映画と映画の音楽  by  M・I

音楽を気にしながら映画を観る、そんな雑感

2016.9.12 「太陽のめざめ」 シネスイッチ銀座

2016.9.12「太陽のめざめ」シネスイッチ銀座

 

16歳のどうしようもない悪ガキ・マロニー(ロッド・バラド)。6歳の時、母親に捨てられた経験を持つ。その時担当した判事がカトリーヌ・ドヌーヴ。10年を経て今ドヌーヴと再会する。母親は相変わらず荒んだ生活をしているがマロニーとは一緒に暮らし肉親としての絆はある。弟もいる。

判事は何とか更生させようとする。刑務所行きを少年更生施設扱いにしたりして。それでもマロニーは結局ダメで、挙句は泣きながら母親に電話したりしている。人のせいにばっかりする。もっと酷い現実はいくらでもあるだろうに。こんな甘えた白人の悪ガキ描くより移民の悲惨はゴロゴロしているだろうに。

かつてはワルだった指導教官やら最後まで見捨てない判事やら、純情な彼女が出来て妊娠させて子供が出来て、それで更生するやら、俺には仲間が居るなんて最後に呟くやら、どう見てもこの映画、ズレてる。

ドヌーヴはさすがの貫禄演技、時に奈良岡朋子を彷彿させるような表情をする。悪ガキも新人にしては健闘だ。しかしこの映画、フランス不良少年更生事業はこんなにも本人に寄り添い忍耐強くきめ細やかにやってますよ、というアピール映画にしか見えない。エスタブリッシュと化したオールドリベラルがさも私たちはリアルな現実を解っていますよと頭の中だけで作り出した映画。そんな風にしか見えない。

ネットを見たらカンヌ映画祭のオープニング!ドヌーヴへの気遣い? それとも政治的何かでもあるのか? ブーイングは起きなかったのか。ドヌーヴだから起きないか。

 

音楽は多分みんな既成曲。カーラジオだったり現実音としての扱いがほとんど。クラシックだったりラップだったり。劇伴にあたるものは無い (と思う)。ラスト、子供を抱えてマロニーが警察の廊下を歩くシーン、ソプラノのクラシックっぽい曲が取って付けた様に流れて感動を無理矢理作る。そのままエンドロール、その曲が終わるとアニメ声の女声のラップ。ラップ流せば今風、というレベルの低い音楽センス。

 

原題 La Te”re haute  仏語解らず。直訳すると ”高い頭” らしい。多分判事のことを指して、「志の高い人」「高貴な人」くらいの意味なのだろう。それがなんで「太陽のめざめ」なんだ。

「太陽」という言葉は僕ら団塊にとっては、「太陽がいっぱい」だったり「太陽はひとりぼっち」だったり「太陽は知っている」だったり「太陽のかけら」だったり「太陽は傷だらけ」だったり、邦画では「太陽の季節」だったり「太陽の墓場」だったり、青春,反抗、欲望、のイメージだ。「太陽を盗んだ男」(これは原子力)とか「沈まぬ太陽」とか「下町の太陽」とか、これは”希望”の象徴、なんてのもあったが。

フランス映画で ”太陽” とくれば、つい ”青春、反抗、欲望” をイメージする。その思い込みを利用したか。

洋画の邦題は、直訳,意訳、オリジナル邦題、と色々あって自由だ。かつては「勝手にしやがれ」という名邦題があった。映画の持つ雰囲気をグワッと鷲掴みにして日本語として吐き出す、詩心があった。

内容と関係なくたって良い。騙される方が悪い。宣伝マンとしてはしてやったりだ。「太陽のめざめ」、この邦題、見事な詐欺心。

亡くなった筑紫哲也が洋画の邦題の賞をやっていた。この邦題を付けたおかげでヒットした、という賞。映画を愛し言葉に拘る、良い賞だった。ご存命だったらこの邦題を何と言っただろう。

 

監督.エマニュエル・ベルコ   音楽家クレジット、チェックし切れず