映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2019.2.02「菊とギロチン」早稲田松竹

2019.2.02「菊とギロチン早稲田松竹

 

昨年、見逃したもので一番気になっていた作品。それを早稲田松竹でやるという。初日に行った。3時間の大作。衝撃だった。

 

まず驚いたのは大掛かりなオープンセットと的確なロケ地の選択。出演者の多さ。これ以上カメラが引けないといったインディペンデントの哀しき貧しさが微塵もない。まるで大河ドラマの様なスケール。インディの先入観が見事にぶち壊された。「バンコクナイツ」(拙ブログ2017.03.31) を見た時と同じだ。

次に女相撲とギロチン社を見事に結びつけた脚本の力技、これには感嘆。

面白いという噂以外、事前情報は持ってなかった。多分ギロチンというあだ名の主人公が天皇暗殺でも仕掛けるくらいの話かと思っていた。名前しか知らなかった実在のギロチン社がモデルとは。初めのほう、ギロチン社が起こした事件を手持ちカメラが追う。どんな事件で、誰がギロチン社で誰が労働運動社かも解らない。東出昌大井浦新くらいは解ったが、あとは同じような年恰好の若者が威勢よく動き回っているとしか見えなかった。あとから公式HPを見て良く解った。先にチェックしておけば良かった。

でもそんなの関係ない。関東大震災が起こり、大杉栄が甘粕に殺され、朝鮮人の虐殺があった。大正12年9月、その時日本にいた女たちと男たちの物語だ。

 

農村で家畜以下の扱いをされていた女・花菊 (木竜麻生) が身重の身体で女相撲に飛び込む。嫁いだ姉が死んでその後添えとして嫁いだ。“逆縁”(正しくは逆縁婚) というらしい。昔は田舎ではよくあったと母から聞いたことがある。夫の暴力に耐えかねて農村から逃げ出し “強くなりたい” という一心で女相撲に身を投じる。

女相撲は旅回りの芝居に近い。エロを売りにするところもある興行だ。農村から逃げ出した者や家出した女、遊女上がりもいる。そんな訳あり女たちが親方の下で世間からはみ出した生活集団を作る。河原乞食だ。

 

一方のギロチン社、頭でっかちの若造たち、社会への憤りと正義感だけはある。生活感は全くない。革命を唱えながら日々酒と女に現を抜かす。短絡した志向によるテロは政治以前だ。リーダー格の中濱鐡 (東出昌大) とその弟分的存在の古田大次郎 (寛一郎) を中心に描く。

 

女相撲とギロチン社、この二つから共通項を見つけ出した時、この映画は成立した。それは“自由”だ。

女を人間扱いせよという叫び、貧困からの自由、男の暴力からの自由。“元始、女性は太陽であった” なんて宣言からまだ程無き頃、相変わらず女は男の圧倒的支配下にあり、世間はそれに何の疑問も感じていなかった。それに耐えられなくなった一部の女。男女平等なんて大それた要求ではない。ちょっとだけ自由に生きたいという願いだった。生活に根ざした地に足付いた願いだ。

男たちの “自由” は生活感がない。けれど国が一丸となって一つ方向へ向かうべく、そこからはみ出すものを弾圧しだした時代。自由にものが言えること。天皇の名の下に凄まじい同調圧力が加わり始めたことに対する反発。その思いだった。

どちらも国を一つ方向へ向かわしめようとする者たちにとっては整理しなければならないものである。全く違うようでいて、立場も運命も同じだった。生活に根ざした自由への希求、観念的ゆえによりピュアで強い自由への希求。たまたま興味半分で見に来たギロチン社の男たちと女相撲の女たちが出会い、共に同じ方向へと向かうことになる。その辺の脚本が上手い、面白い。

 

浜辺で中濱や大次郎が花菊や十勝川 (韓英恵) ら女相撲の面々と踊り狂うシーン。カーニバルと盆踊りとカチャーシーがごちゃ混ぜになった様なシーンだ。音楽はサムルノリ。みんなが目指すものは同じであることを肉体で確認するシーン。良いシーンだ。

 

中濱と十勝川、大次郎と花菊は惹かれあうようになる。中濱が、いつか満州に日本人も朝鮮人も差別せず、貧乏人も金持ちもなく、働く者が報われる平等な国を作る (不確か、そんな内容? ) と言う。夢物語かも知れない。しかしみんなはその夢を信じる。夢を語る奴は必要なのだ。

この映画は決して政治的ではない。政治という現実のベクトルに収斂する前の真っ直ぐな思いを描く。政治の次元になった時、有効性やら実現性やら妥協やらが入ってきて夢はスポイルされる。この映画はそれ以前の真っ直ぐな思いと夢を抱く若者たちの青春映画なのだ。

ただ、国を一つ方向に強引に纏め、天皇の名の下にそこからはみ出たものは容赦なく弾圧した、その背景をしっかりと踏まえているという点では極めて政治的である。

当時の世界を見渡して、為政者たちが選んだ方向、それが正しかったかどうかは歴史の問題だ。しかしそのシワ寄せは確実に末端に及ぶ。膨大な犠牲を強いられる。そこに居た若者たちの、“自由に生きさせろ!” という叫びの物語。それは同調圧力増す今の日本へと直結する。

 

理想の国を満州に作る、夢として語るのは良いが一つ間違えると危険な考えだ。岸信介は彼の理想の国の経営を満州で行った。甘粕は満映を作りそこで中国人と日本人が共存するような映画を作った。けれどそれは植民地政策であり、大東亜共栄圏といいながら共栄ではなかった。本当に共栄を考えていた者もいた。けれど結果としてそれらの人は植民地政策を支えることとなってしまった。中濱の夢は紙一重なのだ。

 

満州浪人”と言う言葉がある。息苦しさの増した国内に対し、満州にはそれに捉われない自由がある、そんな幻想があったのかも知れない。“満州で一旗揚げる” も似た様なものか。しかしそれが中国人の犠牲を前提とするということに無自覚だった。成り上がった日本の驕り、為政者はそれを上手く利用した。

バンコクナイツ」では満州浪人ならぬバンコク浪人が描かれる。主人公は驕れるバンコク浪人を指ピストルで撃つ。これは現代の話。

 

音楽はオッペケペ節や労働問題の歌等、当時唄われていた既成曲が自然に散りばめられている。あとは打楽器、時々入る太鼓とチャンチキの様な金属性の叩きものが効果的に入る。これがサムルノリなのだろう。サムルノリは個別の楽団名と思っていたが、楽団名であると同時にこの楽器編成で演奏するものを総称してサムルノリというらしい。この音楽はこの映画にとっても合っている。唯一のメロディー楽器は何ヶ所かに入る大正琴 ( ? )。 ソロによるシンプルなメロディー。安川午朗の手になるものがどれなのか、よく解らない。あるいはサムルノリも安川の作曲によるものなのか。大正琴(?)の曲が安川であることは間違いないと思う。2~3カ所だが的確で効果的だ。安川は、いつも言うが小編成の時の映画音楽は本当に良い。センスと映画の捉え方が的確なのだろう。

浜辺の盆踊りカチャーシーサンバにはジェンべとドゥンドゥンというアフリカの打楽器が使われているそうである。ネットの監督インタビューにそう記されていた。相澤虎之助の脚本に楽器が記されていたとのこと。さすが空族 (「バンコクナイツ」を作った製作集団、相澤はそのメンバー)、音楽系映画人である。この映画にどこか南方の風が吹くのは相澤のせいかも知れない。空族の目は日本人の物語をアジア・アフリカの視点で捉える。脚本に空族・相澤を選んだ瀬々監督の選球眼が素晴らしい。

 

中濱が捕まった後、倉地と大次郎が取っ組み合いをするシーンがある。ギロチン社の面々を良く見分けられない僕には突然倉地という人物が全面に出てきて違和感があった。中濱が捕まりギロチン社が方向を見失ったこと、中濱は深い考えもなく思いつきで行動する奴だったが大切な仲間だったこと等を言いたかったのだろうが、僕にはちょっと唐突だった。あのシーンは無しで良かったのでは…

 

東出がこんな弾けた芝居が出来ると思わなかった。新人・木竜麻生、僕は先に「鈴木家の嘘」(拙ブログ2018.11.29 )を見てしまった。どちらを先に見たところで絶賛に変わりはない。全く違う役を見事にこなしている。

良い映画は役者がみんな良く見える。役者が良いから良い映画になっているのか。韓英恵、新人だという寛一郎、親方の渋川清彦、山中崇在郷軍人会の大西信満女相撲の面々、そしてカメオ (役者としての実績もあるから当たらないか) で出演の正力松太郎役の監督・大森立嗣…

この企画を長い間温めて遂に実現させた瀬々監督、プロデューサー陣、僕はこの映画を作ったスタッフ、キャストを尊敬する。

 

監督. 瀬々敬久     音楽. 安川午朗

2019.1.09「家へ帰ろう」シネスイッチ銀座

2019.1.09「家へ帰ろう」シネスイッチ銀座

 

本年最初の映画。冒頭はダルシマーのUPから。ヴァイオリン、アコーディオンクラリネットコントラバス、ギター(あったか?) の賑やかな演奏。ユダヤ人の一族が集まっての大宴会。曲に合わせてみんな踊り出す。四拍子あと打ちの単純なリズム、マイナーのシンプルなメロ。コザックの踊りの様でもあり、東欧の舞曲の様でもあり、トルコやスラブの匂いもする。ユダヤ民族音楽なのだろう。僕には解らないが、このリズム、きっとナントカという名があるのだろう。幸せそうな人々。そこにクレジットタイトルが被る。

賑やかなタイトルバックから一転、孫に囲まれた偏屈そうな老人アブラハム (ミゲル・アンヘル・リラ) 、しっかりとした体躯に見えるが右足 (彼はこの右足をツーレスと呼んでいる) だけは引き摺っている。娘たちが、家を売りアブラハムを施設へ入所させることを勝手に決めてしまった。せめて孫たちに囲まれた写真を持って施設で自慢したい。ちょうどその撮影だった。一人写真に入るのを拒否している孫娘がいる。この子とのやり取りが面白い。i.Phoneを買ってくれたら入る、いくらだ?  孫娘とアブラハムが値段の駆け引きをする。孫娘は中々手強い。折り合った時アブラハムは孫娘を抱きしめる。お前は賢い商才にたけたユダヤ人だ、と言わんばかりに。

その夜アブラハムは、自ら仕立てたスーツを携えて、密かに家を抜け出し、生まれ故郷のポーランドへ旅立つ。ブエノスアイレスから飛行機でマドリードへ、マドリードから列車でワルシャワへ。老人のロードムービーだ。

飛行機の隣の席の若者はミュージシャンだった。マドリードではホテルの女主人マリア (アンヘラ・モリ―ナ) と宿泊代で孫娘の時と同じような駆け引きをする。夜、マリアに連れられてバーに行くと、マリアはそこで妖艶な老歌姫と化する。ピアノだけで唄う歌はシャレている。お金を盗まれるというアクシデントにも見舞われる。でもそのお陰で絶縁していたマドリードに住む三女と再会する。三女の腕にはアブラハムと同じ様な番号の刺青があった。アブラハムのそれはナチの収容所で入れられたユダヤ人番号。戦後生まれの三女のそれは何なんだろう。ホロコースト忘れまじと認識番号を刺青として入れる運動がユダヤ人の間であるのだろうか。僕には解らなかった。実は三女は一番ユダヤ人としての自覚があり父親思いだった。「リア王」のコーディリアだ。

 

パリでアブラハムはドイツを通らずにワルシャワへ行きたいと駅の係員に申し出る。係員にスペイン語は? イディッシュ語 (主にドイツの一部で主としてユダヤ人が使う言語) は? 英語は? と尋ねる。どれも話さなかった。パリの駅の係員が英語を話さないのだ。気高いフランス人は英語を話さないというのは今でも生きていたのだ。その時声を掛けてくれたのが文化人類学者のイングリッド (ユリア・ベアホルト) だった。私はイディッシュ語を話します、ユダヤ人? いえドイツ人、会話はそこで断ち切れた。アブラハムはドイツ人と接することもドイツの地を通ることも、ドイツという言葉を口にすることさえもしない。

結局は他に手がないということでドイツを経由してワルシャワへ向かう列車に乗る。車中でイングリッドの助けを借りることになる。途中の乗換駅で、ドイツの地を踏みたくないアブラハムは衣類を敷いてその上を歩きホームのベンチに座る。イングリッドに少しづつ心を開いていく。戦争中の話を語り始める。父母が目の前で殺されたこと、お話を作るのが上手だった妹は10歳に1ヶ月未たなかった為、トラックに詰め込まれ運ばれて行ったこと、その時の妹の見つめる目が忘れられないこと。“どれも聞いたんじゃない、実際に見たんだ”

イングリッドと別れ一人で列車に乗ったアブラハムはドイツの地とドイツ人に囲まれ、変調をきたす。戦争中の事が次々に立ち現れる。

気が付くとそこはワルシャワの病院。この無駄を省いた展開は小気味よい。切断されそうになったツーレスはちゃんと付いていた。看護師ゴーシャ (オルガ・ボラズ) に頼む。良くなったらウッチ (ポーランド第二の都市、大戦中ゲットーがあった) へ連れて行ってくれ。

次のカットはウッチへ向かう車の中、看護師が運転している。この展開も早い。かっての我が家、今は友が住むはずだ。

 

収容所から逃げて来た時、アブラハムの家は使用人のものになっていた。使用人夫婦はアブラハムを追い返したが、兄弟の様に育った息子が地下にかくまってくれた。戦争が終わり、いつかその友のスーツを作ると約束してアブラハムは南米に渡った。その後連絡は取っていない。果たして居るか。70年の時が流れている。生きているか。

半地下のガラス窓越しに老仕立職人が作業をしていた。目があった。二人は70年の時を越えて抱き合った。時を超え民族を超えて抱き合った。そして持ってきた青いスーツを手渡した。

 

死を前にして友との約束を果たす旅、それはドイツ人を許す旅でもあった。さらにはあの戦争を心の中で清算する旅でもあった。地続きなのに、多言語、多民族、多宗教、頻繁に変わる国境線、複雑な欧州が旅の途中であぶり出される。でも同じ人間であることに変わりはない。素朴にストレートにそんなことを感じさせてくれる。

出会った人は善人ばかり、綺麗ごとに過ぎるかも知れない。しかしホロコーストを経験した人は僅かとなり、多くの人の中では遠い昔の出来事と化している。だからこそ声高ではないが、ユーモアを交えジワリと沁みるこういう映画は必要なのだ。国、民族、宗教、それらの違いが強調され沸点に達した時、戦争は起きた。その教訓が、”みんな違ってみんなイイ” という視点だった。違いのその先には地続きの大地に住む同じ人間という視点がある。そこから見た時、個々の違いは止揚される。ネオナチ、極右政党、自国第一主義民族主義、移民排斥、そしてイギリスのEU離脱、大戦の教訓は効力を無くしつつある。EUは経済の先に大戦から学んだ理想を掲げていたはずだ。その理想が崩れつつある。宇宙人が攻めてこないとダメかも知れないなんて真面目に考えてしまう。

国民国家どうしがぶつかった時、最もシワ寄せを被るのは国を持たない民族である。国境に関係なく広がっている民、ユダヤ人やクルド人

 

音楽は沢山入っている。冒頭の舞踏音楽以降はこのメロをテーマにリズムがあったり無かったり、細かく画面に合わせた劇伴を展開する。クラリネットが大活躍、低音部を使ったり高音部を使ったり、時々グリッサンドを入れて効果的である。クラでない時はヴァイオリンが同じようにメロを取り効果をあげる。冒頭のバンド編成がそのまま劇伴でも生かされ、後ろには大きくない編成の弦。ドラマから距離を置く音楽ではない。しっかりとドラマの感情に則し、状況を語る。音楽がドラマを引っ張っているとさえ言える。メロディはマイナーだが決して安直に感情を煽るものではない。ユダヤメロなのかロマメロなのか、画面に細かく合わせつつ、しっかりと主張する音楽。ドラマに則したオーソドックスな劇伴として昨今では出色である。

 

冒頭の宴会に居た少年と幼い少女はアブラハムと妹だったのだ。爽やかで心温まる小品であると同時に、今の世界をジワリと考えさせる佳作である。

 

監督.アン・パブロ・ソラルス   音楽.フェデリコ・フシド

2019.1.25「バハールの涙」新宿ピカデリー

2019.1.25「バハールの涙」新宿ピカデリー

 

暫く更新を怠っていた。今年最初のUPである。今年に入ってまだ映画を二本しか見ていない。一本目は「家に帰ろう」、とっても良い。これについては近々UPの予定。二本目がこれ、重いだろうことは想像がついた。平和な日本でゆる~く暮らす僕にとってはちょっと億劫な気もしたが、観て良かった。

 

バハール (ゴルシフテ・ファラハ二) はクルド人、フランスに留学した経験を持つ弁護士。夫と幼い息子一人。家で寛いでいるところを突然ISに襲われる。男たちは塀に並べられ、こともなげに銃殺される。食べたり話したりの日常の行為の延長の様に。息子はISの手で戦闘員として洗脳教育するべく連れ去られる。バハールは性奴隷として奴隷市場に売られ売買を繰り返される。

これは劇映画だ。脚本があり、演出され、俳優が演じている。似たようなことが現実に起きていることを僕らはニュース等で知っている。だから映画として創り出されたものであると距離を置いて見ることが出来ない。普通の映画の様な距離感が取れない。今起きている現実が映画として再現されている様で、映画の良し悪しという見方が難しい。

決してドキュメンタリーの様な作りではない。むしろきちんとしたエンタテイメントの作りだ。もっとドキュメンタリー寄りの作り方もあったはずだ。その辺は意見の分かれるところだと思う。

 

人は人を平気で殺す。ナチはその工場まで作った。随分前、「朝まで生テレビ」の『南京大虐殺』の特集で、従軍した人が、何万人か解らないが中国人の手足を縛り縄で数珠つなぎにして次から次へと揚子江に落としていったと泣きながら語ったのを強烈に覚えている。アメリカはベトナムでソンミ事件を起こしている。ロシアもポーランドカティンの森事件を起こしている。中国でもアフリカでもユーゴスラビアでも。人間は人間を平気で殺すのだ。山で遭難した人を救出するとか、洞窟に取り残された子供たちを世界中が協力して助け出すとか、人ひとりの命は地球より重いなんて、平和な一時だけの話だ。人類の歴史は同類同志の殺し合いの歴史である。もしかしたら生物としてはそれが自然なのかも知れない。それを超えるのが人間の文化だ。相変わらず人類は自然のまんまであり、一向に進歩していない。

そんな現実がシリアでは、今、ある。日本に生まれて良かった、今の日本に生まれて良かった… 戦いの悲惨は女に凝縮される。映画はその凝縮としてバハールを描く。

 

アサド政権があり、反政府勢力があり、ISが居て、クルド人がいる。それにロシアやアメリカやトルコが絡む。みんなそれぞれ歴史を背負い、利害が絡み、それなりの言い分がある。ISにだってそれなりの言い分はあるはずだ。成る程、長い間にわたり男が作った歴史の結果だ。今、世界は男の歴史の帰結としてある。

この映画の視点は明解だ。悲惨の凝縮としての女からの視点だ。だから余計な政治状況の説明はない。自分たちをこんな悲惨に合わせた者、それが敵だ。

 

ISから逃げ出した女たちが武器を取る。バハールを中心に ”太陽の女たち” という武装集団が自然発生的に生まれる。女たちは街を奪還する為に戦う。バハールは息子を奪い返すために戦う。

回想で、ISから命懸けで逃れるエピソードが語られる。この回想は鬼気迫るものがある。破水した妊婦を連れての脱出劇だ。国境検問所までの数十メートル、途中で産み落としたら追手に捕まる。あと数メートル我慢! 手に汗握るシーン、女ならではの視点。

 

似たようなシチュエーションで「灼熱の魂」(拙ブログ2012.2.15.) があった。謎解きサスペンス仕立てで作劇は凝っていた。映画的興趣としてはこちらが上かも知れない。何せ監督は今をときめくドゥニ・ビルヌーブ、この作品の後、「ボーダーライン」(拙ブログ2016.5.18)「メッセージ」(拙ブログ2017.5.23)「ブレードランナー2049」(拙ブログ2017.11.10)を撮っている。自身の作家性と商業主義のバランスを見事に取っている人だ。

それに比べるとこちらの作劇はシンプルで一直線だ。今起きている現実がそうだからだ。シンプルな筋立てにリアリティを与え、一級品にまで引き上げているのがバハール役のゴルシフテ・ファラハ二という女優。僕はこの人を知らなかった。この映画の為にオーディションで見つけたのかと思っていた。圧倒的な美貌、その大きな瞳は神懸っている。戦うミューズである。バハールそのもの、この映画の為にだけ女優になった人だと思った。今後他の役はやらないし出来ないだろうと思った。ところがジャームッシュの映画やなんと「パイレーツオブカリビアン」にまで出ている人だという。僕には想像がつかない。もしこちらを先に見ていたらどうだっただろうか。

 

音楽は ”太陽の女たち” が戦闘の合間に唄う歌が全てである。

 

私たち女がやってきたぞ 私たち女が街に入っていくぞ

戦いの準備は万端だ 私たちの信念で奴らを一掃しよう

新しい時代がやって来る 女と命と自由の時代

新しい時代がやって来る 女、命、自由の時代

女たち それは最後の銃弾 手元に残された手榴弾

この体と血が土地と子孫を育む 母乳は赤く染まり 私たちの死が命を産むだろう

私たちはゴルディンの女 

さあ街に入ろう 戦いの準備は万端だ

私たちの信念 新しい日の始まり

新しい時代がやって来る 女と命と自由の時代

新しい時代がやって来る 女、命、自由の…  (予告編の字幕より ネット調べ)

 

この歌は実際のものかと思ったら、監督が現地の女性たちを取材した中で作ったオリジナルなのだそうである。曲も現地の音楽を参考にして音楽担当のM・キビ―が作ったとのこと。実際に現地で唄われている様にしか思えない。この歌がこの映画の全てを語っている。

 

劇伴はかなりしっかりと入っている。映画自体が基本的にはエンタテイメントの作りを守っており、従って音楽もエンタメ映画の付け方である。感情と状況に即してしっかりと付けている。ピアノをリバーブ目一杯効かせて回想シーンやサスペンスシーンにあてたり、Tpがソロを取ったり、大きくはないが弦もしっかりと入っている。少しエモーショナル過ぎやしないかというところもある。もっと音楽を減らして辛口にした方がよかったのではと思う。

 

”太陽の女たち” は街の奪還に成功し、バハールは息子を取り戻す。この辺は随分あっさりした描き方だ。洗脳された息子がバハールを撃ってしまう位の結末かと思ったら、無事に救出されて終わった。後味は良い。映画的作劇に毒されているのは僕の方だった。

 

隻眼の仏ジャーナリスト・マチルド (エマニュエル・ベルコ) 、彼女はバハールを見つめ報道して世界に発信する。彼女は外の世界からのバハールたちへの連帯の象徴だ。報道なんてワンクリックで終わり (そんな意味、不確か) と言う彼女の言葉が痛い。それでも彼女はバハールへの連帯のメッセージを世界に発信し続ける。

 

”太陽の女たち” の不揃いなあの歌は、男たちへの宣戦布告に聞こえてならない。

 

監督.エヴァ・ユッソン   音楽.モーガン・キビ―

2018.08.24「Wind River」角川シネマ有楽町

2018.08.24「Wind River」角川シネマ有楽町

 

大分時間が経ってしまったが、良い映画だったのでメモと記憶を絞り出して記す。記憶違いあるやも。

 

アメリカは広い。舞台はワイオミング州だという。ワイオミングと言えば「ララミー牧場」だ。緑豊かな大平原のイメージである。ところがこの映画のワイオミングは極寒、マイナス30度にもなる、先住民族居留地。征服者は先住民族をそこに押し込めた。大昔ではない、今の話。未だにそんなものがあるなんて考えもしなかった。

そこには希望がない。抜け出すには、男は軍隊か大学に入ること、女は白人の男を捉まえること。大学に行ける奴なんて限られている。大半の男は軍隊に入り、イラクアフガニスタンで戦争し、沢山殺した奴が英雄となって偉大なアメリカの一員として認知される。居留地に残された者はヤク中かリストカット常習者だ。重く重く淀んでいる。

 

雪原で若い女の死体が発見される。雪の中で死ぬとはきっとこんなことなのだろう。死体はリアルだ。当然ながらレイプされていた。 

フロリダ出身という新人FBI の女ジェーン (エリザベス・オルセン) が派遣されてくる。部族長やら野生動物保護官やら、資格を立てに言い争いが始まる。FBIが一番偉い。検視をします。そんな設備10キロ先だ。応援を頼みます。来るわけがない。部族長がボソッと言う。この地を甘く見てるな。法律はアメリカの隅々まで行き渡っているが、それが守られ実行されているかどうかは別の話だ。ハンターのコリー (ジェレミー・レナー) が、レイプ現場から逃げて10キロ雪原を走り、マイナス30度の冷気を吸い込んで肺が破裂して死んだと説明する。コリーはジェーンの協力要請を引き受ける。

 

冒頭Wind River賛歌のような詩が実景に被って読まれる。多分コリーの娘の声だ。登場しない娘が冒頭と最後でこの映画を深いものにしている。

この事件の捜査の過程で謎解きのようにコリーの物語が語られて行く。

コリーには先住民の妻と16歳の娘、5歳の息子がいた。娘は大学に行くことを夢見ていた。その娘が少し前、レイプされ雪原で遺体となって発見された。犯人は挙がっていない。妻は夫と別れ、この地を出ることを決意する。コリーには発見された遺体と娘がWっていた。

集落から数キロ離れた所に土木作業?をする白人作業員のプレハブ宿舎があった。そこに7~8人の男が寝起きしていた。最下層の白人、昔で言えば流れ者、白人ということだけが唯一のすがり処の男たち。きっとトランプ支持だ。遺体の女はこの中の一人に恋をしてこの地を抜け出す夢を見た。女の匂いを嗅ぐだけで狂う男たちは二人の逢引きの場を襲い、男を殺し、女をレイプする。女は生きようと必死で雪原を10キロ走り、息絶えた。ジェーンは段々と法律が無力なこの地が解って来る。

 

こう書くと話はシンプルだが、映画は必ずしも時系列で分かり易く編集されてはいない。コリーの主観で、その都度過去や思いがカットバックで挿入される。ジェーンがプレハブをノックするところから一気に過去の同じドアのノックにカットバックして逢引きする二人とそこを襲う男たちの描写へ繋げる編集は、映画好きには上手いと受けるかも知れないが、映画慣れしてない人には多少の混乱をきたすかも知れない。

 

男たち7~8人、ジェーン、部族長。離れたところから照準を合わすコリー以外の事件の関係者が至近距離で銃を構えて対峙する決闘シーン。こんな至近距離の撃ち合い、初めて見た。みんな死ぬ。ジェーンも死ぬ。コリーとレイプの主犯だけが生き残る。コリーは男を殺さず山奥に連れて行き、死んだ女と同じ状況で放置する。10キロ歩いて国道にたどり着ければ助かる、と言い残して。

 

監督は新人、と言っても「ボーダーライン」(拙ブログ2016.5.18 )の脚本家だ。アカデミー脚本賞にノミネートされている、ただの新人ではない。「ボーダーライン」と話しの骨格は似ている。どちらも舞台は法律など及ばない辺境、そこに法律を振りかざして単身やって来る女、女を助けることになる地獄を見た男。両作品とも時々インサートされる、人間の営みを遥かに超えた大自然の実景が圧倒的だ。 

片や先住民族、片やメキシコ国境、アメリカの縁を描くことでこの国が抱える根源的な問題をあぶり出す。

音楽は確かシンセが中心だったか。メロディ感はなく、雰囲気と状況を解らせる為の音楽。それ以上記憶に残っていない。

 

監督・脚本.テイラー・シェリダン  音楽.ニック・ケイブウォーレン・エリス

2018.10.01「 モリのいる場所」 シネリーブル池袋

2018.10.01「 モリのいる場所」 シネリーブル池袋

 

大分時間が経ってしまったが、良い映画だったのでメモと記憶を絞り出して記す。記憶違いあるやも。

 

30年間自宅とその庭から一歩も出なかった伝説の画家・熊谷守一をモデルにした沖田修一監督の作品。モリには山崎努、その妻には樹木希林、この二人には文句のつけようもない。山崎の存在感は神懸って超俗、樹木希林は日々の生活にしっかりと根ざした存在感、両極の存在感がバランス良く共存する。

モリは、今日は池を回ってドコドコに寄ってくる、と出かける。広大な庭を持つ屋敷なのかも知れない。鎌倉あたりか。予備知識無しに観たのでそう思った。見ている内に少しづつそれがそうではないことが解って来る。何か小じんまりとしている。這いつくばって蟻んこを見つめ、水溜りの様な池を覗き込む。書を頼みに来る人がいて、近所の人が顔を出し、カメラマンがその姿を撮り続ける。少しづつモリが高名な画家であり書家であり、30年間、家とその庭から一歩も出ていない人であることが解って来る。それでもそこが都会のど真ん中であることは最後まで解らなかった。建設反対の声があったにも関わらず、隣にマンションが建ち、最後にその屋上からモリの家と庭を俯瞰する画で初めて種明かしのように、ここが都会の真ん中 (池袋の近く) で、屋敷と庭も含めてせいぜい7~80坪であることが解る。そこが、見続けても尽きることのない、モリの大宇宙だった。

モリの軸足は人間社会にはない。人間の作為の猿知恵を超えて、汲めど尽きない大自然の中にある。都会のど真ん中にポッカリと空いたエアポケット、そこに吸い寄せられるように次から次に人が集まる。ご近所や御用聞き、画商やら写真家やら謎の男やら。懐かしき昭和の香りが漂う。その中心にモリがいる。

人間社会の汲々とした中で生きる人にとって、そんな空間があることだけでも救いだ。さしたる事件が起きるわけでもない。樹木希林が「寺内貫太郎一家」の時の様な格好で超俗と世間を行ったり来たりする。

天皇が美術展でモリの絵を見て、これは何歳の子が書いたのかと聞いたという。文化勲章は煩わしいからと断ったという。実話らしいそれらのエピソードが挟み込まれる。

 

知人から熊谷守一のことを少し聞いた。若い頃の絵をチラッと見た。暗く死の匂いに満ちていた。戦争、貧困、子供の死、地獄を見ている人だ。でも映画は画家・熊谷守一を描くというより、都会のど真ん中に超俗のエアポケットを作った人、という方に重点を置く。地獄を見ていることにはほとんど触れてない (僕が見落としたか ? ) 。映画としてはそれでとっても良くまとまっている。「モリのいる場所」を描くことで充分インパクトのある楽しい映画になっている。そこに沖田修一らしいちょっとした作為が加わる。みんなが集まってドリフターズの話をした時のオチは天井から落ちてくる金タライ。元ネタを知る世代としては懐かしかったがダメな人にはダメかも知れない。

 

モリが庭で植物を見つめる。カメラがどんどん進んで行き、植物の組織に入り、細胞に入り、DNAまで入っていく。小さな庭が宇宙であることを端的に解らせてくれる良いカットだ。

樹木希林は生まれ変ったら人間はイヤだという。モリはもう一度人間がイイという。見続けたいのだ。人間として生まれた事の奇跡を満喫したいのだ。もっともっと知りたい。だから一角のあれはオニなのか天使なのか死神なのか、この誘いをモリは断る。生きられる限り生きたいのだ。生そのものに還元されたモリに人間社会の雑念は入りようもない。世間との接点は妻が引き受ける。

でも若い頃の死に満ちた絵をチラ見した者としては、初めからこうではなかったこと、地獄を見ていること、をさり気なく匂わせてほしかったなんて、ちょっと思う。そんなシーンや台詞があって僕が見落としているのかもしれないが。

 

音楽、Pfを中心に、マリンバ、ヴァイオリン、アコーディオン、打ち込みSyn等の小編成。ガタゴトとSEの様な音も入る。テーマは同じ音が3つ並ぶ極めてシンプルなもの、それを繰り返す。どの楽器もみんな単純なリズムを作る。

メロディ感があるのはオニ? たちが列を作ってモリのところへやってくるところ、口笛がメロを取って鐘が鳴りマカロニウェスタンの様、この遊び心は面白かった。打ち込みをベースにして限りなく単純にした、あたかもモリの絵のような、でも細かいアイデアのたくさん詰まった劇伴である。

 

監督.沖田修一   音楽.牛尾憲輔

2018.12.18 「青の帰り道」 新宿バルト9

2018.12.18「青の帰り道」新宿バルト9

 

東京からそう遠くない地方都市 (あとで前橋と分かる) 、そこの7人の高校生、煙草を吸い、ギターをかき鳴らして自作の歌を唄い、写真を撮り、学生生活を謳歌する。畑の中を真っ直ぐに伸びる一本の道、冒頭、校舎の屋上に立つ少女の背後からこの道を映し出すクレーンカット (今はドローンカットか) が良い。この道を “俺たちは自由だ! ” と叫んでみんなでチャリに乗って突っ走る。世間とぶつかる前の可能性しかない男4人女3人の仲良しグループ。黄金の日々。

映画はここを巣立ってからの10年間 (?) を描く青春群像劇。「セント・エルモス・ファイアー」(1985) や「白線流し」(1996 CX) 等の良くあるパターン。ではあるが、それを2008年の日本の地方都市の若者がぶつかる本当によくある話を原寸大で当てはめて、青春映画の佳作に作り上げた。

年齢環境の近い人はほとんど我が事のように ”分かる! ” 、僕の様なジジイには昔の気持ちが懐かしく蘇る。

自分の歌を唄って歌手になることを夢見るカナ (真野恵里菜)、写真は好きだが写真家になりたいというほどはっきりした気持ちもないまま、母親 (工藤夕貴) との折り合い悪く東京に出て、カナのマネージャーとなるキリ(清水くるみ)、カナと一緒に唄っていたタツオ (森永悠希) は医者の息子で医大を目指すも受験に失敗し地元で浪人生活をする。リョウ (横浜流星) はデッカイことをやるが口癖で地元の土建会社で働くが資材の横流しに手を染めて東京へ出る。コウタ (戸塚純貴) とマリコ (秋月三佳) は早々と出来ちゃった婚で家庭を持ち地道に働く。ユキオ (冨田佳輔) は東京の大学に進み、卒業して保険会社に就職する。

カナは着ぐるみを着て ”無添加カナちゃん“ として売り出し、歌手として世間から認知されはするも自分の歌は唄えない。酒に溺れてキリと離れる。キリは結婚詐欺に合う。リョウはオレオレ詐欺のかけ子で一時羽振りが良くなるも捕まることになる。タツオは自殺する。ユキオは保険会社で営業のノルマに追われる。コウタとマリコは小さな家庭を築きマイホームを目指す。

 

タツオのエピソードは辛い。親が医者でそのプレッシャーを背負い地元での浪人生活、強い奴ではなかった。高校の時は自分の思いを歌にしてそれをカナが唄ってくれた。カナへの思慕もあった。引き籠りの末、思いつめて東京へ行くことを決意する。カナへ電話する。新しい曲が出来た! カナは最期の拠り所だった。間が悪い奴って居る。カナはニンジンの着ぐるみ着せられてCM撮影の真っ最中。こっちも限界に来ていた。そこへ携帯電話だ。携帯は時間や空間や思いのプロセスをすっ飛ばして突然ど真ん中に入って来る。この暴力的カットインにカナはついキレてしまう。間が悪かった。タツオは最期のすがり処に拒否された。

キリが訪ねた時、タツオの父 (平田満) が案内してくれたタツオの部屋には高崎-東京の切符と携帯がそのまま残されていた。

 

10年経って、みんな思い描いたものとは随分違うものになっていた。でも地元に帰ったキリに母親が言う。“いいじゃない、東京で10年も頑張ったんだから” (不確か)

大好きな映画「祭りの準備」(1975) を思い出した。あの映画は “祭り” をしに東京へ向かうところで終わる。この映画は “祭り” をしにいくところから始まる。この10年はみんなの “祭り” だった。夢中になって、傷ついて、死ぬことさえ考えて、死んでしまった者もいて、辛いことばっかりで、でも楽園を出て東京などという訳の分からないところで必死にもがいた “祭り” だったのだ。

 

本当によくある話だけで纏めた脚本 (藤井道人、アベラヒデノブ) が良い。何より7人の中にエリートや上昇志向の奴がいないのが良い。対比としてそんな設定をしたくなるものだがよくそれをしなかった。

テンポ良く展開する演出、ただテンポ良すぎて、地元と東京が分からなくなるところがあった。今や前橋は東京とは日帰りが可能である。けれど若者にとって地元を離れた東京は気持ちの上では決定的に違うはずだ。

時々、東日本大震災や鳩山総理といった時事ニュースが入る。時間の経過を解らせる為か。確かに10年でも3年でもおかしくない。もう少し時間の経過と空間の距離感が解った方が良かったか。いや拘る必要はないか。

若者7人がみんな生き生きと演じている。初め少女たちは少し可愛過ぎやしないかと思ったがそこは映画、カメラは照明を駆使して少女たちを綺麗に綺麗に撮っている。

久々の工藤夕貴が良かった。

 

音楽は劇伴といえるものはほんの数カ所、PfとBで単純なフレーズを繰り返す。でもそれで充分。あとは劇中の歌や現実音としての既成曲 (どれがオリジナルでどれが既成曲か僕には判別つかず) を上手く劇伴のように使ってまかなう。上手く充てている。

カナが唄う初めの歌、歌い出しのKeyが低くて歌詞が聞き取れなかった。

 

ローリングの主題歌 “もしも僕が天才だったら~”映画の中ではタツオの声で唄われ、それがローリングでamazarashiバージョンの歌となる。しっかりしたVocalとなり、ギター1本からバンド編成となって、映画の世界がきちんと提示される。これぞ映画の主題歌、こんなに違和感なくローリングで主題歌を聞けたのは今年初めてかも。ちょっと尾崎豊を連想した。

 

真っ直ぐに伸びた一本道を10年経った6人が学校の方へ向う。学校の方から叫びながら走ってくる若者たちとすれ違う。一瞬その若者たちがかつての自分たちに重なる。入れ替わりで新たな若者たちが “祭り” をしに走っていく。良い終わり方だ。

 

“祭り” は終わった。これからどうやって現実に着地していくか。

“祭り” はどんなにつらくても悲惨でも、あとで振り返れば輝いている。

 

監督. 藤井道人       音楽. 岩本裕司     主題歌「たられば」amazarashi.

2018.11.29 「鈴木家の嘘」 新宿ピカデリー

2018.11.29「鈴木家の嘘」新宿ピカデリー

 

「○○家の~」というとどうしてもコメディを想像してしまう。ましてや岸部一徳だ。これは軽いホームコメディに違いない。ところがノッケから引き籠り息子の首つり自殺だ。でも肝心なところは写さず避けている。これはその内カメラが引いて行くとTV画面になり、お茶をすすりながらそれを見る茶の間になるに違いない。“引き籠り自殺なんて可哀そうね、でも押入れの梁に紐吊って首つりなんて出来るもの?”そんな台詞がいつ被って来るか待っていた。ところがそんな台詞はあらわれず、映画はシリアスそのもの。重くて暗い。この導入、想定していたものとあまりに違うので暫く気持ちの整理が付かなかった。

 

引き籠りの長男・浩一(加瀬亮)が自分の部屋で首つり自殺する。母・悠子(原日出子)が発見しショックで記憶を失う。四十九日法要を済ませて親族が病院を訪れると、そこで母は意識が戻る。但し浩一の自殺ということだけは消されたままだ。

“浩一は?” とっさに妹・富美(木竜麻生)が、“お兄ちゃん、引き籠り止めて部屋から出て、おじさんのアルゼンチンの会社で働いているの” 父・幸男(岸部一徳)も直ぐに同調する。叔父・博(大森南朋)は確かにアルゼンチンと行ったり来たりの仕事をしていた。

それからはこの嘘を守る為にみんなが右往左往することになる。重くシリアスな通奏低音は変わらなくもその上にてんてこ舞いのコメディが乗っかる。

富美は浩一から母に宛てた手紙を書き、それを叔父の部下に頼んでわざわざアルゼンチンから投函してもらう。父は浩一の痕跡を捜してソープランドのイヴちゃんの元に通う(このエピソード、どこか見逃したか、僕には良く解らなかった)。みんなそれぞれ浩一の自殺の理由を解ろうとする。それを自分との関わりの中に見つけて自分を責める。ひとり博だけがアルゼンチンの女を妻に迎え、ラテンのノリで映画を明るくする。

嘘を守ろうとするコメディと、自分との関わりの中で自殺の理由を解ろうとするシリアスな謎解きの要素が絶妙にブレンドされて飽くことなく展開していく。それぞれが浩一の死を一所懸命考えたのだ。でも家族と言えど心の闇は解らない。

 

自殺の“何故?”は周囲に深く突き刺さる。こうしておけば良かった、こうしておけば追い詰めることにはならなかった、残された者は自分との関係の中で理由の欠片を探す。それは自分を納得させる作業なのかも知れない。

 

富美は身内の死を抱えた人が集まる心理療法のようなサークルに通う。順番に自分の経験を話すのだが、自分の番が来ると毎回パスする。終盤、遂にパスせず話した、堰を切ったように。この映画のクライマックスだ。カメラはワンカット長回しで富美を映し続ける。木竜麻生が富美と同化してのり移った様に演じる。このシーンはこの映画の白眉だ。僕はこの女優を知らなかった。「菊とギロチン」(残念ながら未見)でも好演したらしい。きっと色んな賞を取るに違いない。

岸部一徳は居るだけでユーモアとペーソスが漂う。岸部が演じると勝手にこちらでその人のそれまでの人生を想像してしまう。脚本で描いたキャラクターを十倍くらい膨らますことが出来る役者だ。

原日出子は嘘を感づいている様ないない様な、そんな淡いを見事に演じていた。本当は一番葛藤すべきは母親だったはずだ。この映画はそこを描いていない。それは映画が終わったあとに始まるのだ。きっと父と妹がそれを支える。そこまで描くともっと重いものになってしまう。映画としては程好い纏め方だと思う。

大森南朋はこんなラテンのノリも出来たのだ。

そして加瀬亮、少ししか映らないが、陰の主役としてしっかりと存在感を発揮した。受験やら就職やらが上手くいかずマザコンゆえに引き籠ってしまった。甘えているのだが、それでも本人はさぞ辛かったんだろうなあと解らせてくれる。

岸本加世子はしっかりと普通のおばさんを演じていた。役者はみんな素晴らしい。

 

やがて嘘はバレる。みんなで一所懸命嘘をついたことがこの家族の求心力となった。母はそれに感謝し、父と妹は浩一の死を納得しないまでも受け入れる。微かに光の射す終わり方である。

 

音楽、明星。主に橋口亮介作品を担当している人だ。ポピュラー系、楽器はピアノかキーボード? 音楽は最小限必要な所のみ。その音楽も考え得る限りのシンプルさ。3拍子4分音符の短い動機。これがテーマとして配置される。ピアノソロだったり、後ろにチェロが薄く入ったり。決して邪魔にならない。多分監督は優しくて邪魔にならないことを一番に考えたのだ。優しさはあるが主張しない音楽が欲しかったのだ。その通りになっている。これはこれで良いのかも知れない。

でも僕は観終わって印象に残ったのは劇中に劇伴として使われていたベートーヴェンピアノソナタ(「悲愴」第二楽章)だった。明るくもなく暗くもなく、希望でもなく絶望でもない、この有名なテーマはこの映画にピッタリだった。いっそこのテーマで通せば良かった。少なくともエンドロールはこれで行ってほしかった。明星の歌が合ってないというのではない。この映画に限らないのだが、エンドロールで突然歌が入るのはよほど奇跡的なことが無い限り、音楽の質が違うゆえに、耳馴染んでないゆえに、違和感がある。大ヒットを狙うタイアップだらけの映画なら仕方ない。宣伝効果を考えれば多少の違和感には目をつむる。しかしこの映画の様に中身で勝負する映画、エンドロールまできっちりと演出してほしいのだ。エンドはこれで行ってほしかった。

僕はこの曲、長らくベートーヴェンと知らなかった。クラシックの素養がないのでビリー・ジョエルの「This Night」(サビはこのメロに歌詞を付けている)だと思っていた。歌詞は解らないがビリーが唄うと強い意志を感じる力強いものになっている。ベートーヴェンと知って原曲を聴いた時、あまりの違いに驚いた。何とも曖昧でひ弱で明るくもなく暗くもない。でもその内、繊細で決して非力ではなく希望だって微かにある、そう聴こえて来た。この曲を映画の中に使ったのは正解である。だったらこのテーマで通せば良かった。あるいは劇中の音楽は全部無しにして、エンドにだけこれを流す、でも良かった。

しっかりした脚本で上手い構成、とても初監督作品とは思えない。良い映画だったので、つい勝手なことを言ってしまいました。ゴメンナサイ。

 

監督・脚本.野尻克己    音楽.明星    主題歌.明星