映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.10.13 「お父さんと伊藤さん」 渋谷シネパレス

2016.10.13「お父さんと伊藤さん」渋谷シネパレス

 

お父さん (藤竜也) 74歳、伊藤さん (リリー・フランキー) 54歳、彩 (上野樹里) 34歳、ちょうど20ずつ違う、誰の身に重ねるかで観方が変わる。

お父さんは定年まで教師を務めあげ、何年か前に妻に先立たれ、長男一家のところに同居している。自分の生き方、生活スタイルをしっかり持っていて変えず、人にもそれを押し付ける、いわゆる頑固ジジイ。

伊藤さんと彩はコンビニのバイトで知り合い、いつの間にか同居するようになった。伊藤さんは怒られている時も薄笑いを浮かべている様な顔をしている。今は臨時で小学校の給食のおじさん。バイト生活は長い。一度結婚して別れた。子供はいないよう。それ以上は描かれない。あとはリリー・フランキーの顔を見て想像するしかない。このデッサン顔が色んなドラマを想起させる。アパートの狭い庭で野菜を育てている。

彩は、一度は正社員として勤めたものの、今はバイト生活。

長男 (長谷川朝晴) は正社員として普通の会社に普通に勤め、きっと普通程度の上昇志向があるのだろう。その妻は息子の中学受験で頭が一杯。お父さんへの拒絶反応で吐いたりする。長男は追い詰められて、お受験期間だけでもお父さんを預かってくれと彩に頼みに来る。そんなこと関係なく、問答無用でお父さんは転がり込んで来た。

お父さんは社会の中でしっかりと何がしかであった。そのプライドは強固で、だからめんどくさい。

彩と伊藤さんは、世間と戦うことを止め、何がしかであることを放棄した。バイト生活で最低限の生活を維持し、小さく自己満足の生活を送る。伊藤さんは柔和で優しい仙人の様な人だ。リリー、竹林の七賢に見えてくる。中国の屏風絵に居そうだ。

お父さんは始め20歳も違う同居人が居ることに平然としつつ内心驚く。結婚する訳でもない。お父さんの価値観の許容範囲外だ。彩は生活の細部に渡るお父さんの斯くあるべきに辟易としてぶつかってばかり。昔からそうだった。争わない伊藤さんは何でも受け入れるのでいつの間にかお父さんは伊藤さんに心を開いていく。二人で植物の世話をする。

 

失踪したお父さんを長野の生家で発見する。叱責する長男と彩に対し、”僕はここで暮らす、伊藤さん一緒に住まないか” とお父さん。伊藤さん、この時は驚く程はっきりと物を言った。”何で家族でもない僕が一緒に住まなければならないんですか、それは家族の問題だ、家族で解決すべきだ” (不確か)。

伊藤さんは、3人でしっかりと向き合わなければダメだ、そう言い残して消える。久々の親子三人、向き合うと言っても、言い争いをした後昔話になって川の字になって寝る、それだけだ。

親子って何なんだろう。たまたまそんな関係だった為に余計な苦労をさせられる。そんなもんなければ何と気楽なことか。一方、ここまで子供を育てたんだ。少しくらい大切にしてくれたって良いではないか。親も子も自分の都合で考える。観る方も年齢の近い方に肩入れする。

伊藤さんは関係ない人として、また年齢的にもちょうど真ん中、何する訳でもないが触媒を果たす。親子としてたまたま出会い長い時間を共有した、宇宙で一番関わりを持つ他者、そんな見方を出来るのは真ん中に居る伊藤さんだけだ。きっと伊藤さんもこんな経験を経ているに違いない。

落雷で生家が燃え、お父さんの価値観の象徴である柿の木も燃え落ちた。万引きしたスプーンも散乱して失せた。スプーンの万引きはお父さんが作ろうとした社会との接点なのではないか。振り向いてほしかったのではないか。

スプーンと柿の木が無くなり、お父さんは拘りを捨てた。踏ん切りを付けた。

この踏ん切りはちょっと哀しい。拘りがその人を作っているという面がある。そんな拘り、ちょっと引いて見ればつまらぬことなのだ。彩も長男も、ああそうですかと軽く肯き受け入れてあげれば済む話だ。一方、お父さんも持ち続けた拘りが大したものではないことを早く自覚すべきなのだ。解っていても捨てられない…

親子は腹を割って話せない。いつまでだっても親のプライドがある。これが邪魔する。言葉に出来ないから暗黙の裡に了解せざるを得ない。それは長い時間を共有した親子だから出来る。伊藤さんはそれを解っていた。

郊外のもっと広い家に引っ越して三人で住もうかと伊藤さんと彩が話した矢先、お父さんは有料老人ホームに入る決意をする。

歩いていくお父さんの足取りはしっかりしている。それを追う彩。老人ホームに入ることになるのか、三人で住むようになるのか、どっちか解らない。

 

家族のかたちが変わり始めて久しい。離婚も多いし、シングルマザーやシングルファーザーも増えている。必ずしも結婚というかたちを取らない夫婦だっている。そこに正規非正規の経済的要素も加わる。「家族はつらいよ」みたいな従来型の家族なんて今や少ない。疑似家族の時代なのだ。

長男の家は従来型、彩と伊藤さんは新しい形と言える。どちらが幸せか、これは当事者にしか解らない。彩と伊藤さんだって、時間が経ち子供でも出来れば考えが変わるかもしれない。長男夫婦も、時が経ち子供が成長した頃、離婚なんてことだってある。斯くあるべきという枷 (かせ) が無くなり、家族は多様化した。子供と収入(正規・非正規)と愛情と年齢で、家族は様々に変わる。

 

音楽、世武裕子、ほとんどPfソロである。バックに少しSynが入っていたかも。でも聴こえるのはPfソロだ。とっても洗練された曲。この映画で音楽が果たす役割はドラマに則して感情の増幅とかいうものではない。全体の雰囲気を作ることだ。それはとっても上手くいっている。日本的湿気は極力排除されている。音楽が一役買っている。

3人の役者の演技も同様だ。上野樹里は自然体でほとんど地のままという感じがする。

リリーは飄々としていて、演じる度合は絶妙だ。台詞は優しく、でも明瞭で、或る種の意志を感じる。藤竜也だけが少しカリカチュアして演じている。良いアンサンブルだ。

 

監督 タナダユキ  音楽 世武裕子 

2016.10.3 「ある天文学者の恋文」 日比谷シャンテ

2016.10.3「ある天文学者の恋文」日比谷シャンテ

 

光の速さをしても届くのに何百年何千年と掛かる彼方の星は、空を見上げてその光を確認した時、すでに消滅しているのかも知れない。かつて放った光だけが残る。

初老の天文学者で大学教授のエド (ジェレミー・アイアンズ) とその教え子エイミー (オルガ・キュリレンコ) の恋、エドには妻子があるから今風に言えば不倫、老いらくの不倫、あまり美しいイメージではない。それを知恵と技術と役者の力を駆使して美しくするのが映画だ。

二人はそう頻繁には会えない。合えない時はメールでやり取りする。絶えず携帯の着信音が鳴る。時々贈り物も届く。そのエドの講義が休講となり、そこで数日前死亡したことが告げられる。エイミーには頻繁にメールが届く、死亡が告げられた今も。信じられないエイミーはエドの住むエジンバラへ向かう。エジンバラの古い街並みが美しい。

まるでエイミーがエジンバラへ来ることが解っていた様にメールが入る。DVDが送られてくる。DVDの中でエドはそこに居るかのように語りかけてくる。誰々に会えという指示もする。エドの家の前で張り込みをするエイミー。一緒に夏を過ごした湖のコテージではあたかも今さっきまでエドが居たかのように暖炉の火が燃えていた。

死を前にしてエドは手の込んだ虚構を作り上げた。自分が死んだ後もあたかも生きているかのように思わせること。何年も前に消滅した星の光を今見ている様に、生前に星の光をプログラムしておくこと。大学の講義でエドの死が告げられると、その何分後かにメールが送信される。エイミーは信じられず、エジンバラへ向かうか別の行動を取るか。考えられ得る可能性を想定してメールやらDVDやら様々な物を用意する。それらを実行するには協力者がいる。エドとは幼馴染の弁護士が壮大な指示書に従い指令を出す。コテージの女将は、もしエイミーが来たら、見つからないように暖炉の火を灯し続けるよう指示されていた。

DVDは編集されている。編集前のテープがあるはずだ。ようやく見つけたテープには無理に笑顔を作ってカメラに話しかけるも上手くいかず、苦しそうに苛立つエドの後ろ姿があった。彼は死が確実なものになった時、残りの全てをかけて、この虚構作りに没頭したのだ。それはエドからエイミーへの恋文であり遺書だった。

死者からの手紙という素朴なタイムラグは昔から映画ではよく使われた。今は携帯がある。メールがある。ほとんど瞬時に世界は繋がる。設計図は複雑かつ緻密を極めたに違いない。協力者で意図が解っているのはおそらく弁護士だけ、あとは配送業者の様に指示に従って機械的に対応するだけだ。脚本・エド、監督・幼馴染の弁護士というところか。それが見事に展開する。エイミーにとっては、まるでエドがどこかで生きているかのように。

エイミーが抱えていた母との間のトラウマもエドの指示で良い方向に向かった。学士論文もエドの指示で上手くいった。そのあたりからメールにズレが生じ始める。済んでしまったことへの意見が来たりする。エイミーは思わず泣きながら笑ってしまう。もう虚構は限界の様だ。もしかしたらすでに君の隣には若い男性が立っているかも知れない、私を忘れて新たな一歩を踏み出すように(不確か)、そんな意味のメールが届く。

 

エドは本当に死んだのか。メールや贈り物を届けているのは誰なのか。途中までは恋愛ミステリーで引っ張った。ミステリーとして突っ込み処は沢山ある。しかしそれはどうでも良い。いつの間にかこの二人の老いらく不倫は深く儚く掛け替えのないものとして輝き出すのだ。謎解きはエドの死を受け入れる過程である。受け入れた時、宇宙の時間と空間の中で、エドとエイミーという存在として出会えた奇跡に感謝の気持ちで一杯になる。この世に生まれ、たかだか7~80年で宇宙の塵と化す、人間って何だろう。そんな人間が人と出会い、愛するという時空を超えた精神の高まりを知る、愛って何なんだろう。そんな思いが匂い立ってくる。老いらく不倫などと言う人間社会のゲスな話を宇宙が匂い立つまでの映画に作り上げた、それは脚本であり演出であり役者の存在感 (ジェレミ―・アイアンズが演じるからそうなる)、そして欧州の街並み、それらが総合した時、背後に宇宙が起ち現れた。惚れた張れた、フラれた病気で死んだ、人間社会にドップリの恋愛映画が氾濫する中で、宇宙が匂い立つ恋愛映画なんてめったにない。

音楽はトルナトーレと盟友のモリコーネ。弦を中心のオケで優しく包み込む。結構沢山付けている。この映画がファンタジーではないがリアルでもないことを示している。印象に残るメロは無い。それがちょっと物足りなく感じたのだが、そうではなかった。モリコーネのメロは人間の喜怒哀楽の中に物語を的確に纏めてしまう。メロディー押しのモリコーネがそれをしなかったのはきっとそれを避けるためだ。世界観は作るがメロは印象に残らないようにする。感情移入をさせないようにする、きっとそうだ。

「鑑定士と顔の見えない依頼人」といいこの作品と言い、トルナトーレは知的作為に満ちた工芸品の様な作品を作った。作為の謎解きが目的ではない。背後に匂い立つもの、それを描くのが本当の目的だ。

 

監督 ジョゼッペ・トルナトーレ  音楽 エンニオ・モリコーネ

2016.10.4 「ハドソン川の奇跡」 新宿ピカデリー

2016.10.4「ハドソン川の奇跡」新宿ピカデリー

 

鳥によるエンジントラブルから、冬のハドソン川へ着水して全員無事だったという2009年の実話に基づく映画。搭乗、操縦席、事故発生、管制官とのやり取り、ハドソン川への不時着、救出、どれも徹底的にリアルに描く。CGや合成技術の痕跡は見分けがつかない。本物の飛行機を不時着させて撮影した訳ではないのだから、それらはあらゆる技術を駆使して作り上げたものであるはずだ。それが普通に溶け込んでいる。CGや合成はここまで来たか。

冒頭、マンハッタンの摩天楼をギリギリかすめながら飛ぶジェット機、ついに片翼がビルに接触したところで目が覚める。機長サリ― (トム・ハンクス) の悪夢。明らかに9.11がある。それに続いて事故調査委員会。時系列としてすでに事故は起きている。委員会はラガーディア空港に着陸出来たはずだという。彼らは航空会社や保険会社の思惑でハドソン川に着水したことが誤った判断だったと証明したい。

一方では155名を救ったヒーローとして騒ぎ立てられている、ヒーロー扱いと調査委員会との間で苦悶するサリー。その間に事故がカットバックで挿入される。

結果が分かっている事を描く難しさ、そこで委員会での立証を山場に持ってきた。上手い構成である。

委員会の席上、コンピューターによるシミュレーションが行われる。何度やっても無事空港に着陸出来る。サリーの判断は間違っていたのか。サリーがタイムラグに気付く。鳥が巻き込まれてエンジントラブルが発生するなんてケースの対処法のマニュアルはない。想定されていたものなら決められた対処法に拠って即座に対応出来る。が、この場合、逡巡する時間が必要だ。旋回して空港へ向かえば、建物に接触する恐れがある。高度と建物と空港の位置とエンジンの総合判断が必要だ。コンピューターには逡巡する時間が考慮されていなかった。サリーがそのことを言う。委員長はそれを仮に35秒と仮定した。するとコンピューター上で飛行機はビルに接触して空港には着けなかった。冒頭の悪夢である。この委員会のシーン、手に汗握る。

ボイスレコーダーをその場で聴く。それに合わせて映像が忠実に事故を再現する。208秒 (離陸してから着水までか) のドラマ、サリーも副機長アーロン (ジェフ・スカルズ) も冷静で正しい判断をした。

個々の乗客を描いて過剰に涙を誘うようなことはせず、さり気なく幾つかのエピソードを挟むその度合いは絶妙。無事着水するも真冬の川の水はすぐさま流入してくる。そこからの脱出、主翼に並ぶ乗客。通報に即座に駆けつけた巡視艇、落ちる飛行機を見て駆けつけた民間艇、岸に救急車、NYが一丸となって救出にあたった。サリーが言う。これは我々乗務員の力だけではない、NYの市民がみんなで作り上げた奇跡だ。イーストウッドの考える、あるべきアメリカの姿がここにある。

 

アメリカはヒーローが大好きだ。解り易いヒーローがいないと纏まらない。トム・ハンクスは、悩みつつ、それを表には出さず、冷静、仕事に責任感を持ち、家庭を思いやる、ヒーロー扱いされようと決して驕り高ぶらない、理想のアメリカンを嫌味なく演じる。「ブリッジ オブ スパイ」でもそうだったが、太めの体躯が、人を押しのけてでも勝ちたい! という、勝者としてのアメリカンヒーローとは違った、もう一つの優しく包容力のあるヒーロー像を示している。

どうしても「フライト」(2013.3拙ブログ) のデンゼル・ワシントンと比べてしまう。こちらはアルコール漬け、薬漬け、セックス漬け。飛ぶ直前にセックスと薬でキメ、背面飛行を行って不時着、でも犠牲者を最小限に止め、一度は英雄視される。しかしその後はバッシング。組合と会社が裁判をパーフェクトにコントロールして、彼がひと言”イエス”と証言しさえすれば無罪となるところまで段取りする。しかし彼は言わなかった。それは嘘だから。

二人は真逆だ。しかし資本の論理で動いていないところは同じだ。そしてどちらも、強い者が勝つ、勝った者がヒーローだ、というアメリカンヒーロー伝説とは全く違ったヒーロー像を作っている。

 

サリーは無事着水出来るという確信があったと証言する。彼の操縦技術がいかに優れているか、いかに経験が豊富であるかが描かれる。しかしそれよりも彼には9.11のトラウマがあった。あの惨劇を再び起こしてはならない。だからハドソン川を選んだのだ。地上の管制官はその時全員助からないと確信した。155名、全員無事。確かにこれは奇跡なのだ。

 

音楽はほとんどがPfソロである。クレジットにはクリスチャン・ジェイコブという個人名と、ザ・ティアニー・サットン・バンドというバンド名がある。前半、サリーの細かい感情にPfソロが短くアドリブの様に入る。これ、イーストウッドが自分で弾いているのではないか。イーストウッドはよく自分でやる。「エドガー」(2012.3) は確か全編彼のPfだった。ローリングのクレジットを読み切れなかったので確かなことは言えないが。このチョコチョコと短く入るPfソロ、無くても良かった様な気がする。

全員無事と分かった一番の盛り上がり、そこもPfソロだった。でもこの優しいソロは良かった。このさりげなさは素敵だ。弦はPfの後ろに薄く入っていたかも知れない。でも弦として解るように鳴るのはローリングに入ってからである。ここは大きな弦楽が抑制を効かせつつ厳かに鳴る。その後、何故か女声Vocalが入った。悪いとは思わなかったが意味不明ではあった。歌詞に関連があったのかも知れない。

 

クリント・イーストウッドは誰もが知る共和党支持者である。しかし彼の中にあるアメリカンヒーロー像は、トランプとはおよそかけ離れている。

 

監督.クリント・イーストウッド  音楽.クリスチャン・ジェイコブ、ザ・ティアニー・サットン・バンド

2016.9.27 「オーバーフェンス」 シネリーブル池袋

2016.9.27「オーバーフェンス」シネリーブル池袋

 

人生思い通りに行く奴なんていない。函館の職業訓練校の建築コース(大工コース)には思い通りにいかなかった連中が集まっている。みんな若くない。一人大学を中退して早くもそこに通う奴(満島真之介)もいるが。そこに通っていると失業保険が延長されるというのが本音。本気で大工になろうなんて奴はいない。みんなそれなりに何かを抱えている。今更、夢も無い。でも何十年ぶりかの学校だ。教官がいて時間割があって、もたもたすると怒られて、夏休みがあって、体育の時間があってソフトボール大会があって、この歳になって再び学校を経験するヘンなウキウキ感はある。授業が終わって、クラス仲間(?) と飲みに行って、“ナンパしましょうか、僕たち学生だけど”って。一度社会でイヤな思いをした者に突然訪れたモラトリアムな時間。

そんな連中の日常を淡々と描く。大した事件も起こらない。役者の醸し出す存在感で映画を成立させる。主役のオダギリジョ-の存在感が大きい。

別れた妻と子供に未練を残しつつ、元に戻れないことはちゃんと解っている。かつて自分は気が付かずに他人に何かを強いていた。ノイローゼになった妻が生まれたての子供を手に掛けようとしていた。そんな自らを全否定する様な経験を経て、何となく解って来た。流れに任せる、ただ受け入れる、積極的に人生に関わらない、そこから生じる優しさ、鷹揚さ、きっとこれが人に安心感を与える。教室では一番信頼されているようだ。

そんな男の前に鳥の羽ばたきを真似るキャバクラの女(蒼井優)が現れる。オダギリは関わるつもりはなかったが女の方が積極的だった。女は多分オダギリに一歩踏み出す希望を感じた。避けていたオダギリだが少しずつこの女を受け入れる気になっていく。この女に付き合ってみる気になっていく。最後は学校のソフトボール大会で、女の前でフェンス越えのホームランを打つ。ヒョロヒョロと上がったボールが、アレ?アレ?と本人もみんなも見守る中でフェンスを超える。カットアウト、久々にすっきりとした終わり方。ダラダラとした終わり方の映画が多すぎる。

オダギリの声や喋り方は、若さの自己主張が抜け、少し諦めはしているものの生きてはいこうとするこの主人公にピッタリの声だ。落ち着いて優しくソフトなあの声がなかったらこの主人公のリアリティはなかった。いい声いい喋り方だ。「FUJITA」の時もそうだったが、どこか絶望しつつ人に対して心を閉ざさない、そんな鷹揚さがある。絶叫とは真逆。この声で映画は成立した。

それにしても中年モラトリアムを映画にするのは難しい。どこかをデフォルメして映画的強調を作らなければ引っ張っていけない。山下敦弘は解った上でそれをしない。淡々としたドラマの微妙な変化で映画を引っ張っていく。これは中々大変なことだ。明解で解り易いが好まれるご時世、ターゲットは狭くなる。私もちょっとだけ退屈した。

飲み屋でヘラヘラ笑う若い女に向かって、“お前たち、今の内にそうやって笑っていろ、その内直ぐに笑えなくなるんだから”(不確か)と言って座をシラケさせる。

いっそのこと暗い映画にする方が簡単で一般性が出たかもしれない。絶望はしつつ明るくはないが暗くもない、難しい所を狙ったものだ。やっぱり山下は「天然コケッコー」や「リンダリンダリンダ」や「モラトリアムたまこ」の方が淡々さが生きていて好きだ。

中年モラトリアムの新たな第一歩ならぬ、なんとなく半歩踏み出す映画、さわやかにすると嘘になる。リアルにやると暗くなる。その間でちょっと嬉しくなるような映画、淡々でも退屈することなく引っ張っていける映画、これは難しい。でも山下はその一番近い所にいるのは確かだ。

音楽はAgがブルースっぽい弾き方で効果音の様に入る。音楽という流れでは入らない。それとかつての幽霊登場音楽のミュージカルソー。ヒューッと入るのでSynかと思ったらクレジットに、のこぎり楽器とあった。不安と曖昧さを現すのか、所々に入る。これが演出音楽として効果的だったかどうかは僕には解らない。監督の思い入れの範疇だ。

呉美保の作品をやっている音楽家だ。センスで勝負するタイプか。

蒼井優松田翔太北村有起哉満島真之介も役者は自然で良い。演じる度合が難しかったと思う。

 

監督 山下敦弘  音楽 田中拓人

2016.9.21 「怒り」 日劇マリオン

2016.9.21「怒り」日劇マリオン

 

東宝マークの途中からSynのパッドが静かにスネークインして空撮の夜の住宅街を覆う。Pfのリヴァーブを深くかけた高音域の打音がゆっくりとオフで入る。その一角、”怒り”が、ふとした切っ掛けで爆発する。凄惨な殺人、妻と夫の無残な死体、血文字で“怒り”、かなりドギツイ導入である。

突然、歌舞伎町の騒音がC.Iして右往左往する洋平 (渡辺謙) の後姿。風俗店への手持ちカメラでの突入、そこに居た、3ヵ月前に家出した娘・愛子(宮﨑あおい)。愛子はちょっと人とは違う。何でも受け入れてしまう優しい娘、その娘が目の前でヨレヨレになっている。

娘を連れ帰る車中。イヤフォンで聴いていた音楽を父親にも聴かせる。イヤフォンレベルでF.Iしたかと思うと一気にフルボリュームとなり、それに合わせて画面は踊り狂うゲイたち。プールサイドのゲイパーティー。男同士のキス。浸りきっているエリートサラリーマン・藤田( 妻夫木聡)。喧噪がC.Oしてケアハウスの静寂。寝たきりの母を見舞う藤田。母がどこかへ行った時の話をする。また行けばいいじゃないか。

それを受けて波音とボートのエンジン音、東京から越してきたばかりの泉 (広瀬すず) と地元の少年・辰哉 (佐々本宝) を乗せたボートが画面下から画面上の無人島に向かって沖縄の海を真一文字に走る俯瞰。

事件の発端と3つの舞台が簡潔に乱暴に提示される。3カ所に脈絡はない。編集は強引、それを躓くことなく音が運ぶ。Pfの音楽、歌舞伎町の喧噪、イヤフォンから入り爆音となるゲイパーティーの音楽、ケアハウスの静寂、海とボートの音…、有無を言わさぬ音のメリハリ。

 

藤田が男 (綾野剛) とハッテン場で出会う。やがて一緒に住むようになる。男の素性は解らない。が、優しい男だ。ケアハウスの母親にも引き合わせる。母も心を許し、最期の看取りも男がした。一緒の墓に入る話もする。一緒は無理でも隣なら。安っぽいヒューマンドラマにならない様、会話が一ひねりも二ひねりもしてある。このダイアローグ、中々。

愛子は父の下で働く無口な流れ者の男・田代クン(松山ケンイチ) を好きになる。この男も素性は解らない。田代は愛子の前だと心が楽になると言う。

泉と辰哉が向かった無人島にはバックパッカーらしき男 (森山未來) が居た。田中と名乗った。ジェット機の爆音と共に現れたこの男、やはり素性は解らない。

時々事件を追う刑事 (ピエール瀧三浦貴大) の様子が入る。すでに事件から一年が経過、モンタージュ写真を公開する。それを取り上げるTVのワイドショー、犯人は整形をしているかも知れません。モンタージュ写真が映し出される。3人は似ているかも、いや違う、疑念が少し湧く。

 

素性が解らないということ、様々な事情で社会的認知の外に置かれた者に法律の庇護は無い。じっと耐えて生きる。発することの出来ない”怒り”は充満する。引火のきっかけは何でもよい。沸点の低い奴が爆発する。誰が犯人であってもおかしくない。

 

映画は東京、千葉、沖縄の話を短いセンテンスでランダムにつないで行く。普通はエピソードごとにある程度の長さに纏めてつなぐものだ。どの話も、信じるということと、犯人かも知れない、という間の緊張で成り立つ。だから愛子のエピソードに泉がカットインしても、田代の話に大西 (綾野剛) が突然インサートされても、気持ちは共通しているので違和感がない。さらに同じエピソードの中で時間軸を前後させたりもしている。それらを台詞のずり上げずり下げ、音楽をまたいで付ける、効果音等で、躓くことなく運んでいく。台詞が前のめりでリードし、効果音が流れを遮断し、音楽が感情を継続させる。あるいはずり上がった効果音に導かれる様に台詞が入り、音楽がインサートをまたいで継続する。先に作ったサウンドトラックを物差しに画をはめている様だ。もちろん実際には画が先にある。でも音が編集替えを要求するなんてこともあったかもしれない。音によって3つのエピソードは境目が無くなり一つの塊となる。信じることと疑うことのゴチャマゼの巨大な塊。

 

誰が犯人でもおかしくない。映画はそのミステリーで引っ張っていく。

愛子は人とは違うと同時に無垢の意志を持つ。信じ疑った極限で発する透明なオーラ。宮崎あおいが観音様に見えた。

藤田も大西を疑った。大西を兄の様に慕っていた薫 (高畑充希) が話す喫茶店のシーン。大西は藤田という存在が出来たことを嬉しそうに語っていたと話す。たったワンシーンだが高畑充希が印象深い。ここの音処理、喫茶店のノイズが段々無くなり台詞だけとなる。台詞と台詞の間の無音がこんなにも圧迫感のあるものとは。息詰まる。藤田が外に出るとスーッと蝉の声やらノイズが戻る。

人をどこまで信じられるか。藤田も愛子もそれを全うし切れなかった。大西も田代もそれを解っていた。でも一時社会の中に自分の場所を得た夢を見た。

沖縄の話は重い。決して今の沖縄の置かれた状況を訴えることが目的ではない。”怒り”の為に沖縄の状況を借りているだけだ。がしかし、”どうしようもない怒り”の度合が高過ぎる。それに遭遇してしまったのが田中だ。この男の屈折は尋常ではない。それだけ怒りが溜っており、引火もし易いということだ。田中を信じていた辰哉に ”怒り” が飛び火する。

 

音楽はほとんどPfのソロで、ゆっくりとしたコードにシンプルなメロがのる。3拍子だったり4拍子だったり。その後ろにSynのパッドが這う、時に高音の歪んだような音で。サスペンスと疑念。

前半は選曲で充てたと思われる。少なくともPfの曲はきっとそう。台詞のずり上がりずり下がりと複雑な編集の中で上手い充て方をしている。ゲイパーティーやコンビニのBGM等の既成曲も演出の音楽としてしっかりと役割を果たしている。

ケアハウスの廊下から入るPfの練習曲、アレ? と思ったら次のシーン、公園に面した家の窓にPfを練習している女の子がいた。母親が見て見ないふりをしてカーテンを閉め、Pfは止まる。あとのシーンの音楽をずり上げて付けていたのだ。この辺も上手い音の演出だ。

後半、疑念が膨らんでいくあたりからは弦が加わる。こちらはかなり細かい充て書の様。曲は練習曲の様にシンプルだ。アルペジオの曲をエンドロールで2Cellosが演奏している。

総じて音楽は優しい。言い換えればメロがあるということだ。音楽が果たしている役割は大きい。

三浦貴大が ”指紋鑑定が出ました” と言うシーン。観ているこちら側には犯人とも違うとも解らない。叫びを上げる愛子の画。そこにSynの弦で音階の様に単純な音楽がこれ以上無いボリュームで入る。この音楽にちょっと引っ掛った。これを確認したくて二度観をした(9.24 Tジョイ大泉)。これで良い! と思った。

(関係者より聞いた。Syn弦ではなく、生弦の12型とのこと。我が耳いい加減です)

 

この映画の素性の知れない3人の様に、誰に当ってよいか解らない、そんな思いを抱えた人間が沢山居る。社会に居場所を持たない者は勿論、居場所を持つ者でもやり場のない思いを抱えている。形に出来ない思い、例えば「辺野古基地反対」というスローガンにすると零れ落ちてしまう様な思い。

うんと引きで見た時、その原因は概ね格差社会という言葉に集約されるかも知れない。しかし寄りで見りゃ一つ一つはみんな違う。原作の吉田修一と李相日監督は「悪人」に引き続きこの形に出来ないものに形を与えるべく挑んだ。よりリアルな現実を表現として形にするには具体的なケースを並べるしかない。一つだけを掘り下げるのは「悪人」でやった。二つで塊とは言いにくい。3つ並べて初めて”怒り”という塊になる。個別であると同時に大きな”怒り”の塊を作り上げた。

 

ラスト、警察の取調室で犯人を知っているという男が腑に落ちるような説明をする。これは必要だったか。多分エンタメにするにはこの位解り易く腑に落ちるようにしなければならないのだ。その為、犯人が分かってからエンドまでがちょっと長い。出来ることならこの男を出さずに納得させて欲しかった。ここを簡潔にして大ラスの泉の叫びになれば。

重箱のスミだが、大ラスの泉の叫びの画、叫びのピークでCOではなく、叫び終わって一呼吸あってからCOとなっている。この辺は好みの問題だが…

 

良い映画は役者がそれ以外考えられない位みんな適役に思える。この映画は正にそうだ。みんな素晴らしい。ひとりひとりの素晴らしさを言い出したら切りがない。主要人物はもちろん、ちょっとだけの池脇千鶴も圧倒的存在感だ。スター揃いの中で一人違和感を放ちつつアクセントを付ける辰哉の佐々本宝もそうだ。儚げなゲイの綾野剛、僕が今年観ただけでも「リップヴァンウィンクル~」があり「64」があり「日本で一番悪い奴ら」がある。何という役者か!

 

監督. 李相日   音楽.坂本龍一  

 

(初めてネタバレに注意した)

2016.9.14 「セトウツミ」 テアトル新宿

2016.9.14「セトウツミ」テアトル新宿

 

映画にはこういう可能性もあったのか。

漫才のようなやり取りをそのまま映画として映し出す。カメラも基本は二人を正面から映す。もちろんそれだけでは持たないので、時々は後ろ斜めから撮ったり、ゆっくりとした移動もある。が、基本は公園の階段に座る二人、その後ろをひとが通ったり車が通過したりする。

瀬戸(菅田将暉)、サッカー部のエースだったが怪我をして退部、ポッカリ空いた時間、やることがない、ネアカ。内海(池松壮亮)、成績優秀、理屈屋、クール、ちょっと人を見下すような、授業が終わって塾までの間の1時間半の潰し方を模索中、ネクラ。ともに高3か。

この二人が川岸の公園の5段程の階段で出会う。毎日決まった時間に石段に並んで座って、とりとめもない会話をする。映画はそれを第一話、第二話、と言う様にブツ切りで6つ並べる。

会話は大体瀬戸が言い出し、内海がそれを理路整然と整理して返し、それに瀬戸がムカつく。

お前、俺のこと、どっかで見下してんのとちゃうか? それでも決して喧嘩にはならず、また翌日同じ時間に同じ場所で同じような会話を交わす。

会話はひねりが効いている。決してストレートでは返さない。ひねり具合はかなり高度でシュールでさえある。それを独特の間でやり取りする。言葉は今の高校生の会話そのもの、台詞的に整理などしていない。それを、特に瀬戸が本当に自然に話す。やり取りに飛躍や突然のすり替えなどがあるので、見ている方は相当集中する必要がある。やり取りに慣れてくると下らない事が面白く感じられてくる。これは笑いとしては相当洗練されたものだと思う。

もしかしたら映画館でしか笑えない種類のものかもしれない。暗闇と大きなスクリーン、感度は日常の10倍位上がっているか。それだからこそ感じられるデリケートな笑い。茶の間のTVでは気の抜けたサイダーの様だ、きっと。映画館でしき成立しない笑い。こういう映画初めてである。

瀬戸が好きなクラスのマドンナ、彼女は内海が好きだ。でも内海は関心無し。瀬戸と彼女と内海の携帯メールを使ったやり取りも面白い。

 

音楽はド頭からタンゴがカットイン。大阪の運河を主観移動して階段の二人まで続く。会話が始まると音楽はない。第一話の終わりにブリッジとして入り第二話に繋げる。音楽はエピソードを繋ぐブリッジとしてのみ機能する。輪郭や句読点として角張ったタンゴが実に効果的だ。おそらくこの映画、音楽はこのタンゴ1曲だけでまかなっている。充分である。

 

菅田将暉池松壮亮も自然で何気ない風ながらかなりの演技力を要求される役をしっかりこなしている。この二人がしっかりしないことには映画は成立しない。大変なプレッシャーだったと思う。演じている二人はこれが面白い映画になるかどうか、解らなかったのでは。それはきっと監督も同じ。大丈夫、とっても笑える良い映画になっています。

菅田将暉、久々に意味なく殺されて様になる役者の登場である。

 

これから二人は社会の中で何者かにならなければならない。まだ何者でもない二人が交わす何気ない会話。これは黄金の時間だ。人生の中で奇跡的に訪れるそんな時間。二人はそれを共有する。悠久の時間の中で、こんな時間と出会いが持てた、二人はなんて幸せなんだろう。

 

監督.大森立嗣          音楽.平本正宏

2016.9.14 「超高速! 参勤交代 リターンズ」 新宿ピカデリー

2016.9.14「超高速! 参勤交代 リターンズ」新宿ピカデリー

 

前作に引き続き、娯楽映画の王道を守って絶好調。話は単純、登場人物のキャラも上手く色分けされ、それに個性ある役者をはめれば、話は自動的に転がっていく。そう持って行った脚本監督は中々の職人だ。かつての娯楽時代劇映画をテンポアップして今風にリニューアルした痛快な映画、こういう映画、好きである。

藩主内藤役の佐々木蔵ノ介、財布を預かる西村雅彦、使い手の寺脇康文、料理上手な六角精児、猿と一緒の柄本時生、可愛い弓の達人知念侑季、小さな娘の手を引くさすらいの忍者伊原剛志、江戸詰めの上地雄輔七人の侍よろしく皆得意技を持っており、見せ場がある。将軍吉宗の市川猿之助大岡越前古田新太、悪役・陣内孝則渡辺裕之、みんな楽しそうに演じている。

紅一点のお咲役・深田恭子、久々のお姫様女優の誕生。女優数多居れど、文句なくお姫様を演じられるは深キョンを置いて無し。お姫様を演じられるのは私以外に無い! と深キョンは胸を張るべし。おっと忘れた富田靖子、とっても綺麗なおばさんになった。

いつもながら、今にも死にそうで死なない神戸浩(百姓)の台詞を聞くと何だか嬉しくなる。

目線はいつも民百姓と共にあり。藩主とは、つまりリーダーとは斯くあるべきという筋もしっかりと通る。

一万五千石にしては立派過ぎる城、将軍暗殺の企てといういささか粗っぽい筋立て、いとも簡単に城を乗っ取られた、エッ? 棺桶から転がり出た二人、いくら何でもバレるでしょう、突っ込み処多々あるも、それは無粋というもの。映画に辻褄合わず、話が無理、は付物。それを納得させてしまうのが演出。

 

音楽、周防義和、こんなにも映画音楽のツボを心得たかと感心した。弦、リズム帯、木管Perc、バンド系の人なのでアレンジはシンプル、それがこの映画に合っている。城の外観が映ったり、大きな政治向きのシーンには、スペクタクルで大仰な弦が格調を添える。いざ出発!となればリズム帯がなる。前作よりも増えた殺陣のアクションにもマリンバの入るリズム帯、どれもジャストで入りへんな溜めは作らない。明解で解りやすい。その上、一貫したテーマメロがしっかりとある。ちょっと民謡風というか和系のマイナー、でも決して重くも暗くもならない。このメロを上手く料理して内藤とお咲のラブシーンにも生かす。

カメラが悪党陣内に寄るとちゃんとFG(?) がメロを取ったりして、細かい合わせもやっている。かつての映画音楽の技法をテンポアップして今風にリニューアルした真っ当な映画音楽。こういう映画音楽は久々だ。

エンドロール、斉藤和義のロックは合わなくはないのだが、ちょっと浮いていたか。

考える映画も良いが、口開けて楽しめる映画も良いものだ。

時々入る猿のカットが絶妙。

 

監督.本木克英    音楽.周防義和   主題歌.斉藤和義