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映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.6.20 「ズートピア」 (吹き替え版) 新宿ピカデリー

2016.6.20「ズートピア」(吹き替え版) 新宿ピカデリー

 

アニメとミュージカル (舞台も映画も) はどうも好きになれない。友人から、“いいから見てみろ”と言われて見た。感動してしまった。

セルにしろCGにしろ、どちらの質感も好きではない。これはCG。長足の進歩で、より実写に近くなっているも、やはり違和感。

だが、そんなこと思っていたのは初めの内だけ。圧倒的なストーリーの見事さ、志の高さ、それを技術が支えて一気呵成、完全に引き込まれてしまった。正にアニメでしか表現出来ない世界。

肉食動物と草食動物がDNAを超えて共存する世界を作る話である。それを小さな女性 (雌とは書けない) のウサギ・ジュディを通して描く。ネズミもいれば像もいる、ライオンもいればナマケモノもいる。大きさスピード獰猛度、違いの幅が有り過ぎる。それを種を超えて、全ての動物が共存する理想郷、“ズートピア”にするのだ。それは一途なジュディが,図体のデカい男社会の警察の中で一人前の警官へと成長していく物語でもある。それを色んな動物を登場させて面白おかしくハラハラドキドキさせながら解りやすく描いてくれる。よくぞこんなストーリーを考え出したもの。勿論一人ではない。才能有る人々の知恵の結晶である。

そこには明らかに人間社会が投影されている。人種、民族、宗教、貧富、これらを超えて共に人間として共存する社会 “ユートピア”、それが遥か遠いものだからこそ、“ズートピア” に余計熱いものを感じるのだ。

田舎から一人都会に出てきて、隣の声が丸聴こえしてしまう小さなアパートで一人暮らしを始める、希望に燃えるジュディ、かつての健全だった頃のアメリカ映画のパターンである。やがて現実の壁にぶつかり、少しずつ悪に染まっていく…、実写映画はそうだがアニメは違う。純粋一途は壁を突き破る。

ジュディは行方不明者を救出し手柄を立てる。その記者会見で、何かの切っ掛けで肉食動物が本来持っているDNAが目覚めた、と発言してしまう。肉食動物は本来獰猛なのか、肉食動物というだけで獰猛と思われるのか、差別だ!  バッシングの末、ジュディは警官の職を失う。みんな仲良くやれると思っていた自分の中に、肉食動物は本来は獰猛である、という先入観があった。差別があった。

しかしそれは事実だ。平和な社会生活を営む為にDNAに刻まれた動物本来の習性は抑え込む必要がある。この“無理”はどこかに歪みを生む。だが生きていく上で“無理”は付物だ。これを如何にソフトな形でコントロールするかが政治なのかも知れない。ジュディは真実だからと言ってストレートに語ってはいけないこともあることを学ぶ。政治を学ぶ。

アニメでは、青い花のエキスを撃ち込まれると抑制が失われ野生が目覚める、というシンプルで解りやすい話に落とし込んでいた。それを裏で取り仕切っていたのは副市長、ジュディの一番の理解者であったはずの、小さい女性の羊、弱者だった。弱者の屈折した感情が犯行を引き起こしていた。人間社会の投影が上手い。

 

一人一人はみな違う。違いの上に大きな共通の括りがある。大きな括りに目を向けるか、違いの方に目を向けるか。80年代(?)「宇宙船地球号」という考え方があった。人間も動物も植物も、地球上の生物はみんな運命共同体という考えだった。主に環境問題で使われた考えだったが、人種や民族や国家や宗教にも当てはめて考えることが出来る。みんな違いを超えて共通に目を向けた。それがいつ頃からか違いばかりを見る様になった。違いの強調は分断化と対立を限りなく生み出す。世界は今、間違いなくそっちの方向に向かっている。

アメリカでも違いを強調した対立の構造は蔓延している。違いの強調は人々を煽動する。政治はそれを巧みに利用する。そんな時、アメリカからこんな素敵なアニメが誕生したのだ。動物たちがあんな理想郷を作り出したのだ。適わぬ夢でも少しでもそっちへ向けて努力しなければいけない。こんな素朴なメッセージを子供も大人も楽しめるアニメという手段で伝えてくれたこの作品に感謝! である。

音楽はハリウッド映画音楽のノウハウを総動員、映像に合わせて殆ど完璧。クラシカルな大編成もあればサンバもポップスもある。メインの歌のメロディーが今一つなのがちょっと惜しい。吹き替えの日本語詩は良いとは思えなかった。一度だけの鑑賞なので確かなことは言えないが。

肉食動物の野生を呼び覚ましてしまう青い花、“オオカミの遠吠え”とは何なんだろう。

多分“怒り”の感情。

 

監督.バイロン・ハワード、リッチ・ムーア  音楽.マイケル・ジアッキノ 

主題歌.シャキーラ