映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.11.18 「溺れるナイフ」 Tジョイ大泉

2016.11.18「溺れるナイフ」Tジョイ大泉

                                                                                                            

原作はコミックらしい。漫画嫌い。未読。「ディストラクションベイビーズ」(拙ブログ2016.6.08) の二人なので見に行く。菅田、小松のファンらしき若者でマアマアの入り。

小松菜奈菅田将暉を美しく撮る映画、特に小松を徹底的に綺麗に撮った。十代の少女が持つ一瞬の輝きをきちんと定着させた。それだけでも価値はある。スタイルの良さを強調し、顔もベストなアングルと照明でここぞとばかりに美しく撮る。小松もそれに応えている。

菅田は疾風の如く走り去る美しさ。細身の体と小作りの顔、どこかさっぱりとして主役的押しの強さが無いのが良い。

話は十代の一途な恋、「ロミオとジュリエット」。東京で少女モデルをやっていた夏芽 (小松菜奈) が、父が実家の旅館を継ぐことになり、熊野 (?) 浮雲町に引っ越してくる。そこでコウ (神 ? 菅田将暉) と運命的な出会いをする。コウの家は代々 ”火まつり” の面や踊りを継承する神に仕える家系、特別な存在。東京でモデルをやっていた夏芽は田舎町ではこれも特別な存在。特別な者同志、一途な恋に突き進むことは運命付けられている。余計な説明は要らない。逢った瞬間、そう決まった。カナ(上白石萌音) や大友(重岡大毅) は密かにコウや夏芽に思いを寄せつつも、圧倒的運命的な二人の前に、素直にそれを祝福し応援する立場となる。

田舎町で突出した二人、さぞ陰口も叩かれるだろう、学校でイジメにも会うかも知れない。そういう社会的リアリティは一切省く。海岸で出会ったら、二人して直ぐに海に飛び込む。周りは関係ない。あるのは二人の思いだけだ。純粋な恋とはそういうもの、だから十代でないと出来ない。分別が付くと、打算計算見栄配慮気遣い等が介入してピュアではなくなる。

当然この恋は成就しない。もしくは”死” という形での成就。それは古今東西決まっている。

恋の障害を、自己中思い込みのストーカー男としたのは今風である。昔なら町の有力者の息子の横恋慕か、親の借金だったか。

結局この恋、定石通り成就しない。コウは浮雲町の守り神として町に残る。夏芽は東京に出て,行ける所まで行く道を選ぶ。次のステージだ。

最後に二人はバイクに乗って海沿いを走りながら、反対語や連想語の言葉遊びをやり続ける。もしかしてこれアドリブか。何と生き生きしていることか。一途だった前のステージは二度と戻らない。でもこんな出会いを持てたことの奇跡 !

このシーン、現実でもイリュージョンでも構わない。並走しての移動撮影、多分同録、時々道の凸凹で画面が上下するのがリアルだ。良いシーンである。

 

菅田、小松のファンは綺麗な二人を見られれば良い。原作を読んでいる人、その人たちには多分ストーリーは解る。ファンでもない原作を読んでもいない僕たちをこの映画は対象としていない。きっと脚本作りの段階で割り切ったのだろう。余分な説明は省く。だからどうしても話を追い切れないところがあった。もう少しだけ原作未読者にも解るようにしてほしかった。

それから ”火まつり” という神事をクライマックスに置いて、薄っすら神話性を匂わせるのだが、それが弱い。原作ではどう描かれていたのか。「火まつり」というとどうしても中上健次脚本、柳町光男監督の作品(1985)を思い出す。映画で神話性を表わすのは難しい。それを出来るのはストーリーより音楽だ。前半、海に立つ鳥居のシーン、海に飛び込む一連、に神話性を匂わせるような音楽が付いていれば。「カミハテ商店」(拙ブログ2012.2.01) は音楽が日本海エーゲ海に変えていた。ああいう音楽ということではないが。

この映画、神話性を匂わせつつ一途な十代の恋を描く、今の日本の青春映画であることは間違いない。だから音楽は青春映画の側面で付けている。Pfの長いソロ (曲としては良かった)、EGのロック等、シークエンスに合わせて付けている。青春映画の音楽としては妥当か。しかしこの映画が描こうとしている二人、それは都会のどこにでもいる恋人同志ではないはずだ。選ばれた、運命付けられた、さらには神話性を帯びた二人であるはずだ。超然とした存在であるはずだ。Pfの音色、EGの音色、これがどうにも気になる。どうしても普通の青春映画の音楽に聴こえてしまう。音楽はむしろ神話性と、選ばれた二人、という側面にのみ付けるべきだったのではないか。それ以外は要らない。青春は画面で解る。選ばれた二人、特別な二人、そこを音楽が支えた時、一途な恋に神話性が匂い立つ… 少なくともEGのロックは安っぽい。

設定は「君の名は。」(拙ブログ2016.10.29) に似てなくもない。神憑りは男女が逆だが、どちらもある日突然降りて来た運命的な恋、理屈を超えている。

クライマックスの ”火まつり”、踊りとレイプシーンの細かい編集がトランス状態へと持っていく。あそこを太鼓で通したのは良かった。もっと大きく、シーン変わりも無視して太鼓をクレッシェンドさせれば良かった。もっと大きく!

 

夏芽に思いを寄せながらコウのひかえを見事に演じた重岡大毅、知らなかったがジャニーズ事務所だそうな。ジャニーズ事務所のタレントがヒーローのひかえの二番手をやるようになったんだとヘンな感慨があった。重岡の「おら東京さ行ぐだ」のカラオケシーン、こんなにも深く夏芽を思いやる二番手を見事に見事に演じていた。いつも二番手三番手だった身としては胸が熱くなった。あのシーン、小松も簡単ではない良いリアクションをしていた。

上白石萌音、「舞子はレディ」(2014) で主役デビューするも、その後この子どんな方向へいくのかなぁと思っていた。「君の名は。」のヒロインの声で一気にブレイク、この映画でもカナ役をしっかりと演じている。カナはコウに思いを寄せているのだろうか。それとも夏芽に宝塚的愛を持っているのか。本当に二人を献身的に支えるのか、屈折した思いが毒となるのか。そんな複雑な役をちゃんと演じていた。自分の場所を見つけたのかも知れない。

 

青春バンザイ風のローリングの主題歌、良いのかどうか僕には解らない。

 

監督 山戸結希   音楽 坂本秀一  主題歌 ドレスコーズ

2016.11.07 「ベストセラー 編集者バーキンズに捧ぐ」 日比谷シャンテ

2016.11.07「ベストセラー 編集者バーキンズに捧ぐ」日比谷シャンテ

 

1929年、バーキンズの元にたらい回しにされた原稿が持ち込まれる。”モノにならない、だがユニークだ” というコメントが付いて。分厚い原稿、それをデスクで読み始める。帰りの列車の中、家に帰ると家族を避けてクローゼットの中、翌朝出社の車中。その日の午後 (あるいは数日後? ) 、押しの強い、大声の若者が訪れる。散々断られ続けた彼は、当然断られることを前提にまくし立てる。

”我が社で出版します”

それがバーキンズとトーマス・ウルフとの出会いだった。

 

原作はノンフィクション、バーキンズはそれまでにヘミングウェイやスコット・フィッツ・ジェラルド等を発掘している。バーキンズのノンフィクションだから、彼の生涯が描かれているはずだ。ヘミングウェイやS・F・ジェラルド発掘の話も当然描かれているはず。映画はその中のトーマス・ウルフとのエピソードに絞る。溢れ出る饒舌を削り、売れるものにする、その裏で、自分が編集の手を入れることにより才能を汚してしまっているのではないか、という思いを絶えず持ちながら。

ウルフとバーキンズに絞った脚本が良い。色調を極端に落とした、モノクロに近い画面が、出版が個人の才能と才能のぶつかり合いで成立していた時代を、格調高く映し出す。懐かしいのではない、威厳のあった時代。

コリン・ファースジュード・ロウが対照的なキャラクターを演じて火花を散らす。起伏の多いウルフより、いつも(室内でも)帽子を被り、絶えず原稿を読み、削りの赤を入れ、煙草を燻らせ、感情を表に出さないバーキンズの方が演じるのは難しかったはずだ。二人とも見事に演じている。

監督のマイケル・グランデージはこれが最初の長編映画とか。演劇出身でそちらでは大変な実績があるよう。でも演劇的匂いはどこにも感じない。むしろベテランの監督という風情すら感じる。

音楽はアダム・コークという人。ひじょうにオーソドックスでクラシカルな劇伴。かと思うと時代に合わせたジャズも上手く生かしている。アメリカがようやく独自の文化を発信した時代。音楽はジャズだった。導入はPfの単音にClaが静かに入る。良い映画音楽だったと記憶している。

情けないことに細部の記憶がおぼろげ。いつも映画を観終わると忘れないようにメモ書きする。ストーリーは反芻出来るが、音楽の細部はメモでもしないと忘れてしまう。歳のせいもある。記憶力劣化は甚だしい。この映画、メモ取る前に「永い言い訳」と「インフェルノ」を観てしまった。上書きされて音楽の記憶が消されてしまった。”良い音楽だった、この人、これから映画の仕事沢山来るのでは” それだけが引っ張り出せた。情けなや。

この監督とは舞台で長くコンビのよう。ミュージカルも書いている様だから、クラシック系ポピュラー系、どちらも行けそうだ。映画音楽でもきっと良い仕事をするはずだ。

 

監督 マイケル・グランデージ  音楽 アダム・コーク

2016.11.10 「永い言い訳」 TOHOシネマズ日本橋

2016.11.10「永い言い訳」TOHOシネマズ日本橋

 

妻がバス事故で突然死んだ。その時夫は若い女と情事の真っ最中だった。誰に言い訳をするのか。言い訳すへき妻は死んでいる。自分への言い訳? 自分自身が納得して受け入れること?

 

衣笠幸夫 (本木雅弘) 、流行作家、マスコミにも持てはやされている。記者に囲まれて当たり前のコメントをする。妻の不幸に見舞われた夫を普通に演じる。しかし涙は出ない。

夫婦の間は冷えていた。それでも心の整理はする必要がある。まして作家だ。何等かの形で作品化する、そうしなければ前に進めない。作家の業、イヤな職業だ。

同じ事故で死んだ妻の親友の夫・大宮 (竹原ピストル) はひたすら泣き悲しむ。中学受験を控えた真平 (藤田健心) と小学校に上がる前の妹・灯 (白鳥玉季) がいる。大宮はトラックの運転手、生活の為、仕事は休めない。母親の死は家事や妹の世話を真平にもたらす。母の死を悲しむより、自分の負担が一気に増えたことで押しつぶされそうになっている。受験も諦めるしかない。それを知った幸夫は衝動的に家事や子供の世話を買って出る。買物、食事の世話、保育園の送り迎え、全くの別世界。そのてんてこ舞いぶりを本木と子供たちが絶妙に演じる。狭い室内の手持ちカメラが効果的。子供、特に妹は自然、演じている感が全くない。

若い編集者の岸本 (池松壮亮) が、”子供を持ってくると全てが許される、逃避なんじゃないですか” (そんな意味のこと)と冷ややかに言う。時々出てきてクールなコメントを発する池松が良い。「セトウツミ」( 拙ブログ 2016.9.14.)といい本作といい、池松、さり気なくキラリと光る。

大宮は具体で生きている。今も必死でトラックの深夜便を運転して生活を支える。幸夫の助けは有難い。子供もなついている。

保育園の送り迎えを申し出る女性が現れたりして、前に進めないでいた大宮の方に日々が展開しだす。幸夫はそれに嫉妬する。

身近な人の死を、死そのものとして悲しむことが出来る人間なんていやしない。みんな自分の都合を加えて考える。真平は”お母さんじゃなくてお父さんだったらよかった” と思っている。それを父と喧嘩した時、口に出してしまう。真平の心は容量を越えてしまっていた。

喧嘩の数日後、大宮が事故を起こす。田舎の病院へ向かう幸夫と真平。

怪我は大事には至らなかった。病院を出てくる大宮,迎える真平と幸夫。父と子が駆け寄って、という感動のシーンにしても良いところ。カメラは真平を促した幸夫を写し続け、オフに真平と大宮のさり気ない会話を二言三言。この外し方は上手い。このさりげなさ、好きである。

大宮父子と幸夫は駅で別れる。駅のロングショット、そこに「オンブラ・マイ・フ」(作曲.ヘンデル、歌・手嶌葵) が流れる。この映画の唯一の癒しのシーン。

ようやく作品化出来た。その出版記念パーティー。大宮親子も居る。真平が、口下手の父に代わって挨拶する。映画的には大団円、こうしないと纏まらない。しかし大宮も真平も、自分たちがネタになった小説をどう思うだろう。素直に祝えるだろうか。第三者の父と子の物語を借りて、幸夫自身の気持ちは整理が付いたのだろうか。付くはずがない。ただ、この家族と関わる中で、自分のことだけを考えた生き方が少し変わった。妻は子供がほしかったのかもしれない、とも思った。人生は他人に寄って作られる。”人生は他者だ” 小説用のメモノートに書き込む。それは言い訳用のノートでもある。父っちゃん坊やが少し大人になった。

言い訳なんて一生続く。”生まれてきてゴメンなさい” の言い訳を考え続けるのが人生なのかも知れない、多分。

竹原ピストルの登場シーンはいつも怖い。台詞を喋り出すまでに ”間” がある。この偽善者! と殴りかかってくるのではないかと、いつも思う。でも少しして口を開く竹原の台詞は穏やかで優しい。この ”間” に幸夫への批判がギュウギュウ詰めになっている。

 

音楽、頭にレトロな感じのジャズギターのピッキング。そしてステファン・グラッペリ風のVlソロ、快調に入る。Vlは中西俊博、これだけはローリングで読み取れた。西川監督、「夢売る二人」(拙ブログ 2012.9.20) でもブルースギターでやっていた。こっち系好きなのかも。成る程、幸夫を滑稽に描くということか。幸夫の暗めな心象、そこにはPfの単音でゆっくりと間をおいて、ラ、ド、ミ、ラ、短調の分散和音。こういうムキだし、作曲家は多分しない。恐らく演奏家の脇で直接指示して弾かせたのではないか。あるいは自分で弾いたか。「そして父になる」(拙ブログ2013.10.11) の鉄塔のシーン、是枝監督と同じ様なやり方をしたのではないか。Pf単音なら作曲家を頼らず、その場で指示して自ら音楽を好きなように出来る。あくまで推測ではあるが。

中盤あたりからはPfソロで「バイエル」の曲 ( 多分、確信無し、昔弾いたような記憶が…) になる。その曲はGuでも奏される。エンドロールもこの曲だったからこれがテーマの様なものか。練習曲だから、感情のない幾何学的音楽、映像と距離を置く。

そして大宮と真平を見送る田舎の駅、ここで「オンブラ・マイ・フ」が感動的に流れる。

カラオケやらTVの音楽やら現実音処理の音楽はかなりあるが、劇伴としての音楽は少ない。各々のシーンを観る限り違和感無く、音楽は役割を果たしている。しかし全体として観た時、この映画で音楽はどんな役割を果たしたのだろう。「オンブラ・マイ・フ」だけは 許しの音楽として初めから決まっていたか。それ以外のところで音楽を付けた意味はどこまであるのか。無いより流れがスムーズになる、雰囲気が出る、それだけでも良いといえば良いのだが。

音楽のこの統一感の無さ。必ずしも統一感が必要という訳ではないが、音楽は映画全体のトーンを決めることが出来る。頭のレトロなギターとVlのジャズ、エンドもこの編成でスローに、真ん中に「オンブラマイフ」をハイライトとして、他は全て無しにするという考えだってある。

エンドロールの音楽関係クレジットを一所懸命見た。音楽プロデューサーというクレジットはあったが、音楽というクレジットは無かったのでは。確信無し。見落としているかもしれない。でも一人の作曲家がトータルで音楽を考えた、ということでないのは確かだ。ラドミもバイエルも作曲家は不要。「オンブラ・マイ・フ」は既成曲。頭のGuとVlの曲だけが音楽家の手になる。これももしかしたら既成曲か。

調べたら「揺れる」(音楽・カリフラワーズ) も「ディア・ドクター」(音楽・モアリズム)も「夢売る二人」(音楽・モアリズム)も、ブルースギターのナカムラという人のバンドで、作曲演奏共、ナカムラが担当している様。この人が西川監督とコンビだったのだ。本作でも頭のレトロジャズと中程の「バイエル」ギターバージョンはその人の演奏によるものと思われる。ローリングで演奏家の名がクレジッタされていたが、読み切れず未確認。作曲家というより演奏家としての参加。本作、実質的な音楽監督は西川美和だ。

映画音楽の方法に正解はない。最後は監督の主観に収斂するしかない。作曲家の見方が入り、監督の意図を遥かに超えた深さと広がりを持つことがある (稀だが)。その逆もある。ただ自分の内へ自己完結させていくと、映像と音楽が起こす奇跡の瞬間が訪れることはない。

 

僅かなシーンだが、浮気相手を演じた黒木華が、実に”らしかった”。深津絵里はいつも役その物になってしまう。灯が演じる以前の自然さで良かったのに対し、真平はしっかりと演じて見事だった。胸が一杯になるシーンはみんな真平絡みだった。

モックンは熱演、しかし綺麗過ぎる。あの端正な顔はどんなにむさ苦しくしようと変えようがない。ノーブルですらある。本当は少し汚らしさが漂う役者の方が滑稽さは出たかも知れない。そうしたら商業映画として成立しない。難しいところ。

 

原作・脚本・監督 西川美和     音楽のクレジット無し(未確認)

2016.11.02 「手紙は憶えている」 日比谷シャンテ

2016.11.02「手紙は憶えている」日比谷シャンテ

 

アウシュビッツの生き残りは僅かになっている。ホロコーストへの反省は薄らいで行く。逆に賛美するような動きが世界中に起きている。

高級老人ホームの90歳になんなんとする主人公セブ、あのクリストファー・ブラマー、”エーデルワイス” の人、当たり前だが老けた。一週間前に妻が死んだことも解らなくなっている認知症の老人を、ある時は毅然とある時は老醜晒して汚らしく、見事に演じている。名優は凄い。

アウシュビッツで生き残ったユダヤ人は戦後多くの人がアメリカに渡り、全く新しい人生を始めている。セブも、老人ホームの友人マックス (マーティン・ランドー) もそう。ドイツに居た時の家族はナチに殺された。家族を殺した忘れられない地区責任者、その者も戦後アメリカに渡って偽名を使い、生き延びているという。二人はその男を捜し続けた。四名までに絞り込めている。マックスは車椅子生活、自由が利かない。セブに、この中から探し出して殺せ ! と言う。セブも友にそれを誓う。マックスは段取りを事細かに手紙に認め、認知症で忘れてしまうセブに、この通りにするのだ、と指示する。老人ホームの個室の電話に張り付いて、指示し連絡を待つ。

二人はアメリカのリスタート人生で成功した様だ。お金は持っている。セブは手紙に書かれた通り、まず銃砲店で、撃った時に衝撃の少ない拳銃を購入する。運転免許証だけで簡単に買えた。4人を訪ねてアメリカとカナダの国境を列車やバスで何度も越える。車中で小さな子供との交流があったりする。少女とも仲良くなる。ひ孫位か。アウシュビッツで殺された我が子はこの位の年齢だったか。この少女の曽祖父が捜している男だったらどうする? 撃てるか? など、色々と見ている方が勝手に想像を巡らす。

痴呆老人のロードムービー、しっかりとシナリオは出来ている。でもそれはマックスとセブの間だけ、それ以外の人には国境を股にかけた俳諧老人ロードムービーだ。

ついに男を突き止めた。訪ねると男は ”待っていた” という。銃を構え、ドイツ名の名前を言うと男は ”それはお前の名前だ” と言う。セブはユダヤ人ではなかった、男とセブはドイツ人だった。ドイツが降伏した時、それまでの加害者が生き延びる方法は被害者、ユダヤ人に成りすます事以外に思いつかなかった。二人はアウシュビッツの囚人番号を腕に焼き付け、ユダヤ人に成りすまし、アメリカで生き延びた。捜していた男とは自分だった。セブは男を撃ち自分も撃つ。マックスはいっぺんに二人を始末した。

 

音楽、マイケル・ダナ。Cla、Ob、Fag 、木管を上手く使い、小編成の弦、特にVCを上手く使っている。音楽はかなり多い。音楽がこの映画のトーンを作って、とっても効果的。メロが残るというより、現代音楽だ。きちんと画面に合わせて書いている。正統な映画音楽の方法を知り尽くした作曲家の仕事だ。老いの悲哀とナチ捜しのサスペンス、両方をフォローした良い音楽である。

 

最後のどんでん返しは予想がついた。それでも目が離せなかった。殺す側だった者が殺される側になり、必死で生き延びた。ドイツ人は簡単にユダヤ人に成れるもんなんだ。二十歳そこそこ、どんなことをしても生き延びたかった… 同じことはアウシュビッツで死んだユダヤ人にも言える…  

大構えの映画ではないが、重い歴史を背負ったサスペンス映画として見応えがある。

 

イスラエルのナチ戦犯を捜す秘密警察モサド、 その情報網は世界中に張り巡らされているという。フレデリック・フォーサイス原作の「オデッサ・ファイル」(1974 監督.ロナルド・ニーム) という映画を思い出す。アイヒマンを捕えたのもこの組織だ。マックスはきっとこの組織の関係者だ。

 

監督 アトム・エゴヤン  音楽 マイケル・ダナ

2016.10.29 「君の名は。」 Tジョイ大泉

2016.10.29「君の名は。」Tジョイ大泉

 

運命の糸で結ばれた純愛というものがある。どんな困難も乗り越えて二人は結ばれることを決定付けられている。この映画は、そんな愛がある、ということが前提だ。

ある日突然、自分の肉体が見知らぬ異性と入れ替わっている。同じ高校生。かつて大林宣彦の「転校生」(1982) という名作があった。でも「転校生」はお互いが見知っている身近な者同士の入れ替わり。この映画は違う。東京に住む立花瀧 (声・神木隆之介) と岐阜の糸守という小さな村に住む宮水三葉 (上白石萌音)、全くの見ず知らず。理由付けは一切ない。突然そうなった。運命だ。

朝起きると胸が膨らんでいる。鏡を見ると映ったのは思春期の少女、中身は瀧。朝起きると股間に挟まる物がある、男の体、中身は三葉。肉体が入れ替わるというより、心が入れ替わったと言う方が的確だ。描写は可愛くエロティック、萌え系というのだろうか。

一晩寝ると朝には入れ替わった記憶は消えている。だからそれを夢だと思っていた。しかし妹の四葉から ”お姉ちゃん、今日はまともだね、昨日はおかしかったよ”と言われたりする。周りの様子から段々と夢でないことが解ってくる。入れ替わりは不定期。二人はバレない様にお互いの生活情報や起こったこと仕出かしたことを携帯に記録して相手に伝える。記憶は消えるが文字は残る。こうして二人は相手を知っていく。特別な関係になっていく。恋愛のプロセスだ。お互いの容姿は知らない。携帯に自撮り写真を残しておけばなんてツッコミは無粋。辻褄の合わないことは必ずあるもの。それを乗り越えてこそファンタジーだ。

 

祖母の宮水一葉 (市原悦子) は三葉の中に時々別人が居ることに気付く。”お前は三葉ではないね” でも少しも驚かない。“私も二葉 (亡くなった母親) もそんな時期があった”

この家は宮水神社の御神体を守る神官の家系。父親はそんな家系を嫌って家を出て、今は村長になっている。神官が寄りによって政治の世界とは、祖母は文句を言いながら一人で御神体を守り、三葉四葉姉妹を育てた。

二人に組紐を教える。何本もの糸で編み上げつつ、寄れて前後して。組紐は時間だ、時間を現すのだ、と一葉。日々の直線的不可逆的時間とは違う、寄れて前後する組紐的時間… この例え、ちょっと強引な気もするが…

祭りで奉納の舞を踊る三葉と四葉。口噛み酒を造って供物とする。米を口に含み唾液と共に吐き出してそれはやがて酒となる、最古の酒の形。

どうやら宮水家の女はこの世とあの世を行き来するイタコらしい。女系? 父親は娘婿?

こんな神憑りの家系であると同時に東京に憧れる思春期の高校生、それが三葉。

 

瀧は父親と二人で生活しているよう。父親民俗学の学者 (だったか? )、 それ以上の描写はない。バイトに精出して、お姉様風美人の奥寺先輩 (長澤まさみ) に憧れている。奥寺先輩、一途な時期を卒業した余裕で瀧に接する、イイ女だ。瀧に神憑った様子は見られない。

 

映画の冒頭は宇宙から地球に近づく彗星、時々接近を知らせるTVのニュースがインサートされる。映画の後半は二人と、この彗星が交差する話となる。

瀧が奥寺先輩とデートした日、三葉は衝動的に東京へ向かう、四葉にだけ告げて。

生活情報はあるが顔は知らない。”瀧君…、瀧君…” 捜し疲れた満員電車の中で二人は偶然向き合う。三葉の方が、もしかしてと声を掛ける。突然のこと、怪訝な顔をする瀧。乗り降りの人に押し出されて車内とホームへ引き離された瞬間、ハッと気が付く。三葉の髪からほどけた組紐が瀧の手に渡る。

それっきりだった。二人が会ったのはそれっきりだった。その日以降入れ替わりは起きなくなる。携帯も繋がらなくなった。

何年かが過ぎるも瀧は気持ちを引き摺っていた。思い切って奥寺先輩と友人と共に糸守へ向かう。この一連、奥寺先輩と友人と瀧の微妙な関係も描いて青春映画であることを忘れていない。そこで分かったことは、数年前、彗星の破片の落下で、糸守の宮水神社の一帯が消滅したという事実だった。役場の犠牲者の記録には三葉の名前もあった。それは東京で一瞬二人が会ってから間もない日。その日、瀧は降り注ぐ彗星のあまりの美しさにただ見とれていた。

彗星の破片が落下、一帯は消滅、犠牲者?百人、という新聞記事がインサートする。

瀧はひとり、消滅した村に向かう。そこにあったのは3.11を思わせる光景。ここから先はあの世、と一葉が言っていた御神体を祭る場所に足を踏み入れる。そこで三葉が奉納した口噛み酒を飲む。それが何を意味するのかはよく解らない。

隕石湖を見下ろす外輪山、時は黄昏、あの世とこの世が交差する組紐時間。現れた三葉と瀧は向き合う。瀧が彗星の破片が村に衝突することを話す

ミシェル・ファイファーの「レディホーク」(1985 監督リチャード・ドナー) という映画を思い出す。愛し合う二人が呪いによって鷹と狼に変えられるも黄昏の一瞬だけ元の人間の姿で向き合えるという話だった。

この黄昏のシーンは美しい。記憶が消えても忘れない様にとお互いの名前を手の平に書く。瀧が書き終え三葉が書こうとした時、黄昏は終わり、瀧の手の平に横一本線だけを残し、三葉は消えた。

そこから時間は彗星の破片落下の前に遡り、何とか村人たちを救うべく三葉の孤軍奮闘、父親である村長への直談判、変電所爆破など活劇だ。彗星の破片が衝突するなんて誰も信じてくれない、必死に説得して回る三葉、走りながら消えかけて行く瀧の名前を言い続ける。瀧君、瀧君、瀧君、タ…、キ…、躓いて転げ落ちて…、思い出せない。手の平を開いた。そこには、名前ではなく“すきだ”と書かれていた。オヤジの目頭は熱くなり、女子高生なら涙線は決壊だ。

娘を信じて村長は避難命令を出したのか。そこははっきりしないまま、映像は破片衝突の場面になる。そして黒味。時間経過だけでなく、何ヶ所か時間軸が前後するところに黒味を効果的に入れている。

 

それから何年かが過ぎ、瀧は就活の時期を迎えていた。三葉の記憶はほとんど消えかけている。それでもずっと引っ掛っていた。手には組紐の腕輪が巻かれている。誰に貰ったものか、何故し続けているのか解らない。でも運命の人っているはずだ。その人に遠い昔、会ったような気がする。四谷、通過する車窓からの代々木駅、歩道橋 (どこだろう?) 、都会の抒情と瀧の心情が重なって美しいシーンが続く。

センチメンタルなまま、このまま終わっても良いかと思った。少し前に、糸守に彗星の破片が衝突するも偶然にも避難訓練と重なり村人は全員無事、という新聞のアップが入っている。三葉もどこかで生きているのだ。ピュアな初恋なんて成就しないもの。二人は大人への階段を一つ登った、で終わる。ところが違った。

 

四谷か神楽坂か高田馬場か、あの辺の裏通り、二人はすれ違う。瀧がもしかして? と足を止めて振り返る。三葉は何事もなかったようにそのまま歩いていく。少しして振り返った。瀧もそれに気付いて振り返った。二人の目に涙。観客にも涙。

三葉の振り向いた笑顔にワンカット、アニメのお決まりの絵文字っぽい笑い顔があった。あれは好きじゃない。他にも何か所か、アニメ定番のリアクションや感情表現がある。ファンには共通言語となっていて違和感はないのだろうが、アニメ嫌いにとっては、だからイヤなんだよ、になってしまう。あのワンカット、残念だった。

主題歌が確かアカペラで入る。

 

実は二度観した。一度目は錯綜する時間軸を追うのに精一杯だった。それでも追い切れず、時間の行ったり来たりと並行宇宙が団子になって、でも一途でピュアな初恋は初々しく、画は綺麗で、所々にアニメ定番の感情表現があったりはするものの、時間軸を正確に解らなくてもオヤジだって感動したのだから、高校生あたりの感情移入は半端ではないだろうと思った。

このブログを書く為に時間軸と並行宇宙は確認したいと思い、めずらしく二度観した。二度目でかなり解った。しっかりと構築されているなぁと思った。しかしまだ正確には解り切れてないかもしれない。ここまで時間軸をいじられると僕はそれが気になって感情移入にストップが掛かってしまう。組紐時間に身を任せて細かいことは気にせずで良いのかも知れないが。

最後の再会、あれはイリュージョンとも考えられる。でも並行宇宙なのだろう。してみると別の宇宙では三葉は死んでいる。それを蘇らす為に並行宇宙という考え方を使った。それは突然の災害に見舞われた人々への救いにもなっている。

 

音楽はRADWIMPS。人気バンドらしい。Vocalものが4曲(?) も入っていて、話のブロック毎の纏めを歌が担っている。聞き取れなかったが歌詞も映画に合わせた意味になっているのだろう。歌がちゃんと劇伴の役割を担っている。冒頭に聴こえるマンドリン(?) の音色も良い。歌以外の劇伴、必要なところに的確に付けていて、ベタ付けでないのは良い。小編成の弦のアレンジも的を得ている。音楽のやり取りは相当あったのだろう。Synやプロツールスの無かった時代、デモ出しなんてない、音楽が一発録りだった頃には考えられない緻密なやり取りをしているのだろう。そんな今のやり方の良さが出ている。声と歌い方に特徴があるので、歌もあと一曲あったら鼻に付いたかも。ギリギリのところだ。

 

話は変わる。邦洋問わず昨今の映画、並行宇宙という考えを安易に使いすぎてやしないか。テレパス七瀬の頃は新鮮だったが、今や困った時の並行宇宙、一度死んだ者もこれで簡単に蘇らせてしまう。これを使うと必ずどこかに矛盾が起きる。この映画でも、最後のシーンの瀧と三葉の属する宇宙は違うはずだ。でもそこは組紐時間と口噛み酒の力、綺麗に纏めているのだから、これこそ映画の力である。

そうではなく、いくらでもやり直せる並行宇宙、リセット! ゲームのリセットとほとんど同義語で使うケースのことだ。例えば「オール ユー ニード イズ キル」(拙ブログ 2014.8)、あの映画の”死” はほとんどリセットだ。時間のループと言う考え方らしいがこれも多分並行宇宙の一形態、いつでもまた生き返れる、死んだって直ぐまたやり直せる。死は随分軽いものになった。けれど僕らが生きる日々は間違いなく不可逆的直線の時間だ。死はその中にある。リセットなど出来ない。安易なリセットは死からリアルを奪っていく。この蔓延、とっても気になる。

 

監督 新海誠  音楽・主題歌 RADWIMPS

2016.10.23 「何者」 Tジョイ大泉

2016.10.23「何者」Tジョイ大泉

 

内輪のチチクリアイ、これが一番の侮辱だった。学生の頃の表現活動なんてそんなもんだ。そのエネルギーの源は僕らの頃はただ“モテたい”だった。

芝居やバンドや小説や、身内でチチクリアっていた学生がモラトリアムを終えて社会へ出る、そこに就活という関門がある。

冒頭、荘厳でスペクタクルな音楽が入って、何が始まるのかと思った。画も暗いトーン、居並ぶ学生のロングショット、儀式っぽい。いや就活は今や儀式なのかもしれない。

僕らの頃はそんな大袈裟な関門では無かった様な気がする。会社なんていつでも辞めてやる、辞めて旅立つ、そんな時代だった。

学生でなくなった途端、チチクリアイの表現は世間にさらされる。世間とは、評論家なのか、プロのスカウトなのか、会社なのか、その帰結としてのお金なのか。そこに飛び込めないから就活する。世間の中の会社に属そうとする。組織の誰々という名刺で何者かになる。

何者?と問われて会社の名前を言う。ほとんどの人はそうだし、その会社名のある名刺は何者?に対する返答であり、世間はそれを信用する。だから学生のくせに名刺を作って真似っこをしたりする。わざと手書きの文字を使ったりして少しでも自分は他とは違うとアピールしたくって。名刺ごっこは何者かになった錯覚を起こす。

 

表現には認知が必要だ。表現しただけではチチクリアイの内。でもまず表現しないと始まらない。頭の中にある内はすべて傑作。誰だって未だ書かれない傑作小説や詩を一つは持っている。僕だって恥ずかしながら持っている。それはほとんどの場合、永久に書かれない。

認知されなくたっていいじゃないか。好きなんだし、やりたいんだから。確かにそうなのだが、認知されないということは、何者でもないということ、何者でもない状態でいるには相当の覚悟がいる。この覚悟が出来ずに、何者かになる為に就活をする。

 

芝居に没頭して学生時代を過ごした冷静分析型の拓人(佐藤健)。拓人とルームシェアする単純一直線のロッカー・光太郎(菅田将暉)。光太郎の彼女で拓人が密かに思いを寄せる素直な性格の瑞月(有村架純)。会社に入ったからと言って今は一生が保証される時代ではない、組織に頼らず個で生きなきゃダメだ、と初めの内は就活を拒否する隆良(岡田将生)、隆良と数週間前に同棲を始めた理香(二階堂ふみ)、五人の就活、それを拓人の目線で追っていく。

 

拓人が共に学生劇団を立ち上げた相方が、学生を辞めてプロになった。自分の劇団を立ち上げた。プロになったからと言って世間が認めたということではない。避けていたものの意を決して公演を見に行ったら、学生の頃よりつまらなかった。それでも毎月公演を打ち続けている。拓人はそれを冷ややかにツイートする

 

瑞月は親が離婚し母の面倒をみなければならなくなる。彼女だけが自分の思いだけで就活を決められない。自分のことだけで思い悩めるのがどんなに幸せなことか。渦中の者はそれが解らない。どんなに辛くたってそれは黄金時代なのだ。社会から強制されないことだって幸せなことなのだ。

 

拓人はそんなみんなの就活の様子をスマホでツイートし続ける。それを理香に気付かれて罵倒される。就活も上手くいかない。芝居への踏ん切りも付けられない。そんな半端な自分を正当化、というより自己保身の為にツイートしている。”自分のツイートを読み返して自己満足?、自分は彼らとは違う何者かである様な気になっているんでしょう!”(不確か)

 

冒頭の大仰な導入、荘厳な音楽。PCの変換を使ったクレジットタイトルの出し方、いかにもPCスマホ世代の映画。それに続いてROCKがカットインして、光太郎のラストライブ。このメリハリは良い。菅田のVocal、様になっている。シャウト系、バラード系、どちらも良い曲。音もちゃんとライブの音がしている。

音楽は総じて上手くいっている。Syn打ち込み系にPf、かなりベタ付けだが、野別幕無しのシーンベッタリということではなく的確。ズリ上がりズリ下がりの付け方も効果的。私が学んだ付け方ではない今風の付け方。フレーズも曲尻も合っているので充て書きか。それとも相当緻密な選曲編集をしたか。中田ヤスタカ、良いセンス。Pfのウェット系のメロがちょっとベタな感じがしたが、この位でも良いか。

 

監督、三浦大輔。演劇系らしい。多分自分自身の経験をいろいろと反映させているのだろう。所々に演劇的な表現もある。演劇やっていた連中、こんな経験をしている奴、ゴロゴロいた。みんな時が経つに連れ、普通に収まった。一応世間的には何者かになった気になっている。

 

スマホのツイートは困ったもの。瞬間芸の会話は消えるが、瞬間芸のツイートは後に残る。表現といえるまでの熟成を待てない未熟な文字表現が氾濫する。一億総ペラッペラ表現者。もう止められない。サルに大変な道具を与えてしまった。

 

応募する方も採用する方も、就活が馬鹿げていることは解っている。しかしそれに代わる方法が無い。拓人が1分間自己PRで、1分間で語ることは出来ないと席を立つ。この終わり方は清々しい。しかし映画の ”終った感” は無い。明解な ”終った感” を作るのは無理だ。「甘くほろ苦い学生時代」を描く映画にするなら簡単だが、この映画、自分とは何者か、世間で何者たり得るか、を問うている。問はまだまだ続く。こんな映画に成り難い題材を良く映画にしたものだ。

エンドロールの主題歌も違和感なく聴けた。

 

人間社会の中で”何者か”でありたい、という思い、それってとっても良く解る。でもある年齢を超えると、人間社会の中での”何者”なんてどうでもよくなる。でもそれはある年齢を超えて初めて解ること。人間社会の中で”何者”たり得ること、その為の戦い、葛藤、それはそれなりに若くて正しい。

佐藤健、見直した。菅田将暉も良い。

 

監督 三浦大輔   音楽・主題歌 中田ヤスタカ 

2016.10.14 「SCOOP」 日劇マリオン

2016.10.14「SCOOP」日劇マリオン

 

どんなヤンチャも歳と共に世間と折り合いをつけていくものだ。それが自然。でも折り合いを付け損なった奴がいる。どうしても折り合えない奴がいる。

雑誌などと言う半分ヤクザな業界でも、そこそこの歳になれば、副編やら編集長やら部長やらになって折り合いを付ける。結婚したり子供が出来たりすれば、当然のことだ。

福山雅治演じるカメラマン・都城静はどうしてもそれが上手くいかなかった。いい歳して今だに仕事、仕事、女、借金。元ヤンチャ仲間で今は文芸誌の編集という出世コースにいる人物が、作家を撮らないかと誘ってくれる。静はそれを断る。”いつまでやってるんだ、中年パパラッチ ! ”  静に向かってそう言い放った人物を何と塚本晋也 (「野火」の監督) がやっている。階段のすれ違いでの1シーン。折り合いを付けない最たる人が真逆を演じ、説教する。これは笑った。塚本のキャスティング、白眉。

副編の定子 (吉田羊) 、バリバリのやり手女、静の元妻、スキャンダル路線の推進者。もう一人の副編・馬場 (滝藤賢一)、この雑誌はグラビアで売れてるんだとスキャンダル路線を頭から否定する。でもみんな若い頃は静とツルんで突っ走っていた。

静の助手として付いた使えそうもない新人・行川野火 (二階堂ふみ) とコンビで、若手政治家 (斎藤工)のスキャンダル写真をスクープしたあたりから、雑誌の部数が伸び始め、編集部は久々にイケイケとなる。静、野火のコンビが次々に芸能ネタのスクープをものにする。

社会ネタの事件が起きる。少女を四人殺した若い男、この男の顔を撮りたい、各社一斉に狙うが警察は鉄壁の防備をしく。警官が何重にも取り巻き、ブルーシートで覆っての現場検証。ここで昔取った杵柄、静から頼まれて馬場が老体に鞭打ってひと暴れ、野火のカメラがしっかりと顔を押えての大スクープ。静は一晩警察にご厄介となったが。

みんなが久々に昔のように燃えた。

 

今時こんな熱い職場ってあるのだろうか。コンプライアンスが闊歩する時代、多分ある訳ない。まるで70年代の熱さだ。でもこの熱さ、嬉しかった。

アメリカンニューシネマを思い出した。時代が変わり周りが変わっていくも、変わっていけない不器用な奴。そんな奴が時代遅れの熱さを振りまいて、あっけなく死んでいく。

ヤンチャ仲間だったチャラ源 (リリー・フランキー) 、今はヤク中。でも静の裏社会の情報源、困った時はチャラが救ってくれる。設定は違うも「真夜中のカウボーイ」(1969 ジョン・シュレジンジャー) のジョン・ボイトダスティン・ホフマンが、福山とリリーに重なった。片や憧れの地はフロリダ。静とチャラは会えばハワイでナンパした話をする。

クスリで訳が解らなくなったチャラが娘会いたさに、元妻と娘の所へ押し入る。同居の男と妻を殺し、娘を人質にして立てこもる。チャラから電話が入る。”静ちゃん ! ”

チャラは拳銃を持っていて訳もなくブッ放す。警官が遠巻きにする中で上手く娘を引き離した。”二人でハワイへ行こう、ハワイへ” その時一発が静のこめかみを射抜いた。野火のカメラが静に促されるようにその瞬間を捉えた。

時代と折り合いを付けられなかった奴が熱い思いを周りに振り撒いて、最期に少しだけ輝いて、あっけなく死んだ。

 

福山がダーティーヒーローを演じてカッコイイ。こんな役やれるとは思わなかった。役者として一皮とは言わないまでも70%位剥けた。

吉田羊がこれまでのどんな役よりも生き生きしていた。

涙目の滝藤もいい役でピッタリだ。

二階堂、初めはアレ? と思ったが、初心い小娘が一丁前になっていく様子をしっかりと演じていた。

リリー・フランキーには言葉もない。 

前日「お父さんと伊藤さん」を観た。3年前、「そして父になる」(拙ブログ2013.10) を観て、同月に「凶悪」(拙ブログ2013.10) を観た。あの時の衝撃。しかも今度は日を置かずのリリー二連チャン。今風仙人の様な伊藤さんと、ヤク中のチャラ源、あの薄味の様でいてしっかりと存在感を主張する顔は変わらない。デッサン顔は如何様にも仕上げられるのだ。

 

折り合いを付けられなかった奴の現実は、大方は悲惨だ。ヤクザになったり、犯罪者だったり、ただのグウタラだったり、大言壮語する生ごみオヤジだったり。だからこそ映画の中ではカッコよく描いてほしい。その熱気は正しいし、後の奴らにも必ず伝わる、そう描いてほしい、せめて映画の中では。

 

大根仁、脚本が上手い。ちょいとした台詞も気が利いている。コンプライアンスって言葉もちゃんと台詞で言わせている。もちろん無視して突っ走るのだが。無駄なくテンポよく余計な説明はそぎ落として。新人・野火の素朴な質問を諸々の説明に上手く生かしている。華奢なチャラが大男を次々にぶっ飛ばすなんておかしい、とは後で考えて思うこと、見ている時は、”ああっ野火、助かって良かった”と素直に思った。どこかに、チャラはボクサーの成れの果て、なんて台詞があって聞き逃したか。

 

音楽はのっけから打ち込みの重低音、ガンガンと運んでいく。サスペンス、アクション、ウェット、娯楽映画の定番の付け方。曲は、良く有るフレーズ、当たり前のフレーズを繰り返して新味は無い。でもそれで過不足無し。明らかに選曲だ。充て方は上手い。監督のセンスか。ただこの作曲家には映画音楽を作曲したという自覚はあったか。単に選曲材料を提供しただけ? だったら選曲担当で充分、作曲家である必要はない。 この件、突っ込むと長くなるので、いずれ別の機会に。

ローリングの主題歌、なんか歌謡曲のようなメロだ。最後にちょっと気が抜けた。

 

久々に熱くなる映画、監督に感謝!

原田真人の原作映画ってどんなんだろう…

 

監督 大根仁  音楽 川辺ヒロシ  

主題歌 TOKYO No1 SOUL SET feat 福山雅治 on guitar