっと時代が合わない。既成曲はどういう基準で選んだのか。映像と合うということはもちろんだが、それだけではないようだ。

「にくい貴方」(These Boots Are Made for Walking) が流れた時には驚いた。僕はこの曲も子供の頃衝撃を受けた曲の一つである。こんな抑揚のないポピュラーソングってあるのか、ベースの半音ずつ下降する間奏も、これまでに聞いていたポピュラーの概念の中には無かった。何という選曲、渋い! (古い言い方でゴメンナサイ)。 考えたら、これVocalはナンシー・シナトラで、シナトラの娘だ。サミー・デービス・JRでヒットした曲もあったような(不確か) 。「小さな花」(クラリネットの曲、日本ではザ・ピーナッツが日本語歌詞を付けて唄った) もあった。おそらくマニア (今はシネフィルと言うのか) にはもっと深い因縁繋がりが解るはずだ。

クライマックス、メット・ガラのパーティー、そのBGMは耳馴染んだ曲、あれ、この曲何だっけ? 思い出せずにモタモタしていたら映画に置いてきぼりを喰った。ローリングで必死に既成曲リストを見ていたら、あった! 「ララのテーマ」(「ドクトル・ジバゴ」作曲.モーリス・ジャ―ル) 、でもこの因縁は何なんだろう。づっと考えているのだが解らない。カメオでテニスのシャラポアが出てたらしい。僕は気が付かなかった。それに合わせた? まさか!

アンジー・ディキンソンやヘンリー・シルヴァもカメオで出ていたらしいが、BGMに躓いて全く気付かなかった。勿体無いことをした。

どうもそういう仕掛けが音楽にも映像にも随所にあるようだ。でもそれとは無関係に知っている懐メロが流れると ”わー懐かしい” となるもの。アメリカのおばさんたちはそれだけでも喜ぶはずだ。

マニアックな仕掛けと ”ワ~懐かしい” を取り去って、全篇をオリジナルの劇伴でやる手だってある。それが本来だ。するとどうなったことだろう。痩せたものになってしまったかも知れない。

 

デビーの片腕ルー・ミラー (ケイト・ブランシェット) の描き方がイマイチだった。以下勝手な想像。実はデビーもルーも同じ男ベッカー (リチャード・アーミテイジ) に騙されて痛い目に合っていた。二人とも若干の未練は残っているものの、男を捨て友情を選ぶ。そこにダフネ (アン・ハサウェイ) が加わって、三人がかりでベッカーをハメて復習するなんてことが裏ストーリーとして隠されているとか…

ベッカーに馬乗りになるアン・ハサウェイが凄い!

 

サンドラ・ブロックの顔が苦手である。佐清(スケキヨ、「犬神家の一族」)とマイケル・ジャクソンの系統だ。「ダーティーハリー」で殉職した頃からあんな顔だったから、その後整形したとも思えないのだが… 先天的整形顔か。

落ち目のデザイナー・ローズのヘレナ・ボナム・カーターが変幻自在、”コミカル” を一人で背負っている。黒くデカいマルメガネのサングラスでいつも誰かの脇に居る。どれ位映画を和ませていることか。

誰も死なない、盗みは成功、女たらしの裏切り男は見事にハメた、ダニー兄貴もさぞ喜んでいることだろう。

 

どこかに既成曲リストはないものだろうか。そして多分居るだろう、オーシャンズオタクのシネフィルが因縁の有無を細かく解説してくれると嬉しい限り。

 

一箇所、終わりの方、水の中に落ちた宝石を潜って拾うシーン(不確か)、音楽(既成曲だったか劇伴だったか) が、カメラが水中に入ると共に水中音処理となっている。気が付かないかも知れないが、あれは笑えた。コメディーだったらあのアイデアは使える。滅多にチャンスはないが。

 

 

監督. ゲイリー・ロス   音楽. ダニエル・ベンバートン

2018.07.26 「女と男の観覧車」 丸の内ピカデリー

2018.07.26「女と男の観覧車」丸の内ピカデリー

 

ウッディ・アレン師匠のNYマンハッタン亭、今宵のお噺はケイト・ウィンスレットを主演に迎えてのロングアイランド物語、相変わらずの軽妙洒脱な語り口、これ既に名人の域、まずはその芸をご堪能あれ。

1950年代、盛りを過ぎたロングアイランド、舞台女優の夢破れ、遊園地職員のハンプティ(ジム・ペルーシ)と一緒になったジニー(ケイト・ウィンスレット)、前夫との間にガキ一人、ハンプティにも前妻との間に娘ひとり、ともに再婚同志。娘のキャロライナ(ジュノー・テンプル)は二十歳そこそこで性悪のギャングと駆け落ち。それが突然戻って来たところからお噺は始まる。殺されるかも知れないという娘を始めは突っ返すハンプティ、だが可愛い娘、結局は一緒に住みだす。それでなくとも演劇からは最も遠いところで生きるハンプティにジニーは違和感を感じていた。そこにキャロライナが加わって一触即発。白馬の騎士宜しく颯爽と現れたひと夏のアルバイト監視員のマッチョ男ミッキー(ジャスティン・ティンバーレイク)、大学で演劇を学び、将来は劇作家を目指す。シェイクスピアから始まり、チェーホフテネシー・ウィリアムズと来れば、ジニーがコロッと行くのはいと容易。海の家(アメリカでは何と言うのだろう)の影に隠れての密会、浅はかと笑うなかれ、ジニーは現実からの脱出を夢見てしまう。ミッキーの演劇はナンパのネタだったか、若いキャロライナを見た瞬間、心はそっちへと走る。義理の娘に男を取られた。ジニーは狂う。それでなくともテンションは高め、身振り手振りも大仰で演劇的だ。全てがハンプティにもミッキーにもキャロライナにもバレる。舞台衣装らしきものを着てメイクをして、ミッキーに朗々と捲し立てる姿は哀しくも鬼気迫るものがある。ケイト・ウィンスレット、大熱演だ。

 

ケイト・ウィンスレットは気品のある綺麗な顔の持ち主、「愛を読むひと」を思い出す。だが僕は全く別の下らないことが気になって仕方なかった。何であんな頑丈な体躯をしているのだろう。夢破れた中年女だからスレンダーである必要はない。でも肩幅広く、厚い胸板、しっかりとした腰回り、身体が儚さを拒否している。その身体で演劇的大仰を演じている。熱演なのだがどうしても入り込めなかった。

キャロライナは胸を強調してお尻を振って、アメリカンバカ娘の典型、自分のことを“アタイはね”と言うのではと思っていたら、後半意外にも夜学に通い堅実、尻軽ではなかった。尻軽はギャングとの間で卒業したのだろう。芝居も唯一普通の映画的テンション。大仰肉厚な役者と芝居に囲まれて、唯一映画的で爽やかささえ漂わす儲け役だった。

音楽は全て50年代の既成曲。師匠の選曲と変幻自在な充て方は右に出るもの無し。洋楽を聞き始めた僕はちょっと背伸びして僕の世代の少し前のこの頃の曲を随分聴いた。ミルス・ブラザース、ライチャス・ブラザース、そんな名前が浮かぶ。解った曲名は「ブルーレディに赤いバラ」「キッス・オブ・ファイアー」位。でもどれも耳馴染んだ曲ばかり。ローリングの既成曲リストをゆっくり見たかった。男声ジャズコーラスを中心に選ばれている。

 

ジニーの連れ子のクソガキが出てくる。このガキ、ストーリーに関係なく突然現れて、いつも火を付けて回る。電柱、ゴミ箱、納屋…、幸い大火にはならずに済んでいる。こいつの意味は何なんだろう。あまりにシュール過ぎて解らない。まるで赤塚不二夫の考え出すキャラクターみたいだ。でもこいつが居るので映画が面白くなっていることは確かだ。師匠の語り芸の真骨頂。“火事小僧!”

 

 

監督・脚本.ウッディ・アレン   音楽クレジット無し

2018.07.02 「万引き家族」 Tジョイ大泉

2018.07.02「万引き家族」Tジョイ大泉

 

この監督の手に掛ると何で子供たちはこんなに生き生きとするのだろう。お兄ちゃんは見事に演技をしているし、妹は演技を越えて役その物として存在している。書かれた台詞を言っているのではない。恐らく設定を与えてその中で自由にやらせ、それを拾っていく、ドキュメンタリーの手法なのだろう。それにしてもあまりに自然でリアル、言葉もない。

血の繋がりというのは人間が作り出したフィクションの最後の砦だ。これが崩壊したら人間は拠り所がなくなる。だからみんなで必死に血の繋がりを守ろうとする。是枝監督は“家族”というものをずっと追い続けている。「そして父になる」(拙ブログ2013.10.11)では血に依らない家族に言及した。この映画はそれに連なる。

 

前夫(と言ってもとっくに死んでいるおじいさん)の実家に金をせびり乍ら、この寄せ集め家族の精神的支柱となるお婆ちゃん(樹木希林)、お婆ちゃんの年金を充てにして転がり込んでいる治(リリー・フランキー)と信代(安藤サクラ)夫婦、二人が拾ってきた翔太(城桧吏)、お婆ちゃんが引き取った、実の親と上手くいかない血の繋がらない義理の孫(こんな言い方はあるか?)の亜紀(松岡茉優)。映画は治と翔太が真冬のアパートのベランダで一人遊びをしていたゆり(佐々木みゆ)を拾ってしまうところから始まる。大人はみんな日雇いや臨時雇いや風俗などで必死に働く。子供は治の指導の下、万引きで家計を助ける。昔ながらの木造のボロ屋で血の繋がらない寄せ集め家族は、食うや食わずながら楽しく暮らす。

おそらく終戦直後の東京のバラックにはこんな寄せ集め家族が一杯いたはずだ。家族を失くした復員兵、空襲で焼き出された人、戦争孤児、パンパン。僕は上野のガードの浮浪児を実際に見たギリギリの世代である。母親から、近くに寄ってはいけないよと言われた。徒党を組む奴も居ただろう。チンピラになった奴もいた。バラックだろうと公衆便所だろうと、雨露しのげて中心になる人が居た時、この映画の様に助け合って疑似家族を作った人は沢山いたはずだ。助け合わないと生きていけなかった。

それが少しずつ整理され、孤児は施設へ、大人は定職を持って、実の親と子による家族というものに整理されていった。怪しげな繋がりは淘汰され、血の繋がり至上主義で小奇麗に構築されていった。核家族、マイホーム主義、経済成長に連動して小奇麗な戦後社会が出来上がった。そんな社会の最先端に「そして父になる」の家族がある。是枝はここに鋭い匕首を突き付けた。血は水よりも濃いとは限らない。

これも経済に連動しているのだろうか。小奇麗な血の繋がり家族にほころびが見え始めている。ほころびは弱い所に現れる。経済の繁栄から取り残された人たちが、戦後のバラックよろしく血を越えて肩寄せ合って助け合う、小奇麗な側から見たら胡散くさい、そんな家族がこの映画の万引き家族なのだ。ここは法律の埒外、お婆ちゃんの年金以外国からの保護保障はない。整理される前のぬくもりだけはある。

 

ゆりはこの家族に馴染んだ。翔太から万引きの手解きも受けた。何かで役に立たないと居ずらいだろう、翔太はそう考えた。信代と風呂に入った時、二人とも同じような所に同じような火傷があった。ゆりは信代のその傷を愛おしそうに撫ぜた。この家族はみんな過去に哀しい思いを背負っている。だから肩寄せ合って生きて行く。

 

おばあちゃんが死ぬ。年金が無くなると生きていけないので治と信代が死体を必死になって床下に埋める。

“妹にはさせるなよ”という雑貨屋のオヤジ(柄本明)の言葉に翔太が躓く。思春期に差し掛かった翔太は自我と社会性を意識し出したのだ。この家族が未来永劫続くとは誰も思っていない。取り敢えず日々を助け合いながら楽しく生きて来た。万引き家族の家族としての役割の終焉が近づく。

万引きに疑問を持った翔太がワザとヘマをやり、それがきっかけで世間がこの家族を裁きズタズタに切り裂く。

刑務所の窓越しに信代が治に言う。“いいじゃない、この十年、お金には代えられない思いが出来たんだから”(不確か)。涙とはこういう時に流すもの。信代が翔太に、いつどこで拾ったか、実の親捜しの手掛かりになることを教える。

ゆりは実の親の元に帰る。失踪していた子が発見されたとマスコミが騒ぐ。実の親のゆりへの虐待が再び始まる。

 

音楽、細野晴臣、僕はちょっと不満である。高レベルの不満かも知れない。この映画は音楽無しで充分に成立している。物語と感情の流れは映像と音が完璧に表現している。それを補強したり増幅する様な音楽は無しで良い。

そして父になる」では送電線や鉄塔の大ロングに、ピアノの単音がボロンボロンと付いていた、まるで宇宙からの交信の様に。あの音楽が映画の背後に宇宙を拡げた。小さな家族の話は悠久の宇宙の中に位置づけられた。恐らく監督がピアノの脇で細かく指示し何度も何度も繰り返してあのフレーズを作ったのだろう。音楽も出来る限り監督自身のコントロール下に置いた。(あくまで推測)

今回、細野と監督との間にはどんなやり取りがあったのだろう。物語に則した音楽は必要ない映画音楽の依頼である。ピアノソロなら前回同様監督との共同作業も可能である。細野は打ち込みで作っている。だから楽器的にも前回の様にはいかない。

まずは映像を見るしかない。そこから聴こえてくる音楽を細心の注意を払って聞き取るしかない。

血を超えた絆、胡散臭さの中のピュア、人間として時間空間を共有した喜び、陳腐な言葉になってしまうが、それを音楽的表現として一貫させる… 難しいことだ。それを思うと物語に則した映画音楽なんて随分容易いと思えてしまう。

 

冒頭、治と翔太の万引きシーンでピアノとパーカッションとベースの効いたジャジーな曲が流れる。このテイストで行くのか。少しするとピアノの高音のトレモロで短いフレーズ、さらに少しするとアコースティックギターのソロが入る。どれもポロンポロンと二節くらい。短くて音楽というより効果音的だ。信代の働くクリーニング工場(?)のバックにはBGMの様にベースの効いた曲が這っていた。邪魔にはなっていない。映画の流れには合っている。けれどこれらは本当に必要だったか。音楽が無いと不安になって無理して付けてしまうことがある。ベテランがそんなことはないと思うが、映像から本当にあの音楽は聴こえたのか。

縁側を俯瞰で捉えた花火のシーン、花火は見えず音だけ。それを見上げる治、信代、ゆり、神様が優しく見守ってくれている、そんな視点の映像だ。花火の音を聴かせたかったのかも知れない。次のシーンは家族での海水浴。家族としての求心力が最も高まる一連。僕は当たり前かも知れないが、ここは音楽だと思った。花火の音が途中でFOして音楽にすり替わり、そのまま海水浴シーンに流れ込んだって良い。ここに音楽は無かった。

ラスト、治が一つ布団の中で“お父さんからオヤジに戻るよ”(不確か)と言った翌朝、翔太をバス停に見送る。バスに乗った翔太、外を走る治、振り向かない翔太、別れと旅立ち。予告編にも使われているカット。ここにも音楽がなかった。泣かせる音楽なんかではない。もっと遠くから見つめる音楽。次のシーンは冒頭と同じように冬のベランダで一人遊びをするゆり、そしてエンドロール。ここは音楽ではなかったか。バスからベランダに少しこぼして、一人遊びを素で見せた後、ローリングタイトル音楽。あるいはバス内からベランダ一杯を通して音楽を付け、一間あってからローリング音楽。

縁側とラスト、この二か所はどうしても音楽が聴こえる。あるいはここも音楽を付けないとしたら、他の短い音楽も全部無しにしてエンドロールの音楽だけにする。その方が良かったのでは? 

勝手なことを言って、ゴメンナサイ。本当にゴメンナサイ。

 

この映画は要二度見である。

捕まった後、取り調べ官(高良健吾池脇千鶴)に常識と世間を背負った質問をされる。いつもはどちらかと言えば調べられる側の二人があまりに常識面をするので(それだけしっかりと演技をしているということ)ちょっと引いて集中力が落ちた。二度見して、この取り調べのやり取りに家族の面々の説明がなされているのが解った。

治と信代夫婦は信代の前夫を殺している。多分DV、裁判では正当防衛と認められた。日暮里あたりで飲み屋をやっていた、多分。信代は子供が産めない。取手のパチンコ屋の駐車場から男の子を盗んだ。翔太と名付けだ。治の本名だ。治と婆ちゃんに血の繋がりがあるかどうかは解らない。足立区あたりの猫の額ほどの木造バラックに住む婆ちゃんの所へ転がり込む。治と信代夫婦は婆ちゃんの年金を充てにしている。婆ちゃんは通帳を治に預けている。

婆ちゃんは夫と別れる時、この家を貰ったのだろう。別れた夫は再婚して息子も生まれ、山の手に立派な家を建て、随分前に他界した。息子(緒方直人)には娘が二人、山の手に馴染めなかったのが亜紀、婆ちゃんが“おいで”と引き取った。だから血の繋がりはない。お金をせびりに行き、息子が上の娘はオーストラリアへ留学中と言った時、高校生の頃の写真がインサートされ、それが松岡茉優だった。二度見で解った。

お婆ちゃんは時々信代や亜紀に、鼻筋が通っていていいね(不確か)という。樹木希林のアドレリブかと思っていた。これは血が繋がらないということへのお婆ちゃんのコンプレックスだったのだ。

治はアッチがダメだったようだ。夕立の日、ソウメンを食べながら信代が発情して治に襲い掛かる。ヤレた。事の後、嬉しそうにタバコを吸って余韻に浸る治、そこにビショビショに濡れた翔太とゆりが帰って来る。慌てて取り繕う治と信代。翔太は親のそれを見て初めて目覚めた。昔はザラにあったこと。

翔太は信代をお母さんと呼べなかった。呼ぼうかというと信代がテレた。取り調べ官が“何と呼ばれていたの?”(不確か)と聞く。正面フィックスの長回しワンカット、安藤が髪を書き上げ、顔を覆い、中々表情を見せない。表情が見えた時、そこには涙が滲んでいた。涙がこぼれたのではない、滲んでいたのだ。凄いワンカット、安藤サクラはこんなに凄い女優なったのだ。

安藤サクラは肉まで役に成り切っていた。

 

松岡茉優はコメディもやれる、シリアスもやれる、貴重な女優だ。松岡のお客の“4番さん”を演じた池松壮亮は数カットながら存在感を残す。役者が是枝作品に出たがる訳が解る。

 

樹木希林は増々神懸って来ている。台詞なのかアドリブなのか、虚実皮膜。こんな芸当やれる人、嘗ての森繁久彌くらいしか思いつかない。

 

リリー・フランキー、この人が居なかったら近年のかなりの邦画の名作は存在しなかっただろう。それ位どの作品でも存在感を示している。どの作品でも風貌は相変わらずあのマンマ、だのにしっかりと役に染まり切る。良い声良い滑舌、その底には限りない優しさが秘められている。だから「凶悪」(拙ブログ2013.10.22)の先生は怖いのかも…

 

僕は一度見の後、何故か「禁じられた遊び」を思い出した。ギターのソロがあったからかも知れない。群衆の中に取り残された少女が叫ぶ。ゆりはひとり冬のベランダで遊ぶ。叫んだりしない。この荒涼感は「禁じられた遊び」の比ではない。

どうしようもなく目黒の“ごめんなさい、ごめんなさい”に繋がってしまう。

現実が映画の続きをやってしまった。

 

監督.是枝裕和    音楽.細野晴臣